「学力低下」しないための「学習法」とは。
「この通りにすれば、どんな大学にでも合格する」などという言葉は信じてはいけません。
塾の先生、予備校講師、東大などに合格した先輩に子供が憧れる、というのはよくあることです。でも、それはたいていの場合、「先生(先輩)自身が子供である」から起こる現象です。
2012年に東京大学を退任された、仏文学者・小説家の松浦寿輝先生は、東大で教鞭をとっていらした時代に、東大生に宛てて「ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴びつづける」という、「恐ろしくも爽やかな」体験が学生にとっての授業であるというメッセージを贈りました(東京大学出版会『UP』2007年5月号所収、「かつて授業は『体験』であった」による)。
松浦先生がおっしゃるように、授業は「わからない」ことを発見する経験であり、学問に対して畏怖と尊敬の念を抱き続けることが学び手にとって求められる、ほとんど唯一の、心構えです。この心構えこそが、学力の源であり、学ぶ力の源泉でしょう。
ですから、子供にとって「わかった」という経験は、ほとんどの場合、彼らの学力を開花させるきっかけとはなりません。子供にとって大切なのは、いくつになっても学問に対して畏怖と尊敬の念を抱き続ける学び手に出会うこと、つまり学び続ける先生に出会うことです。
そのような先生との出会いは、書物を通して取り結ばれる場合もあります。現代思想家で、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの著作をたくさん翻訳された内田樹先生は、ご自身とレヴィナス先生との出会いについて、手に取った"Difficile liberte"という本の内容は「まったく未知の世界のもの」であったが、「その文章を書いている人の『わかってほしい』という熱ははっきり感知できた」と述懐しています。本に「襟首」をつかまれて、「頼む、わかれ、わかってくれ」とがたがた身体を揺さぶられる経験をすることがあれば、それは本を通して大切な先生と出会った体験だ、と言えるでしょう。
カーリルで開くカーリルで開く
「塾講師は、おしなべて本を読まない」と言った人がいます。もし、ある塾講師が本を読まない、あるいは学ばない人間だとしたら、その人が子供に伝えることは「その人が既にわかっていること」でしかありません。そのような内容で構成される授業は、先にあげた松浦先生の言う「体験」の授業の最も遠くにあるものです。
同じように「〇〇だけをやれば、実力がつく」という、子供が陥りがちな発想も、短絡的で危ういものであると言わざるを得ません。それは「わかった自分」が「賢い自分」であると措定いている点で、「ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴びつづける」ような学びの体験を受け取ることの出来ない心と身体の構えを作り上げようとしている、と言えるからです。
さきほど、子供にとって大切なのは、いくつになっても学問に対して畏怖と尊敬の念を抱き続ける学び手に出会うこと、つまり学び続ける先生に出会うことです、と書きました。そのような先生に出会えば、子供たちの顔は間違いなく輝きます。ひとことではとてもわかったとは言えないような、「圧倒的な時間の積み重ね」としての人間の営みにふれたとき、私たちの心は強く打たれます。
2014年のソチオリンピックでフリープログラムの演技の最後に浅田真央選手が見せたあの姿が、見る人の心を強く打ったのは、そのためです。あの瞬間に浅田選手は、芸術表現に対して過去のアーティストが積み上げてきた「圧倒的な時間の積み重ね」に対して、美しく、そして正しく頭を垂れました。その彼女の姿が世界中のスケーターや観客の心をふるわせたのです。「圧倒的な時間の積み重ね」に対して謙虚に頭を垂れる人の発する力は、すべからく人の心と身体に届きます。そしてその力は人を正しく成長させます。
そのような体験がみなさまに贈られますように。子供たちの学びの扉が、そのようにして開かれることを願ってやみません。穎才学院のスタッフは決して「この通りにすればどんな大学でも合格する」などと言ったりしません(そもそも、この表現は日本語として壊れていますが、そのようなことを言う「受験勉強上手」止まりの人間が、実際に世の中にはいるのです。しくしく)。「この通りにすればよい」というのは、相手の生きる力を奪う「呪詛」です。
それはアーシュラ・K・ル=グウィンの物語やダイアナ・ウィン・ジョーンズの物語を読めば、よくわかります。そのような上出来の物語は、子供たちに、生きる上で何が邪悪で何が大切なのか、ということをていねいに伝えます。私たちが生きる上で大切なことは、その都度丁寧に考えるという姿勢です。世界をよく観察し、過去の経験を参考にしながら、丁寧に世界と関係を取り結ぶ技術が教養です。私たち、穎才学院(えいさいがくいん)のスタッフ一同は、そのような思いで、東京の片隅でコツコツと仕事を積み上げております。
本番の総合的な記述問題に対応するために、東大受験生は手を動かして、口を動かして、身体を使って学習します。この「身体で(身体を使って)学習する」という身体感覚は、大学受験に限らず、資格試験や国家試験の対策でしっかりと勉強した経験のある人なら、誰でも解るものだと思います。赤ちゃんが言語を習得するときは、親の身体の動きに自分の身体の動きを同期させます。スポーツの練習も、コーチの身体の動きに自分の身体の動きを同期させます。そうすると「身に付く」のです。世間で多く売られている「東大生の~は、必ず美しい」本や「東大生だけが知っている~」本、「東大式~」本の内容は、ほとんどがこの身体感覚を説明したものです。問題は、それが本を通して理解できるだろうか、ということです。少年野球に例えるなら、少年野球の解説本を読んで少年がカーブやスライダーを投げられるようになるだろうか、ということです。多分、無理です。それは、お手本とする身体が目の前に無いから、無理なのです。文字だけでは伝わらない実力を「身に付ける」感覚を学んでください。
勉強法の基礎はすべて同じです。それは、東大現代文の対策でも同じです。
養老孟司先生の本に『バカの壁』がありますね。この「バカの壁」というのは、「何しといたらいいんですか」「何を勉強しとけばいいんですか」というような「合格最低点を狙う」学習の姿勢です。神戸女学院大学で長らく教鞭をとられていた内田樹先生は、この合格最低点を狙うという姿勢を現代の中学校・高校の多くの学生が無意識に採用していると指摘します。
内田先生の指摘はさらに続きます。これは、学生のみなさんの資質の問題ではありません。受けてきた教育の問題だと先生は述べています。例えば、学校の先生が「自由に考えなさい」、「自由に発言しなさい」と言うのを聞いて、学生が自由に考えを述べたり、自由に発言したりすると、カリキュラムから逸脱しているからだとか、学生として不適切であるからだとかいった理由で、頭ごなしに否定されることがあります。こういうことをされると、生徒は深く傷つきます。そうすると、2度と自分の本当の考えは大人に見せないと生徒は考えるようになります。見せてはいけないのだ、だって怒られるから、となるわけです。こうして、先生や大人がいうことをそつなくこなして合格などに必要な最低限の評価を得ようとする姿勢が身に付きます。こうなると、その人は考えることをだんだんやめてしまいます。だって、相手の評価基準を見抜いて、ほかの人より少しだけ良い評価を得ればよいのですから。手抜きをするようになるのです。
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「成績の上がる勉強」=「いつも限界に挑戦する勉強」
勉強をするとは、いつも限界に挑戦するといいうことです。養老先生の言葉でいえば、自分の中の「バカの壁」、自分の中の「凡庸の境界線」を超えていくということです。「これくらいでいいや」という気持ちを捨てて、夢中になって挑戦するということです。これは、中学受験でも高校受験でも大学受験でも同じです。一生懸命に中学受験に取り組む生徒たちがいる塾の教室にも、大学受験に懸命に取り組む学生たちがいる名門校の教室にも、同じ空気があふれています。その空気は、限界を超えようと頑張る生徒たちがかもしだす雰囲気なのです。
「お互いに迷惑をかけあってもよい」という柔らかな空気の「ホーム」的な私塾が必要。
「いつも限界に挑戦する勉強」を行おうとすると、カリキュラムで学習進度をパッケージングしたり、フランチャイズ化した教室展開でマニュアルに沿った指導を行おうとしたりすることは、難しくなります。これは当然のことです。むしろ「いつも限界に挑戦する」人が集まると、いろいろな問題が起こって、その都度それを解決するために心を砕き手間をかけねばなりません。これも当然のことです。成長しようとする人、つまり未熟な人たちが成長するためには、世話をやいてくれる人がそこにいなければなりません。このような人たちがいるところを漢語では「家」といい、英語でも「home」といいます。オックスフォード現代英英辞典によれは、「home」の説明には「a place where people who cannot care for themselves live and are cared for by others(自分で自分のことができない人たちが暮らし他の人に面倒を見てもらう場所)」とあります。これこそ、現代の教育に必要な場所だと思います。学校にいくと私たちは、自分で自分のことをしっかりとするようにと教えられるのですが、たいてい学校には面倒事をおこしたときに世話を焼いてくれる先生がいて、そういう先生ほど大人になってからも私たちの記憶に残っているものです。
「ホームの役割を持った私塾」が自然発生的に、同時多発的に拡がっている。
前述の内田樹先生は、ご自身のHPで「地域における共同的な子育てや、『寺子屋』的な教育拠点の構築、あるいは弱者の相互扶助のための親密圏の構築、そういった運動が自然発生的、同時多発的に拡がることがいまの日本の窮状を救うために喫緊に必要である。」と説明しています。実際に2007年に当時の内閣官房情報室から、この内容について先生のもとに問い合わせがあったそうです。内閣官房情報室といえば、日本のCIAです。政府のブレーンが「寺子屋」的な私塾の必要を感じていた。手元に正確な情報はありませんが、私の実感ではこのような共同的な子育ての拠点や相互扶助的な組織は、全国で草の根のように拡がっているように思われます。
学生がとことん勉強できる塾を提供したい。
穎才学院では、お子様がのびのびと学習にとりくみ、一生懸命に限界に挑戦するという環境を提供したいと考えています。講師がお子様に完全に1対1で指導を行うので、授業の間お子様は講師を独占できます。東大生の中から、塾での指導に高いモチベーションをもった人を講師として採用していますので、学校の学習から受験勉強まで、どんなことを質問しても講師がしっかりと答えてくれます。勉強が苦手なお子様にも、講師が1から丁寧に指導します。夏休みの合宿や冬休みの大晦日特訓では、みんなで食事を共にしたり、レクリエーションを行ったり、共同生活を体験します。塾の面接スペースには、2005年からの合宿の写真が掲示されていて、塾に見学にくるお子様や保護者様に好評です。子どもたちの自然な笑顔や一生懸命に学習に取り組む表情は、自然と見学にいらした方の目を引くようです。
東大現代文対策の基本とは。東大受験の基本とは。
受験の対策というと、学校のテスト対策とは別のものと考えがちですよね。しかし、定期テストや学校配布の問題集をマスターすることが、受験で合格を勝ち取るための近道だと思います。たとえば、ある進学校では「学校の定期テストで平均70点以上をとれば、大学受験はどこでも現役合格できる!」と言っているそうです。その学校の出身者から詳しく話を聞いてみると、平均70点以上をとっていた友達は、本当にみんな国立大学や医学部医学科に現役合格したそうです。話をしてくれた本人は、なかなか70点以上の得点を取ることができなかったそうですが、東京大学に現役合格しています。もちろん、どの学校でも70点以上とればよいという単純な問題ではありません。しかし、学生にとり勉強の中心は学校ですから、学校の勉強が上手く進んでいるということはとても大切だと言えるでしょう。
「ノートの取り方」を身に付けることはなぜ大切か。
近年、アップル社の「iPad」をはじめタブレット端末が流行しています。同社の「iPhone」をはじめとしたスマートフォンも携帯電話業界で大きなシェアを占めています。実際、電車に乗ると座席に座るほとんどの人がスマートフォンかタブレット端末を使用して何かをしているという姿をよく見かけますね。では、これからはアナログな本やノートよりもデジタルな端末を利用した読書や記録の方が重要となるのでしょうか。
このページで何度もご登場をいただいている内田樹先生は、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本を書いていらして、この本はこれまでに13万部ほど印刷されています。この本が文藝春秋社から電子書籍化されて、ダウンロードして読めるようになったそうです。さあ、いったいどれくらいの売り上げがあったのでしょうか。内田先生のもとに届いた封書に記された電子版『寝ながら学べる構造主義』のダウンロード数は、「8」だったそうです。振り込まれた印税は「68」円。「封筒に貼ってあった切手のほうが高い」と先生はおっしゃっています。(『街場の文体論』ミシマ社より)
一方で、日本経済新聞社系の情報雑誌では「電子書籍利用率、タブレット端末保有者では約4割に」という記事が掲載されました。では、いよいよ電子書籍利用が流行しはじめたのか、というと、そうではないようです。
本やノートの「厚み」が大切。
前述のタブレット端末における電子書籍の利用については、詳しいアンケート調査で、「仕事の資料は可能な限り電子書籍」、「英語のコンテンツを読む場合は、辞書と一体化している電子書籍が読みやすい」、「鮮やかなビジュアルや動画があり、なおかつ鮮度の高い情報は電子書籍」など、デジタルデータとして資料等へ引用しやすいことや他の機能と組み合わせて利用することを考慮して利用者が電子書籍を選んでいることがわかっています。同じアンケート調査では、「何度も読み返すと思われる本は紙」、「大事にしたい本や家族にも読んで欲しい本は紙」、「人生に影響を与えるような本は紙。電子書籍で読んですばらしい本は紙で買いなおすこともある」というように、自分にとって特に価値のある場合は「もの」である紙の本で大切に保管したいと考える人が多いという傾向が明らかになっています。
ここで注目したいのは、「大事にしたい本」や「すばらしい本」は紙の本でなければならないという点です。大切な本には、厚みがなくてはならないというのが内田先生の説明です。どういうことなのでしょう。
もうすぐ終わってしまうものは、どうして切ないのか。
夏休みに大好きな本を読んでいて、夏休みの終わりごろになりその本が終わりに近づくと「ああ、あと少しでこの本を読み終えてしまう。」となんだか切ない気持ちになるものです。こういった気持ちは、本に厚みがあって、右手と左手で本を開きページをくりながら、左手で残りのページ数を感じ取ることができるからおこるのです。読書好きな人にはきっとわかると思うのですが、いくつになっても読むのが残念に感じられる本というものはあります。そういった本は、ちびちびと読むのです。夏休みの終わりに本を読んでいるときにも、これと同じことがおきています。本を読む人は、本の厚みから残りの本のページ数がわかるから本を愛しみ、また夏休みがあと何日で終わるかも解っているから、あとわずかな夏休みを愛しく思うのです。
故郷は遠きにありて思ふもの → 「記憶」の秘密。
ノートを取っているときにも、同じことが起こります。ノートを使って勉強していると、だんだんそのノートの終わりの方にくるにしたがって、あと少しでこのノートも使い切ってしまうなという愛しさが湧いてきます。そして、そのノートを最後まで使い切ると、ノートはその人にとっての宝物になります。忘れられない思い出になるのです。これは、あれほど大嫌いだった中学や高校が、卒業した途端に懐かしく感じられるようになるという気持ちに似ています。私たちは、何かをしている最中にではなく、その何かが終わってしまったあとにその大切さを実感するのです。そして、その実感は身に染みて、忘れられない思い出となります。これが「記憶」です。
「故郷は遠きにありて思ふもの」と詠ったのは、室生犀星ですね。離れているからわかる大切さ、でも物理的には停車場から汽車に乗れば故郷に帰ることができる、というこの関係性が「記憶」にはとても大切です。離れているけど、少し手間をかければいつでもその世界とかかわることができるように手続きをふんでいるということ、これが人間の「記憶」に関わる根源的な仕組みです。
「お墓参りをするということ」は「ご先祖さまを忘れないということ」。
私たち人間は、身近な人がなくなると葬儀をいとなみます。これは、あらゆる文化において文化の初期から見られる慣習だそうです。なぜ、私たちは葬儀をいとなむのでしょうか。
そんなの当り前こと考えても仕方がない、という方もいるかもしれません。けれども、少しだけお付き合いくださいね。当り前のことについて考えるということは、とても大切なのです。
葬儀をしないと、亡くなった人が化けて出てくるから、というのは良い答えだと思います。そうなのです。ちゃんと葬送の儀礼をつくさないと人は化けて出てくるのです。化けて出てくるのですから、いつ出てくるのかわかりません。お化けですからね。お化けはいつ出てくるかわからないから怖いのですから。
きちんと葬送の礼儀をつくすことで、私たちは亡くなった人が化けて出てこないようになると信じています。いつ出てくるかわからない、ということが無くなるのです。いつ出てくるかわからないということが無い、ということは、いつでも思い出したいときに思い出せるということですね。朝起きて家を出る前に仏壇に手をあわせたり、大切な試験の直前に「天国のおじいちゃん見守っていてね」とお願いしたりすることができるのです。
「ノートを大切にするということ」は「ノートに書いた内容を忘れないということ」。
みなさんはもうお分かりですね。「ノートを大切にする」ということも、これと同じです。ノートを大切にすると、ノートの中に入っているもの、つまり勉強した内容をいつでも思い出したいときに思い出せるようになるのです。大切な試験中に、「大切なノート」の力を借りることができるのです。
私たちは「記憶」について、私たちの頭の中にある情報というような認識をしているかもしれません。しかし、「記憶」というのは私たちの身体の外側からおりてくるもので、それを用いるということは、ちょうどご先祖様や自然の力を少しだけお借りして、それを身にまとうという感じです。「こいつ何だか不思議なことを言っているぞ。頭おかしいんと違うか。」とお感じですか。そういう方もおられるかもしれませんが、「記憶」が身体の外側からおりてくるという感覚は、少し集中して学習や身体動作の訓練をしたことがある人にはとてもなじみ深い感覚だと思います。
音楽やスポーツに例えてみましょう。
音楽の訓練を集中して積んだことがある方は、演奏中に譜面上でその少し先の小節のフレーズを先取る、という感覚はなじみ深いものだと思います。よくわからないぞ、という人はTEDというカンファレンスのウェブサイトにアクセスしてベンジャミンサンダーという音楽家の「音楽と情熱」というレクチャーをご覧になってください。20分ほどの内容です。すごく楽しめると思います。
スポーツで身体的な訓練を集中して積んだことがある方も、競技中にその少し先の身体感覚を先取りする、という感覚はやはりなじみ深いものだと思います。サッカーの世界では、そのような能力をもったプレイヤーのことを「ファンタジスタ」と呼ぶことがあるそうです。アメリカンフットボールのQBにも、少し先のチームの動きを先取りするという感覚は欠かせないそうです。もっと身近な運動に例えると、大縄跳びもこれと似ています。大縄跳びでは、足元にまだやってこない縄の動きを上手く先取りして体を動かさないと、きちんと縄を跳ぶことができません。日本の学校でおなじみの大縄跳びでも、少し先のことを身体で先取るという感覚が欠かせないということがよくわかりますね。
少し先のことを感じ取る身体感覚。
このような感覚は、「自転車に乗るときの身体感覚」や「逆上がりをするときの身体感覚」と同じです。学習するときも、この感覚を駆動させることが重要です。計算をしながら、着地点をしっかりとイメージする感覚は「計算力」と呼ばれます。文章を読みながら、その着地点をしっかりとイメージする感覚は「読解力」と呼ばれます。試験中に、試験の終わりの解答用紙のありさまをしっかりとイメージする感覚は、テストでの実戦力とでも呼ぶのでしょうか。
10年前に比べて、私たちの生活にはデジタル・メディアが多く取り入れられるようになりました。携帯電話・スマートフォン・タブレット端末の普及率の上昇だけでなく、正確な調査結果は把握していませんが、現代の10代・20代の方たちは10年前の10代・20代と比べて、おそらく膨大な時間をインターネットの利用などデジタル・デバイスからの情報収集に費やしているはずです。
キキちゃんは、どうして「魔法を失う」のか。
宮崎アニメで有名な『魔女の宅急便』では、女性主人公のキキが魔法を失うという場面がありますね。人気のあるアニメ作品なので、ご覧になる方によって解釈もさまざまでしょうが、この場面は身体感覚の喪失のメタファー(比喩)であると解釈することができます。わたしたちは、子どもから大人に成長するとき(キキちゃんの場合は女の子から少女に成長するとき)に、どこかで大切な感覚を失ってしまうことがあるのですね。それは、葛藤のなかで取り戻されることもあるのですが、取り戻されたとしても元通りには回復されません。大人になる過程で、こうした喪失の体験を誰もが経験すると思います。
もちろん、この喪失の体験とは、痛みの伴う生身の体験です。ですから、デジタル・デバイスを通したバーチャルな世界では絶対に体験できない。日本を代表するアニメーション・クリエーターの宮崎駿氏をして、子どもがバーチャルの世界で成長する物語はいまだ作られていませんし、今後も作られることは絶対にないだろうと思われます。子どもは、バーチャルな世界・デジタルな世界を通しては成長しないのです。それはバーチャルな世界が、身体感覚を得ることも、身体感覚を失うことも、どちらもない世界であるからです。
人は何かを失い、何かと別れて成長していく。
「故郷は遠きにありて思ふもの」と詠った、室生犀星。そのあとで犀星は、故郷とは「うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と言っています。そして、「遠きみやこにかへらばや」と続くのです。「帰りたいんやったら、とっとと帰ったらええやん。そんで『帰るところにあるまじや』とか、どっちやねん。このおっさん、よーわからんわ。」とおっしゃる方もいるかも知れませんね。でも、よーわからんのが人間なんです。私たちが決定的に忘れないものとは、「遠きにありて」そのことを思いながら、絶対にそこに帰ることのできないものであり、また帰りたい(=かえらばや)と思うものなのです。冬ソナのファンの方は、よくわかりますよね。ユジン(チェ・ジウ)にとってのチュンサン(ぺ・ヨンジュン)が、それです。だから、ユジンはあの雪の日にミニョンを見つけて、チュンサンのことを思い出してしまうのです。
記憶とは身に付いたもの。
もう、みなさんはお分かりでしょう。記憶とは、身に付いたものです。身に憑いたものと言ってもいいかも知れません。文字通り「身体に付着する」のが記憶なのですね。また、その記憶を身に付ける過程においては、生身の経験が必要です。若い現役の東大生は、学習における記憶の問題を説明するのに『冬のソナタ』の話まで持ち出すと、このおっさん頭おかしいんちゃうかと思うやもしれませんが、大筋としてこの議論は間違っていません。若い東大生もあと10年か、20年くらい生きて、いろいろな経験を積めばおっさんの言っていたことは、そのおっさんだけでなく世の中のいたるところで繰り返されているモチーフであるということが、よくわかるでしょう。
子どもたちが、思い切り「没頭できる」空間を。
はじめの定期テストの話に戻りましょう。「学校の定期テストで平均70点以上をとれば、大学受験はどこでも現役合格できる!」という進学校の学生たちの話です。きっと、この学校では学習においてさまざまな生身のドラマが繰り広げられているのだと思います。推測ですが、先生方も相当に御苦労があるでしょうし(だって自分よりも若い学生たちと生身でぶつかりあうのですから)、学生たちも相当に「痛い」思いをしているのだと思います。このような体験を経て、「痛い思いをしたのだから、俺は偉い!俺に敬意を払え!」というメッセージばかりを裏に表に発する方は、鼻持ちならない人間になるのですが、中には自分の経験を若い世代のへと伝えたり、世間に還元したりするために身を砕く人たちも多くおられます。そのような方たちがひとりでも増えることを、私は望んでいますし、そのような人たちが集まる場所に穎才学院がなることを望んでいます。
東大に合格するには。「東大バカ」にならないためには。
長い文章に最後まで、お付き合いいただきまことにありがとうございます。この文章を最後まで、読んで下さったあなたには、きっとわかってもらえると思います。東京大学に合格するためだけでなく、私たちが生きる上で大切なのは「身に付ける」という身体感覚を覚えることです。最後まで、この文章を読まれたみなさんが、目先の利益や他人の欲望にばかり飛びつくような種類の方たちでないことは、筆者が保証いたします。長い目でみて、本当の力をつけるために何が必要なのかということを深く考えることのできる方たちです。そんなみなさんは、しっかりと学習すれば必ず力がつきます。ご父兄であれば、しっかりとお子様をみちびくことができるはずです。みなさんが、個人の利益だけでなく、社会の利益に貢献されるためのお手伝いを私たちが出来るならば幸せですし、みなさまが各々の方面でご発展されることをwebページの向こう側から切に願っております。拙文、ご一読いただき、まことに感謝いたします。