1から始める、基礎から始める受験勉強。
お子様の学習習慣・成績をチェックしてみませんか。
お子様の受験勉強でお悩みの方は、以下の10項目についてご家庭で学習習慣や成績のチェックをなさることをお勧めいたします。
1.宿題は一生懸命こなすが、学習成績が良くないように思う。
2.部活や習い事は一生懸命だが、学習成績が良くないように思う。
3.得意科目と苦手科目がはっきりとしている。
4.得意科目が無いように思う。
5.テストは一夜漬けの学習が多い。
6.普段のテストと実力テストで成績の差がはげしい。
7.家庭で学習する姿があまり見られないように思う。
8.宿題や家庭学習のやり残しが多いように思う。
9.志望校選びや塾選びは親が主導で行う方だ。
10.好きなことも、嫌いなこともあまりない子どものように思う。
お子様の受験勉強でお悩みの方で、4項目以上にあてはまると思われる場合は、考える習慣を持つようにお子様に指導することで、状況がガラリと変わる場合がありますので、以下の文章をお読みください。
考えることのできる人と生活すると、考える人に育ちます。
丁寧によりそい、ねばりづよく「待つ」ことが大切です。
「教育」や「学習」の名のもとに、さまざまなことが行われていますが、「考える」習慣を育てるためには、まず「語りかけること」と「待つこと」が大切です。あらかじめプログラミングの施されたロボットと違って、人間はいつ能力が開花するかわかりません。ですから、考える習慣を育てたい場合には、お子様ひとりひとりに合わせたペースで学習をすすめる必要がありますので、1対1の完全個別指導が適当だと思います。
相手の状態にあわせたサポートを行う。『エースをねらえ!』宗方コーチのすすめ
哲学者の内田樹は、『エースをねらえ!』の宗方コーチが説く、良きパートナーのあり方について「支えられない」人間は弱いと述べています。この議論を子どもの学習に展開すると、次のようなことが言えるでしょう。
子どもは「大人を待たせることのできる子ども」になるべきです。また、大人は「子どもの成長を妨げるような愛し方」をしてはいけません。「子どもの成長を妨げるような愛し方」とは、どのようなものかというと、「子どもを支配する」ような愛し方です。このような愛し方と対照的なのが、「子どもの成長を待ち望む」愛し方です。
内田先生は、このような関係性について「自身が不要になる日を逆説的に待ち望む」あり方である、と説明しました。これはちょうど、オスカーワイルドの子どもむけ短編『幸福な王子』(The Happy Prince and Other Tales)に似ています。美しく装飾された像である「王子さま」と「つばめ」は、人々に富を施すために身についている宝石や金箔をさしだします。人々を幸せにした「王子さま」と「つばめ」はだんだんとボロボロになり、ついには人々に見捨てられてしまいます。他者に対して、このような関わり方のできる人はレアですが、実はこれこそが最もクレバーな選択である、と内田先生は説明します。
「私」は「自分の外部にあるもの」によって支えられるという仕方でしか立ち上がらない、というのが哲学的真理であると内田先生は言います。「私」の内側に、「私らしさ」や「強さ」を求める風潮は世間で強いですが、「弱い私」が「私の外側にあるもの」によって確かに支えられている、というのが「大人」のあり方である、と言うのです。物語や映画に出てくる「おばあちゃん」をイメージしてください。『天空の城ラピュタ』のドーラも、『千と千尋の神隠し』のゼニーバも、よき「おばあちゃん」キャラは、物語の中で周りの人にしっかりと仕事の分担をさせていて、それによって支えられています。
子どもは、弱い存在ですから、「私の外側にあるもの」によって支えられながら生きた方が、心地よいですし、危険などからうまく身を守ることもできるはずです。大人は「支えられる」ことが賢いことである、ということを身を持って子どもに理解してもらうようにしなければなりません。何でも一人でできる、というのは必ずしも「強い」ことを意味するのではないのです。
「蛇口から水を注いでいるコップを握る」ことは、難しい?
近年、ロボット開発技術が進歩して、2足歩行するヒューマノイドも制作されるようになりました。このようなロボット開発の中で、難しいのが「蛇口から水を注いでいるコップを握る」ことだそうです。空のコップを握っていると、それに水が入ってきて、だんだん重くなってくる。それに合わせて握力を増していかないとコップは手から落ちてしまうし、握力を増しすぎるとコップは割れてしまいます。内田先生は、このようなコップと手との関係が、人間と人間との関係に似ていると言います。ここでは、「コップ」が子どもで、「手」が大人の比喩になるのです。 そのつど変化する子どもの状況によりそい、あり方を変えてゆくような大人が、子どもの成長には大切です。
「何でも自分で出来ること=自立」という考え方をみなおそう。
「自立」と簡単に言っても、それは独立して生計を立てられるとか、一人暮らしが出来ているとかというのとは全く違います。20世紀の哲学者たちの知恵によると、「自立」とは「やりとりの中に身を置くこと」です。世間では、なんでもかんでもそつなくこなせることを、子どもに求めることがあるようですが、これは間違いです。私たちが生きている世界は「堅牢な基盤」を持つ安定した世界ではなく、「どこにも堅牢な基盤などない」世界です。そのことをよく知っていて、訪れた客の好みに合わせて手持ちの食材で美味しい皿を出す料理人のように、相手との関係をそのつど丁寧に取り結ぶことに長けている人が、「自立」した人であると言えるでしょう。
求められたものをさしだせる、柔軟な知性を。
このような関係では、そのつど相手から求められているものが何であるかをよく理解し、それをうまく提供する(饗する)ために、考える力が必要です。ここでいう「考える力」は、相手との関係を取り結ぶ中で生まれるものなので、「考える力」を育むためには、相手との関係をそのつど丁寧に取り結ぶことに長けている人がいる環境に身を置くことが大切です。このように言うと難しく思われるかもしれませんが、映画『天空の城ラピュタ』で少年パズーが成長するのは、ドーラ一家と関わるからです。ここでは、「相手との関係をそのつど丁寧に取り結ぶことに長けている人」がドーラおばさんです。映画『千と千尋の神隠し』では、少女千尋(千)が成長しますが、ここで「相手との関係をそのつど丁寧に取り結ぶことに長けている人」はリン(千のお世話を言いつけられる女の子)であり、銭婆(ゼニーバ)です。少年少女は、このような相手との関係の取り結びが上手い人に接しながら、自分もそのように振舞うべきだということを身体で感じ、自分自身もそのような関係を取り結ぶことのできる人になるのです。
「雑学」は時間のかからないもの。「教養」は時間のかかるもの。
時間をかけながら、「私」が少しずつ変わっていく。
受験学習のみならず、社会人のトレーニングにおいても、作業の所要時間を計測して「速く・正確に」作業を行うよう促す、ということは奨励されているようです。しかし、作業の所要時間を計測して速く正確に行う作業というのは、実は誰にでも出来る作業で、おそかれはやかれ機械やロボットにも行えるようになるでしょう。人間にしか出来ないことは、身に付けるのに時間がかかるものです。このことを、エマニュエル・レヴィナスという哲学者は「時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、時間はまさに主体の他者との関係そのものである。」(『時間と他者』より)と言いました。内田樹先生は、これを「他者というのは私にはよくわからない」という意味だと説明しています。
「~したことのない」はずのことなのに「~したことがある」気がする、という感覚。
私たちの身体は、「~したことのない」はずのことなのに「~したことがある」気がする、という感覚に強く反応するようにできています。「読んだことのない」はずなのに「読んだことがある」気がするような本に出会うと、私たちはとてもドキドキします。「会ったことがない」はずなのに「会ったことがある」気がする、という人はもはや「運命の人」です。韓流ドラマ『冬のソナタ』での、ミニョンにとっての「ユジン(≒チュンサン)」がそれですね。このように、「出会ったはずような気がするのに、今ここではじめて会ったことになっている」事物(レヴィナス先生風に言うと、「一度として現在になったことのない過去」)に対して私たちの身体は強く反応します。このような事物(つまり他者)に出会うと、私たちはその事物について「知りたい」と強く思うようになります。音楽が大好きな人は、「私は前世、音楽家だった」という気がするかも知れません。物語ることが大好きな人は、「私の前世は、吟遊詩人である」と思っているかも知れません。「前世」という言葉で語られる、このようなイメージも私たちにとっても一種の既知感、すなわち「出会ったはずような気がするのに、今ここではじめて会ったことになっている」事物に対する感覚だと言えるでしょう。これが私たちの知性の源、いわば私たちの「知る力」のエネルギー源です。
「早押しクイズ」のように解答のスピードを競うような勉強では、「教養」は身につかない。
東大生に「東大受験」のポイントを聞いたら、多くの人は「考えること」と「楽しむこと」と「採点する人のために、わかりやすく解答を書くこと」であると応えるでしょう。入学試験等には制限時間が設けられていますから、解答のスピードは速いほうがいい、というのは確かです。しかし、解答のスピードの前に、しっかり考えることができないと解答を作成するに至らない、というのが東大合格者の実感でしょう。東大生はこの実感を仕事や人間関係の編み上げに置き換えることができれば、教養のある大人になることができるのでしょう。仕事も「考えること」と「楽しむこと」が大切で、「相手のために働くこと」が労働の本質だ、と思えたら「使えない東大生」とは呼ばれないはずです。このような「教養」と対照的なのが、解答する速さを競うようなタイプの知識です。このような知識のことを、内田先生は「雑学」と呼んで、はっきり「教養」と区別しています。
Q「『ハリー・ポッターと賢者の石』の原作者は誰?」 A「J・K・ローリング」
Q「『ハリー・ポッターと賢者の石』がロンドンで刊行されたのはいつ?」A「1997年6月」
Q「『ハリー・ポッターと賢者の石』を原作者が執筆したエジンバラのカフェは?」A「エレファント・カフェ」
このように「雑学」とは、与えられた問いに対して「正解」を与える能力のことです。それに対して「教養」とは、その範疇も階層も重要度もまったく異なる「情報単位のあいだの関係性を発見する力」である、と内田先生は説明します。教養とは「まだ知らないこと」へとフライングする力である、と言うのです。ちなみに、先にあげた『ハリー・ポッターと賢者の石』に関する3つの問いは、インターネット検索することで簡単に調べられます。それに対して、人間は「検索条件を入力しないで検索を行う」能力を持っているのです。私はインターネットを利用する際に「Google Chrome」というブラウザーを利用しています。「Google Chrome」に適当な文字を入力すると、コンピューターがいくつかの検索候補を予測し表示してくれます。この機能は結構便利で、コンピューターは私が以前利用したことがあるサイトに素早く私を誘導してくれますが、私が利用したことのないサイトに私を導いてはくれません。人間は「まだ知らないこと」をどうして「知ることができる」のか、という問いは、プラトン以来の重要な教育学的テーマですが、お子様が「まだ知らないことを知ること」を放棄し、コンピューターを使えば誰にでも出来るような作業にばかり取り組んでいるというのは、お子様の知性にとって非常に危険な状態であると言えるでしょう。