暴力の言葉と祝福の言葉が行き交う日常

この直前のツイートで「はるかぜちゃん」さんは、「『いじめ』とは、『他人の生きる権利を侵害すること』だ」として、「いじめ」を否定しています。

私は「いじめは原理的に無くならない」「いじめという仕方で、他者の自由や権利を侵害したり制限したりすることは許されない」という考え方を採用しているので、「はるかぜちゃん」さんのおっしゃりように強く同意します。

(「いじめが原理的に無くならない」理由については、「いじめについて」という文章で詳述されています。ぜひ、お読みください。)

内田樹の研究室「いじめについて」へ

人間は、どのような人間でも無条件にその生存を認められるべきだ、と私たちは考えます。その上で「罪」や「罰」についての考察がなされたり、「他者との共生」にあたって必要な「ルール」についての検討がなされると良いのではないでしょうか。

この場合「どのような人間でも無条件にその生存を認められるべきだ」という考えは、いわばケーキのスポンジにあたるものです。世の中には、ケーキの出来ばえについて、スポンジの上に塗られているクリームのことや載せられたトッピングのことばかりを気にする人がいます。もちろん、そういったこともケーキの出来において、無視のできないことですが、やはりスポンジの出来如何によって、ケーキそのものの出来ばえは大きく変わります。

私たちの暮らす社会のつくりも、ケーキのつくりとよく似ていて、外から見てすぐに目につくところと、その内側で基礎としてそれを支えているところとがあるはずです。

「どんな人も無条件に生きてよいし、そこにいてよい」という原理を基礎とする社会と、「人間はその能力や資産の程度によって区別されるべきで、高い能力を有する人間やたくさんの資産を所有する人間は、そうでない人間よりも優れているのだから、それに相応しい扱いを受けるべきだ」という原理を基礎とする社会とでは、その上に同じくらい上出来な法や制度がトッピングされていても、根本的に出来が異なります。

どっちの出来の方が良いか、悪いか。その判断は自由です。

私は「どんな人も無条件に生きてよいし、そこにいてよい」というスポンジで出来たケーキを味わいたい。そう思います。

内田樹によれば「学校は本来は苛烈な実社会から『子供を守る』ことを本務とする」ものです。内田先生は「イエズス会」を例に説明を続けます。今でいう「学校」としての機能を果たしたイエズス会は、「親の暴力から子供を守る」ために作られたと言うのです。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされていました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたと言うわけです。

そうだとしましょう。

そうだとすると、ヨーロッパでの学校の始まりは「子供を大人たちの暴力から守る」ことを目的にしていたのだ、と考えることができます。

この考え方に私は自然な共感を覚えます。

今でも私たちの社会では「子供を暴力から守る」ことが大切です。でも、いじめは「子供に言語的な暴力や身体的な暴力が及ぶ」という形で立ち現れます。

だから、私はいじめを否定するのです。子供は暴力から守られ、一時的に社会的保護を受ける中で、大人へと成熟をはじめなければなりません。

その意味で、私にとっていじめは、悪口や暴行に限られるものではありません。

何かを学ぼうとしてる人に、何かを知りたいと思っている人に、「お前にそんなことをする資格はない」「お前の考え方はニセモノだ。お前は間違っていて私が正しい」などと言って、その人の成長を阻害するのは、私にとってはいじめです。

エライ人の中には、ときどきそういうことを言う人たちがいます。そう人は確かにエライのだと思いますが、私にとってはただの「いじめっこ」です。

「お前は間違っている」「お前は卑しい」「お前はニセモノだ」ということばかりを伝えるメッセージは、教育的な言い方であるようで、実際には人を苛むものです。

そこに欠けているのは「あなたの成熟を私は願う」という遂行的なメッセージです。相手の成熟を祈るという仕方で発信されたメッセージが、相手を傷つけるということは決してありません。

相手を傷つけるために発信されたメッセージと、相手の成熟を予祝するメッセージとは、決定的にその手触りが違うのです。

言葉と言うのは、それ自体で充分に、暴力としても、祝福としても働くものです。私は子供の成長を期待するので、子供たちにはその成長を予祝する言葉がたくさん贈り届けられるよう願います。

冒頭の「はるかぜちゃん」さんをはじめとして、たくさんの人たちが、暴力の言葉と祝福の言葉が行き交う日常で生きています。

言葉の暴力に傷ついたら、上手くその心身を癒していただきたいとも願います。

先に引用した「いじめについて」の続編にあたる文章で、内田樹先生はこんなことを言っています。
――――――
自己利益よりも公共の福利を優先的に配慮する「大人」が一定数いなければ、社会は保ちません。

今の日本のすべての制度劣化は「大人がいなくなった」ためだと私は思っています。

でも、今のような危機的状況が続けば、どこかで誰に言われなくても、「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者たちが散発的に出てくるはずです。

それは自分のまわりで「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言えるよう若者というかたちで現れるはずです。(そのような若者は年齢がどうであれ、もう「子供」ではありません。それは「青年」と呼ぶべき存在だろうと思います)。

そのような若者たちを支援する体制がいまの学校には存在しませんし、教育行政もそのような若者の育成には一片の関心も持ちません(彼らが欲しがっているのは、「グローバル人材」のような「能力が高くて、賃金の安い、規格化された労働者」だけです)。

子供が大人になることを、この社会では誰も求めていないのです。

そんな社会で、有形無形の無数の抑圧をはじきかえして、「やめなさい。それは人間として恥ずかしいことだ」ときっぱり言えるためには、どれほどの勇気と決断が要るか。

学校の教員や教委を「いじめる」暇があったら、そういう若者たちの登場をどうやったら支援できるのか、私たちはそれについて考えることに限られた資源を投じるべきではないのでしょうか。
内田樹の研究室「いじめについての続き」へ
――――――

「はるかぜちゃん」さんの言葉は、「青年」のそれだと思います。彼女の他にも「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者(=青年)たちは、この社会に点在しているはずです。

ならば、そういった若者たちよりも齢を重ねた私たちがすべきことは何なのか。それは、もはや明らかです。

そういう若者たちを具体的にどれくらい支援できるのか、私はそういったことに私の限られた資源を投じようと思っています。まずは身近なところから。

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