「美しさの発見」

美しさとは「何かに内在している特殊な性質ないし価値」ではなく、「何かを『美しい』という言葉で名指す人がその何かに見出している性質」のことである。

東京書籍『新編 国語総合』に載せられた高階秀爾先生の「美しさの発見」という文章ではそういうことになっている。

おっしゃるとおりだと思う。

「美しいもの」だから美しいのではなく、誰かにより「美しい」という言葉で名指されているものがその誰かにとって「美しい」のである。

それは「醜い」という言葉をめぐっても同じである。

「醜いもの」だから醜いのではない。誰かが「醜い」という言葉で何かを名指すとき、その誰かにとってのみその何かは「醜い」のである。

『ノートルダムの鐘』という映画がある。ヴィクトル・ユゴーの”Notre-Dame de Paris”を原案としたディズニーのアニメ映画である。『ノートルダムの鐘』は1999年からベルリン、2014年にサンディエゴ、2015年にニュージャージーでミュージカルとして上演されて、2016年からは東京で劇団四季が素晴らしい舞台を披露している。

主人公は「カジモド」という名前の男。カジモドは生まれついて醜い。そういうことになっている。それはカジモドという名前をつけた司祭フロロの視点。フロロはカジモドに「お前は醜い」というが、実はそれは「私(フロロ)はお前を醜いと思っている」という表明に過ぎないのである。

映画版『ノートルダムの鐘』のフロロは誰がみてもわかりやすく邪悪な顔をしている。でも、舞台版のフロロは違う。実在の役者が演じるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、舞台版のフロロは「わかりやすく悪いヤツ」ではない。

ノートルダム大聖堂の司祭として、むしろ「正統」なヤツである。エリートである。

ただ、フロロは「正統」であり続けるがゆえに間違える。決定的に。

フロロはエリートではあるが、聴きとり能力が極めて低い。未知なものを受容する能力が極めて低いと言っても良い。

だから、死んだ弟が残した見たことのない風体の赤ん坊を「醜い」というありきたりな言葉だけで形容し、その赤ん坊との出会いを「神が与えた試練」というこれまたありきたりフレーズで理解しようとする。

美味いものを食っても、不味いものを食べても「ヤバい」としか言わない人間を揶揄する向きがあるが、そういった人もいらして全然かまわない。私はそう思っている。ただ、食い物の味だけでなく、何を形容するにしても「ヤバい」という単語しか使えないというのは、やはりある種の言語的知性の失調だと思う。ただ、それ自体は特に問題ではない。私にとって。

でも、フロロは違う。言語的知性が失調しているのに、それに気づかず自身の知性をフロロは過大に評価している。これはヤバい。失調していることは問題ではないが、失調しているのに気がついていないのは問題であるし、フロロのように自分自身の判断を「正義」として絶対視するのは非常に危うい。

かくして、フロロはパリを大火に巻き込み、ついにはその身を滅ぼすことになる。

たぶん、フロロは死の瞬間まで自分自身の「正しさ」を疑わなかったはずである。

それがフロロの愚かさである。私たちは誰しも愚かであるが、それが極まると愚かさは私たちの身を滅ぼす。それをフロロは身をもって私たちに教えている。物語の中で。

それに対して、カジモドは未知への好奇心を絶やさなかった。

カジモドは邪悪なフロロに厳しく命じられて、ノートルダム大聖堂の最上層(そこでフロロは鐘をついている)に閉じ込めれれている。でも、彼はそこからいつもパリの街の姿を見ていた。セーヌ川のほとりを散歩する人々の姿を。パリの花屋やパン屋でおもいおもいの買い物をする人々の様子を。細かく入り組むパリの裏路地の形を。美しく輝く朝の光を。カジモドはいつもノートルダムから眺めていた。

カジモドには自信がない。カジモドには勇気がない。カジモドには知識がない。でも、カジモドはそういう自分自身のことをよく知っている。だから、カジモドは賢く、勇敢で、進むべきみちを自分自身の手で選びとることができた。

カジモドの強さの源は不能の自覚である。それは葛藤や苦しみも滲ませるが、私たちの大きな力の出所となる。

なぜか。

己の不能を自覚しているものは、他者の不能や弱さも受け入れられるからである。そのようなものだけが豊かな多様性の中に生きることが出来るし、多様なもので構成される世界は単一なもので構成される世界よりもずっと強い。

もう一度、「美しさの発見」という文章に戻ろう。

何かが美しくて、何かが美しくないと決まっているのではない。そういう考え方をする人たちは多いが実際に世界はそのようには出来ていない。

実際に、夕日が赤く染める空の色やすやすや眠る赤ん坊の顔や、そういった何気ないものに私たちは言い知れぬ美しさや愛おしさを感じることがある。

そのような何気ないものを「美しい」とか「愛しい」といって名指しているのは言葉である。それなら、見たことが無い、聴いたことが無い初めてのものをそういった言葉で名指せた方が、そうでないより、ずっと楽しい。そうでないよりずっと感性として豊かである。

そして、そのような豊かな感受性は私たちを「強く」するかもしれない。

単一なもので構成された世界より、多様なもので構成された世界の方がずっと強い。

このことだけは何度でも申し上げたいと思う。

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