平成9年東大英語より

こんにちは。穎才学院教務です。

先日、授業中におもしろい問題に出会いました。

問題は、東京大学平成9年度入学試験の英語からです。

UTokyo1997e

お時間をいただけるようでしたら、ぜひ解答に挑戦してみてください。

この短い文章を読むだけで私たちは、色々なことについて、考えるきかっけを与えられます。

この文章では、「私」はマレーシア出身のプロの物書きで、言葉が人間の意識の造形に影響をおよぼすという理解を持っている人である、ということが読み取れます。

ここから少し考えを深めてみましょう。

まず、言葉について。

多くの人は「言葉を操る」という表現を何気なく使いますが、

実際は、私たちは言葉を操るどころか、

言葉により自意識(self)を形成し、

言葉のつくりにあわせて世界を分節し、認識しています

私たちは自分の「意識」が大好きで、人の「意識」が大嫌いです。

だから、FBやTwitterで自分のことを人に知ってもらいたいと欲望している人が、同時にFBやTwitter上で過度に自身のことを露出させる他人を嫌う、ということが起きるわけです。

それは、良いことでも悪いことでもありません。自分の自意識が大好きで他人の自意識が大嫌いというのは私たち人間の自然です。

そんな私たちは、自意識を愛するあまり、自分が意識的に言葉をコントロールしていると思いたい。

でも、実際はそうではありません。私たちの欲望も、私たちの世界の見方も、まず言葉があって、その後に出てくるものにすぎません

だから、乱暴な言葉遣いは人を乱暴な方向に導くし、豊かな言語体験を持つ人はそうでない人とは違った見方で世界を見ているわけです。

言葉というのは、その点でとてもおそろしいものであります。

そして、次に私たちは英語というグローバル言語をめぐる問題について考えることができます。

おそらく「私」は英語で文章を書くのを仕事とする人でしょう。東アジアも東南アジアも英語グローバル社会ですから、マレーシア出身の「私」がプロの物書きになるとしたら、英文を書く人になったと考えるのが自然です。

マレーシアは日本以上に英語グローバル化が進んだ社会です。法律も英語で書かれているし、大学の授業も英語で行われている。そういった社会が英語グローバル社会の典型です。日本の大学では、ほとんどの授業が日本語で受けられる。東京大学もそうです。All Englishの授業もあるけれども、日本語を母語とする学生たちは、その母語で講義を聴き、ゼミナールで発表し、論文を書くことが許されている。

これは大きなアドバンテージです。日本語を母語とする学生は日本の大学で母語で学び、母語で研究することを許されている。知的イノベーションというのは、そこにあるものをそれまでと違う何かと重ねたりつなげたりして、それまで誰も気づかなかった側面を発見することですそして、そのようなことが許されるのは母語運用領域においてだけなのです

マレーシアでは、たぶんそういった自由が許されていない。もちろん、マレーシアのエリートたちは、英会話と英語の読み書きが自在にできて当然という社会で育ちますから、結果的に日本のエリートたちよりも英語が上手になります。

そして、それは英語グローバル社会でエリートとして生きていく上で、極めて重要なことです。

でも、あるフィリピンの学者が「英語で講義ができるのはpracticalである。母語で講義ができないのはtragicである」と言ったように、そこには「失われてしまった何か」が影のようにつきまとう。そして、それは仕方がないことでもあるわけです。

だから、この英文の終わりの方で、「私」は

I don’t regret it.

と言っています。ここには、一度英語が自意識に深く馴染んでしまった以上、英語でない母語で再び自意識を染め直したり形作り直したりすることは難しいという”tragic”が存在することへの嘆きがあり、そしてそれを解消することは実際難しく、難しいのは仕方がないという諦めがあるように読めます。

短い英語の文章ですが、言葉や言葉の政治性について読むものに理解を要求する興味深い文章だと思います。

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