新潮文庫の100冊 おススメ!

こんにちは。穎才学院教務です。今日は2016年「新潮文庫の100冊」からおススメをご紹介します。

穎才学院の私設図書館に置いてある本の中で、今回「新潮文庫の100冊」にラインナップされているのは、全部で18冊。ここに全て載せられないくらいです。

カーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開くカーリルで開く
カーリルで開く

ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから彷徨(さまよい)出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留どまったり、乾物屋の乾蝦(ほしえび)や棒鱈(ぼうだら)や湯葉(ゆば)を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下さがり、そこの果物屋で足を留めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆ず高く積まれている。――実際あそこの人参葉(にんじんば)の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬つけてある豆だとか慈姑(くわい)だとか。

今回の「新潮文庫の100冊」にも含まれている、梶井基次郎『檸檬』の一節です。

私は昔から『檸檬』の中でここが一番好きでよく好んで読みます。やはり私が好きな村上春樹が料理のシーンを物語るときと似ていて、ここではたくさんの食材の名前が挙げられます。その中でも果物や檸檬については、その色彩や形状がどのようなものであるか、ということがつまびらかに述べられるのです。

中学生のときにこの文章をはじめて読んで、「何だよ、アッレグロって。言いにくいなあ。」とか「ゴルゴンの鬼面的なものって、何やねん?」とか、いちいち引っ掛ったのを覚えています。

高校生になってから授業で改めて読んだときには、やはりその表現の妙に感心しつつ、その少しあとの「私」が檸檬を購入する箇所の表現を好むようになりました。

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンヱロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛るんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

あのレモンの色彩・形状を「レモンヱロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」「あの丈の詰まった紡錘形の恰好」というこの箇所の表現に、何だか新鮮な感じを覚えたのです。

そして、そういう檸檬を買う「私」の屈託や憂鬱が10代後半の私には身近なものに感じられたのだとも思います。

大学入試の過去問題を解いて、高い得点をとることばかりに腐心する余り、文章の意味内容を大雑把に理解することに終始しがちだった、高校3年生の私にとって、学校の「現代文」の授業で、この『檸檬』の日本語表現の美しさに触れられたことは非常に幸運でした。

私にとっての『檸檬』のように、日本語を読んでいて、その響きやつながりに何だか好ましいものを感じるという文章というのは、みなさんにもおありかと思います。

トーストの焼きあがりよく我が部屋の空気ようよう夏になりゆく
たとえば右(※ここでは上)の一首は、朝食のためにパンを焼いていて「あっ」と思った。それまでは平均して五分かかっていたトーストが、今朝は四分半でいい。しかもぱっりと焼けている。こんなところにも夏は来ているんだなあ、という心の揺れ。
(中略)
「あっ」と声は出さないまでも、口を少し開くくらいの「揺れ」。それでもいつかは言葉という形になるときが、きっとくる。私は、そんなふうなまだ形になっていない「あっ」のかけらたちを、感動の貯金と呼んでいる。すぐには使えなくても、しっかりと貯めておくことが大切だ。
(俵万智『短歌をよむ』岩波新書)

この夏に、みなさんがみなさんならではの「感動の貯金」なさるよう望みます。俵万智さんのように朝のちょっとしたひとときに。あるいは何気なくみなさんが手にとった本を通して。

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