「リスク」と「デインジャー」

危機には「リスク」と「デインジャー」の二種類がある。
「リスク」というのはコントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のことである。「デインジャー」というのは、そういう手立てが使えない危険のことである。

(内田樹の研究室より)
内田樹の研究室「弁慶のデインジャー対応」へ

危険を予測したり、予防したりすることは大切です。ですが、たいていの人は「これこれこういう理由でこういう危険が発生する確率が高まる。だからこのように対応すべきだ。」という考え方をします。

一般にこういう危険のことを「リスク」と言います。「リスクマネージメント」とか「リスクヘッジ」とか言うときの危険のことです。リスクは「目に見える」「予測できる」「予防できる」「解決できる」というのが特徴です。

でも、「デインジャー」はそうはいきません。

喩えて言えば、W杯のファイナルを戦っているときに、残り時間1分で、2点のビハインドというのは「リスク」である。
このリスクは監督の采配や、ファンタジックなパスによって回避できる可能性がある。
試合の最中に、ゴジラが襲ってきてスタジアムを踏みつぶすというのは「デインジャー」である。
対処法は「サッカー必勝法」のどこにも書かれていない。
だが、そういう場合でも、四囲の状況を見回して「ここは危ない、あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断をできる人間がいる。
こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは生き延びる確率が高い。
でも、いちばん生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと『厭なこと』が起こりそうな気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして、家でふとんをかぶっている人間である。
WTCテロの日も、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。

(承前、内田樹の研究室より)

「デインジャー」に対して私たちができることは「回避する」ことだけです。「忌避する」といっても良いかもしれません。

「なんだか気持ち悪いなあ」「なんか嫌だなあ」という感覚のうち、「こうなりそうだから…」と理由がつけられるものは、大抵の場合、たいしたことではありません。

でも「理由のつけられない気持ち悪さ」というのは、それと全く異なります。「なんだか嫌なことが起こりそうな気がする」というエヴィデンス・ベースド不能な直感が人間の生死を別けるというのは、実はこれまでに何度も実際に現実で起こったことです。

そしてそのような感覚に「気付く」ことは、人間が倫理的に生きる上で、その成熟に資するものです。

彼らがなぜ危機を回避できたのかをエビデンス・ベースで示すことは誰にもできない。
「ただの偶然だ。理屈をつけるな」と眼を三角にして怒る人がいるけれど、そういう人には「そうですよね」と言ってお引き取り願うしかない。
けれども、「どうして私だけが生き残ったのか、理由がわからない」ということは、よくある。その場合に「単なる偶然である」と言って済ませることのできる人はきわめて少ない。
ほとんどの人は「自分だけが生き残った理由」について考える。
少なくとも、ホロコーストを生き延びたエマニュエル・レヴィナスやエリ・ヴィーゼルやウラジミール・ジャンケレヴィッチはそうした。
もちろん、「自分だけが生き残った理由」はわからない。
「おそらくはゲシュタポの気まぐれによって」とジャンケレヴィッチは書いている。レヴィナスはそれをそのまま引用しているので、たぶん「同じ気分」だったのだろう。
けれども、人は他人の「気まぐれ」で手に入れた人生をそのままに生きることはできない。
生き延びた理由は「気まぐれ」でも、そのまま長生して、いざ死ぬときにふりかえって「私が生き残ったことにはやはりそれなりの意味があった」と言い切れなければ、自分が生き残ったときに死んだ人間に申し訳が立たない。
だから、自分自身の人生に加えて、「死んだ人の分まで生きる」という責務を自らに課すことになる。
「あの人があのとき死ななければやっていたかもしれないこと」は「生き残った私」の宿題になる。

(承前、内田樹の研究室より)

エヴィデンス・ベースド不能な「理由のつけられない気持ち悪さ」に基づいて、巨大な災厄を回避した(と思っている)人は、「あの人は死んだのに、どうして私は生き残ってしまったのか」という問いを内面化せずにはいられません。そのように思う人が傍若無人な生き方などをするはずがないということは、誰が考えても明らかです。そういう問いを内面化してしまった人は、おのれの余生を決して自分のためだけには費消できなくなるのです。そういう人が「倫理(倫に生きる理=ともにいきることわり)」に基づいた振舞いをするというのは自然なことだと思われます。

では、そのような「デインジャー(災厄)の回避」というのはどのようにして可能になるのか。

「存在しなかった災厄は、それを無意識のうちに感知して、それを回避する策を講じた人がいたせいで存在しなかった」という仮定はあきらかに人間的能力の向上に資する。
(内田樹の研究室より)

内田樹はそれを「物語」(=仮定)の力によって可能になるものだと説明します。エヴィデンス・ベースド可能なデータや情報しか信じない人は、物語の力を軽んじます。ファンタスティックな(現実離れした)お話というのは、子供や女性向けのファンシーなもの(空想)だと思っているオジサンたちは少なくありません。

でも、そういうオジサンたちも、実際に自分が「どうして私だけが生き残ったのか、理由がわからない」事態に直面したら、それを「単なる偶然である」と言って済ませることはほとんどできない。必ずと言っていいくらい「自分だけが生き残った理由」について考える。

私が「デインジャー対応能力」と呼ぶのは、ひとつの「物語」である。
そう言いたければ「幻想」と言い切っていただいても構わない。
けれども、幻想を侮ってはいけない。
「存在するはずだったのに、しなかった現実」と均衡するのは、理論的には「存在しないはずなのに、存在してしまった幻想」だけだからである。
それはシーソーのような構造になっている。

(内田樹の研究室より)

私たちはあの大地震で命を落としていたかもしれない。あの大事件に巻き込まれて大怪我をしていたかもしれない。でもそうならなかった。私たちは生き延びることができた。

「生き延びてしまった」のだとしたら、すなわち「存在するはずだったのに、しなかった現実」を回避したのだとしたら、どうしてそんなことになってしまったのか。

その「どうして」にあたる部分に出応えのある重みをもった「こたえ」を与えるとしたら、その「こたえ」は聞く人によっては現実離れしているようにさえ思える「物語」になるでしょう。それが「存在しないはずなのに、存在してしまった幻想」です。

そういう重りによって、何かを持ち上げることが出来る人だけが、生き延びてしまった苦しみから解放されるきっかけをつかむことができたり、起きてしまうと大変なことになる災厄を回避したりできるのです。

物語って、ただの子供だましじゃないんですよ?(笑)

物語って、重たいんです。

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