言葉の壁があっても、

インターナショナルスクールで生徒たちと映画を観ました。

小泉徳宏監督の『ちはやふる 上の句』(2016)です。中学校三年生の「国語」教科書では万葉・古今・新古今の和歌をとりあつかうのですが、私たちが使っている教科書には「小倉百人一首」のことも少々のっていたので、和歌の単元の入り口に末次由紀先生の「ちはやふる」から「ちはやぶる」の歌(在原業平⑰)を手がかりとしました。マンガ「ちはやふる」のファンは生徒たちの中にも多かったようです。

数時間の学習と定期テストを経て、和歌の学習の結びとして私は映画「ちはやふる」の鑑賞を選びとったのです。

観てよかった。いっしょに観てよかったと思っています。

映画を観るのに2コマと昼休みの時間を費やしました。担任の先生にもご協力をいただいたわけです。

映画が終わってから、中国からやってきたばかりの生徒が楽しそうに話をしていました。

インターナショナルスクールでは学期の途中に転入してくる生徒が少なくありません。そういった生徒たちは各々の事情があって、日本語などの学習が充分でない場合があります。全く日本語を理解しないという状態から学び始めるということも少なくありません。

その生徒も、そうでした。

2学期のはじめにクラスにいらして、1から日本語を学んでいます。

私はその生徒と普段、簡単な英語でコミュニケーションをすることが多いです。聴いてみました。

「映画の内容、わかったの?」

「ちょっと(^^♪」

左手の親指と人差し指の先だけを交わらせて、少しだけどわかったと楽しそうに言うのです。

中国語で。私も日本語でその生徒に話しかけていました。(後になって気がついたんですけどね。)

もちろん、映画鑑賞中にその生徒の様子は確認していました。私が担当している授業は日本語の初習クラスではないので、日本語を学びはじめたばかりのその生徒に合わせた授業展開が必ずしもできるわけではありません。

そういう困難な事情は互いに了解したうえで、いつも学んでいます。

今日は集中して映画を観ている様子だったので、映画の映像・音楽的な美しさや役者の醸し出す物語世界の雰囲気にうまく反応してくれているのだろうと安心していました。

他の生徒もなかなか集中している様子でした。

映画というメディアに対する慣れや不慣れ、作品に対する嗜好の程度、そういった色々な違いがあるだろうに生徒たちはほとんど完全に映画に引き込まれていたように私には見えました。

そんな風に『ちはやふる 上の句』という映画作品が備える物語的な力の強さに驚きながら、私は生徒とともに心地よくそれを観終えたわけです。

そんな気分でいたものですから、私はうっかり英語で話すことを忘れていました。

生徒もいい気分だったのかもしれません。中国語がわからない私に中国語で話してくれたのです。

うん??

よく考えると、これはおかしなことですね。

中国語がわからない私が日本語で言ったことをどのようにして日本語がまだわからない生徒は理解したのでしょう。

反対に、中国語がわからない私はどのようにして生徒の中国語を理解したのでしょう。

後の方の問いに答えるはそんなに難しくない気がしますね。

その生徒(女子生徒です)がしてみせたジェスチャーが私の理解を助けたのです。

でも、私が理解したのは「ちょっと」という理解の程度だけではありません。

彼女がちょっとだけではあっても日本語を聴いて、あるいはそれ以外にたくさんのメッセージを映像や音楽、役者の仕草や表情から受け取って映画を楽しんだようだ、そいうことを私は理解したのです。

私の「理解」は思い込みであったかもしれません。ですが、思い込みであるにせよ、どうしてそういう思いに辿り着けるのでしょうか。これは結構重要な問題ですよ。

ツイッターでcdbという方が『ちはやふる 上の句』のレビューを記しておられます。手がかりにしてみましょう。

cdbさんの言う「美しい場面」というのは、「千早」(@広瀬すず)が「机くん」(@森永悠希)にメッセージをおくる所です。

ちょっと変わった仕方でメッセージがおくられるんです。

でも、そのメッセージは千早から机くんに宛てて贈られたものだということが、必ずわかる。そういう「決定的」な仕方でメッセージが贈られるのです。

「他でもない、このメッセージは私に宛てて贈られたものである」と思えるとき、私たちは心身が熱を持ち、力が漲るのを感じます。

「そのメッセージは私が受け取らないとどこかに行ってしまう、無かったことになってしまう」と私たちは考えます。そうしてメッセージの受け取り手として、私たちにそこにいる理由や生きていくための理由が与えられる。そのように理由が与えられたとき、私たちはこの上もない充実感、幸福感をおぼえるのです。

逆を考えれば、わかります。

そこにいる理由がわからない。私はそこにいてもいなくても同じであるような気がする

生きている理由がみつからない。私なんかこの世界にいてもいなくても、まったく関係ないように思える。

そういうときはつらいものです。とてもつらいです。

すごく疲れる。身体のなかの大事な力が奪われていく気がする。

実は『ちはやふる 上の句』という映画そのものが観る人に宛てて強いメッセージを贈る映画になっています。

映画「ちはやふる」はマンガ「ちはやふる」とお話の詳細が異なります。どちらも上出来のエンターテイメントであり、素晴らしい物語なのですが、それぞれは別のお話だと言えるでしょう。

映画「ちはやふる」で千早の脇を固める仲間のキャラクターたちは「私たち」です。

「にくまんくん」(@矢本悠馬)も「奏」(@上白石萌音)も、

「太一」(@野村周平)だって私たちです。

おっちょこちょいだったり、強いこだわりや美意識をもっていたり、臆病だったり、自分に自信がなかったり、

卑怯だったり、傲慢だったり、秘密があったり、素直になれなかったりするのです。

特に若いときの私たちはそういうものです。(年をとっても、あまり変わらないものですけれどね。ちょっと外側が変わってくるだけで。)

そういう登場人物たちに千早は必死になってぶつかります。声をかけてくれます。そっぽを向いても、後ろから大声で言葉を贈ってくれます。逃げても追いかけてきます。違うと言って否定しても、全力で肯定してくれます。

そうして声をかけられているのは、肯定されているのは「私たち」です。

もちろん、千早は競技かるたに青春をかける少女なのだけれど、

そうだからこそ、全力で「私たち」にぶつかってくれるのです。

机くんもにくまんくんも、奏でも太一も、千早に「あなたがいないとダメなんだ」「あなたじゃないとダメなんだ」と言われるんです。千早は「いっしょにカルタしよ?」「もっとカルタ強くなろうよ」と言っているんですけど、それがそういうに聴こえてくるんですね。

映画を観た生徒たちも、千早からのメッセージを受け取ってしまったのだと思います。

そういうメッセージって黙っていても通じるものなんです。お互いの耳の中でそのメッセージが鳴っているなら。

言葉がわからなくても、今大事なことを言っているというのはわかるものなんです。「私に宛ててメッセージが贈られている」というのは絶対にわかるんです。

私は日本語で生徒は中国語でメッセージを贈り合いました。

「私の言葉はあなたに届いていますか」

「あなたの言葉は私に届いていますよ」

そういうメッセージはちょっとした言語の壁なんか飛び越えてしまうんです。伝わってしまうんです。

そういうことだったのだろうと思っています。私は。

昼休みの終わり、高校生と映画「ちはやふる」を観たという話をしました。その女子生徒は映画館で観たそうです。作品を賞して

「広瀬すずがずっと可愛いやつね」

と言っていました。

まあ、そうなのかもしれません(笑)

でも、それだけではないのだと思います。あの映画は。だから、その女子生徒にも他の多くの人たちの印象にも残っているのだと思います。

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