コミュニケーション能力について

「話が聴き取りにくい」ということがある。それにはいろいろな理由があるのですが、その理由のひとつは「声が悪い」からというものでしょう。

「おそ松くん」(赤塚不二夫、フジオ・プロ)に「チビ太」というキャラクターがいます。

※これは「おそ松さん」

チビ太の声は田中真弓さんがあてていらっしゃいますね。「てやんでぃバーロイチキショイ」というのがおなじみのセリフ。

実に良い声です。

ですが、これは田中真弓さんが声をあてているから聴き取りやすいのであって、実際に「てやんでぃバーロイチキショイ」と江戸弁でまくしたてる人の話は、もう聴き取りにくくて仕方がない。

この「てやんでぃバーロイチキショイ」というのが、典型的な言語能力失調のあらわれです。

同じこと(定型のフレーズ)を耳になじみにくい声で繰り返す。

そういう人の話というのは、どうにも聴き取りにくいのです。

「声が悪い」こと、そして「定型文で話す」ということは、僕の基準から言うと、国語運用能力、母語運用能力のレベルが非常に低いということです。(中略)コミュニケーションというのは、そういうものではありません。コミュニケーションとは、自分がふだん語っているときのルールとかコードとか語彙とか発声法とは、少しだけ違うモードで話してみるということです。そうしないと人には届かない。
(内田樹『日本の覚醒のために』晶文社、189-190頁)

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言葉というのは実におもしろいもので、対話の文脈が理解されなければどれくらい単純な言葉であっても聴き取れないということがあるし、反対に文脈が理解されているという確信に近いものがあれば言葉が理解できなくても対話が成り立つ。そういうものです。

今日、こんなことがありました。

インターナショナルスクールの職員室でのこと。私の前に印刷機を使っておられる先生がいらしたので私はその後ろで自分の順番を待っていました。先生は何か学校で配布するプリントをたくさん印刷しておられるようです。私は印刷原稿を手にして黙って待機していましたが、私の方をご覧になって先生が何かおっしゃいました。

中国語でその先生はお話になります。私はその中国語が全く理解できません。でも私はキッパリと答えました。

「はい!印刷したいです!」

すると、その先生は印刷機の順番を私にゆずってくださいました。

私は「ありがとうございます。60枚ほどで終わります」と先生にこたえます。

すると、その先生はにこりと会釈をされて別のお部屋にもどっていかれました。

そして、私がおよそ60枚の印刷を終えるころ、その先生は印刷機のある職員室に戻ってきました。

私は「ありがとうございました。おかげで時間内に印刷を済ますことができました」と申し上げて、お礼をいたします。

その先生もにこやかにお礼を返してくださいました。

その先生も私の日本語をおそらくは理解しておられません。

でも、コミュニケーションは成立する。みなさんもこういったコミュニケーションについて心当たりはおありのはずです。

このような状況よりももっと困難な状況において、コミュニケーションを成立させる。

そういう力技を可能にするのが「コミュニケーション能力」であるのだと思います。

先にあげた本の中で内田先生は幕末の人、山岡鐵舟のエピソードをひいています。

勝海舟が江戸開城にさいして、駿府にいる西郷隆盛に使者を送ることになりました。使者に指名されたのは山岡鐵舟です。勝は鐵舟とは面識がなかったのですけれど、「山岡という男は本物の武士らしい」というので、彼に江戸開城のための勝・西郷会談を段取りさせるということになります。

意を受けた鐵舟は薩人の益満休之助一人だけを連れて、駿府に向かいますが、六郷川で篠原國幹の率いる官軍と遭遇します。そのとき鐵舟は本陣に向かって「朝敵徳川慶喜家来、山岡鐵舟罷り通る」と言って、篠原の本隊を突っ切って進んでしまう。
(前掲書、203-204頁)

何気ないエピソードだと思われるでしょうか。そんなことはありませんよ。

当時の日本はいわば内紛状態にあり、幕府側(=徳川慶喜家来)の山岡が官軍側の本隊のまんなかを無傷で通り抜けられるはずがありません。本当ならね。

でも、山岡鐵舟は「朝敵徳川慶喜家来」というたったひとつの言い方で、それを見事可能にしてしまいました。

山岡の気迫に篠原率いる官軍の面々が気圧されてしまったというのでしょうか。確かにその可能性もないではありません。とはいえ気圧されそうになっていたとしても、かえって「なんじゃオリャー」などと息巻き、山岡たちをボコボコにしようとする連中がいないとも言い切れない。

つまり山岡が官軍本体の真ん中を突破できたのは、それを官軍が認めるに足る理由がそこにあったということです。ただ、脅しただけではそうはならんのです。

その理由というのが自ら選び取った「朝敵」という名乗り。

自身が言うように山岡は徳川家家臣です。ですから、その総大将たる徳川慶喜を「朝敵」と侮って良いはずがない。本来ならね。

でも山岡という人物は敢えてそういう仕方を選び取った。それが「自ら進んでコードを破る」という仕方にあたります。「ふつうはしないことをする」と言い換えてもいいでしょう。

これはコミュニケーションの理想的なかたちのひとつではないかと思います。「私は私のコードを破る。だから、あなたもあなたのコードを破ってほしい」というメッセージを発信した人がおり、それを受容した人がいる。それぞれが自分たちの「コードの檻」から外へ踏み出して、素の状態で向き合う。それによって成立するはずのなかったコミュニケーションが成立する。
(前掲書、204頁)

相手のためにコードの檻を破る。本来ならしないことをする。それが相手に対して熱誠の証となる。

「熱誠」というのは熱情からでるまごころのこと、きわめて深いまごころのことです。(夏目漱石先生が大切になさったものです)

それに近い日本語で「熱い」というのがありますが、熱情というのは単車を乗り回す暴走族あがりの「教師」の専売特許でも、チョークで黒板に大きな字を書く長髪の国語教師の占有物でもないのです。

『GTO』(藤沢とおる、講談社)という学園マンガがあります。そこに出てくる「鬼塚英吉」という教師は実に粗忽で反社会的な人間でありますが、だからこそコードの破り方が非常に上手い。彼はその意味で稀有なコミュニケーション能力を備えたキャラクターなのです。そのため鬼塚の行動には予想がつかず、彼を疎み彼と対立する学校の管理職教師や「東大卒」のエリート教師たちは悉く鬼塚の後手にまわってしまいます。絶対に鬼塚に勝てないのです。

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私は鬼塚英吉のような教師を良しとしませんが、そのコミュニケーション能力の高さには一目を置いています。

「幕府側」とか「官軍」とか、「東大卒」とか「ヤンキー上がり」とか、そういった枠組みはどうてもよくて、要はその人がコミュニケーションを成り立たせるために何を掛け金としてその場にさしだしているか。

そういったことが肝心なのだと思います。己の本来なら切り売りできないところを掛け金にして相手にさしだすことが出来る人の声は良い。おのずとそういう良い声になるのです。

言葉が通じるはずがない相手に言葉が通じてしまう。

それが言語教育における、ある種の「最終目標」です。

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