自分を変えられるのは自分だけ

こんにちは。穎才学院教務です。先日「動物は変わるのが苦手な生き物だ。人間も例外ではない」という話をいたしました。はい。そして本日のブログのタイトルは「自分を変えられるのは自分だけ」というものであります。

すなわち「動物は変わるのが苦手な生き物だ。人間も例外ではない。自分を変えられるのは自分だけだ。そして、それは難しいのだ。」ということです。

人間はですね、周りの力だけでは変わりません。正確に言うと、人間の能力を開発するためには、周りから力を加えるだけでは不十分なのです。

もちろん、人間に限らず、その身体に化学物質を投与すれば、何らかの変化が起こります。私の友人は大学・大学院の薬学研究科に進学したので、マウスに化学物質を投与するという仕方で、マウスの身体に生じる変化を観察する、ということをよくしていました。こういった変化は化学反応の結果起こる現象であります。こういうのを私たちは「成長」「成熟」とは言いません。今般、ロシアの陸上競技界で組織的なドーピングが行われていたということがWADA(世界アンチ・ドーピング機関)により指摘されましたが、ドーピングがスポーツの世界で認められないのは、これと同じです。私たちは化学的反応だけで生じる心身の変化を「成長」だとか「成熟」だとかとは言わないのです。

なぜか、それは私たちが「成長」「成熟」には「成長・成熟する主体の意志が欠かせない」ということを知っているからです。

例えば、あるスポーツ選手がそれ以上の成長を望まないのに、国家や組織がその意向を尊重せず、その選手にトレーニングの継続とそれによる選手としての成長を要求した、としたらどうでしょうか。

まず、そんな「成長」が可能かどうかさえわかりません(私は不可能だと思います)が、そういった結果起こるスポーツ選手の能力変化を、みなさんは成長だと思えますか?

私は思えません。なんだか、わけがわからないし、すごく気持ちが悪いです。

やはり、人間の成長・成熟というのは、その成長・成熟する主体の意志なしにはあり得ないことなのです。

いや、むしろ、

成長・成熟しようとする、その気持ち自体が、そのままほとんど「成長」「成熟」なのではないでしょうか。

株式会社ドワンゴの主催で日本将棋連盟が実施する棋戦「電王戦」、本年この棋戦でコンピュータ将棋ソフトウェア「PONANZA(ポナンザ)」と山崎隆之八段(叡王戦優勝者)とが対戦しました。

その模様をドキュメントしたNHKの番組「NEXT 未来のために▽不屈の“人間力”で人工知能に挑む 山崎隆之八段」が6月18日に放映されました。私も視聴しましたが、とても考えさせられる内容の、好番組だったと思います。

今期の電王戦で山崎隆之八段は2連敗という結果を喫します。しかし、その対局のあと山崎八段は「自分の将棋を見なおす貴重な機会をいただいた」「まだまだ強くなりたい」と言って、電王戦後も自宅で「PONANZA(ポナンザ)」との対局を続けるのです。

かつて棋士はコンピュータ将棋ソフトウェアにプロ棋士が負けることなどあり得ないと考えていました。

1996年版将棋年鑑。「コンピュータがプロ棋士を負かす日は?」という問いに対し、ほとんど全ての棋士が「来ない」と答えました。わずかにコンピュターの進化を予想する棋士もいましたが、その中でも2人をのぞいてほとんどの棋士が「コンピュータがプロ棋士を負かす日」について、明言を避けます。それは「プロ棋士としての自尊心」というか、「尊大な先入観」というか、そういったものが邪魔してコンピュター将棋ソフトウェアの進化・発展に対して、当時のプロ棋士のほとんどがクールな判断を下せなかったということだと言わざるを得ません。

その中で「コンピュータがプロ棋士を負かす日」を具体的に予想したたプロ棋士が2人だけいました。ひとりは羽生善治三冠「2015年」、もうひとりは森内俊之九段「2010年」。※タイトル、段位の表現は2016年7月25日現在。

羽生三冠の読みはやや遅きに失し、森内九段の読みは少々勇み足であったのは事実です。しかし、実際に現実では、2013年「第二回電王戦」でコンピュータ将棋ソフトウェアが現役プロ棋士を初めて公式棋戦で破ります。(女流棋士の公式戦でのコンピュータ将棋ソフトウェアへの敗北は2010年、その意味では森内九段の読みはズバリ正解だったのです。)

羽生・森内という2人の知性が「コンピュータがプロ棋士を負かす日」の到来をほとんど正確に予言していたのは偶然ではないと思います。

彼らには、他の多くの棋士にあった、邪魔っ気な「プロ棋士としての自尊心」や「尊大な先入観」みたいなものがほとんど無かったのです。

彼らは、つまらない自尊心や先入観のようなものよりも、当時コンピューター将棋ソフトウェアに触れたときの自分自身の感覚に忠実であった。そして、「今ではないけれど、いつか将来コンピューター将棋ソフトウェアがプロ棋士の将棋を凌駕するときが来る」という感覚を先取ることが出来たのだと思います。それは人間の知性がコンピューターの演算に「敗北」を喫することへの恐れのようなものでもあったでしょうし、それをきっかけにしてまだまだ人間の知性はグレードアップするだろうという期待と確信でもあったでしょう。

そして、それは今や、現役プロ棋士のコンピュータ将棋ソフトウェアへの敗北という現実を経験・目撃した多くの棋士たちにとっても同じはずです。

彼らは、もはやコンピュータ将棋ソフトウェアを「共闘のパートナー」「強くなるための対局相手」と捉えることはあっても、侮ることはありません。

それよりはむしろ、既存のコンピュータ将棋ソフトウェアの開発者たちの方がコンピュータ将棋ソフトウェアの近年の劇的な進化・発展に慢心したのか、「コンピューターは人間を超えた」とさえ発言しています。ここにコンピュータ将棋ソフトウェア勢力の隙があるように思えてなりません。

コンピュータ将棋ソフトウェアに意志はありません。ソフトウェアは入力されたプログラムにしたがって演算するだけで、「強くなりたい」という意志など持ち得ません。コンピュータ将棋ソフトウェアを強くすることができるのは、コンピュータ将棋ソフトウェアの開発者だけです。彼らが「コンピュータ将棋ソフトウェアを強くしたい」という意志を保てなくなったとき、コンピュータ将棋ソフトウェアの進化・発展は止まります。

まあ、実際は「将棋界のレジェンド」として羽生三冠が次期電王戦への参戦を表明したので、そんな慢心に甘んじているコンピュータ将棋ソフトウェア開発者など、ほとんどいないと思いますが(笑)

私はAI(人工知能)の進化・発展に興味があります。それはAIの進化・発展を目撃することを通して、私自身が「人間の知性」について、考えを深めることができるからです。

今のところ、明らかなのはコンピュータ将棋ソフトウェアに「強くなりたい」という意志は搭載されていない、ということです。もっとも、それは現存する全てのAIに「意志」が搭載されていない、ということを意味するものではありません。

私は以前このブログで「検索条件に何も入力しないで『検索』をすることができる」という機能を備えたAIは、まだ存在しないと思う、ということを書きました。

この「検索条件に何も入力しないで『検索』をすることができる」という私たちの脳の機能と、「意志」と呼ばれる私たちの精神の働きとは、いったいどの程度の関連があるものなのか…。

こういった問いも、私が今まさに思いついたものです。このような問いにすぐには答えは出ません。「わからない」「知らない」ことなのだけれど、それについて「わかりたい」「知りたい」と思う気持ち。これは前述の「強くなりたい」という気持ちと相通じるものです。

「できない」「わからない」「知らない」に対して、「できるようになりたい」「わかりたい」「知りたい」と思う気持ち。

それこそがまさに「成長・成熟しようとする気持ち」です。こういう気持ちを長く保つことが出来れば出来るほど、私たちは自身の成長・成熟の可能性を高めることができます。

では、そういった気持ちは何に由来するのか?身体のどこかにスイッチがあって、いつか誰かがそれを押してくれるというのか。果たして本当にそうなのか、少し考えてみる必要があるでしょう。

本当は「できることだけ」「わかることだけ」「知っていることだけ」していても良いのです。それは全然わるいことではありません。敢えて言えば、子供たちが学校や塾で取り組んでいる「学習」の過半は、実際には「できること」「わかること」「知っていること」の反復運用です。それは必ずしも意味の無いことではありません。大人数の子供たちに一斉に学習機会を提供するとき、そういった仕方を採用せざるを得ないのは当然ですし、そういった「既知」の動作・所作を身体で何度も繰り返すとき、ちょっとしたその都度の「違い」に子供たちの身体がザワッと反応する機会を提供するという意味では、教育上有効な仕方であるとも言えるからです。

そうなんです。「できることだけ」「わかることだけ」「知っていることだけ」していても、そこから「未知」を発見し、その解明へと歩みを進めることは出来得るのです。

肝心なのは、そういったときの私たちの身体のザワつきです。「既知」だと思い込んでいたものごとの中に「未知」の何かがうごめいているのを発見したとき、私たちの身体はゾワゾワと震えおののきます。それは好奇心の表れとも、恐怖の表れともつかぬものです。いずれにしても、自分自身の身体に「知ってる?」問い合わせても、身体が「知りません。情報不足です。もっと情報をください。」としか応答しない状態。これが私たちにとって「変化のきっかけ」「成長・成熟のきっかけ」となるものです。

少し難しい話かもしれませんが、脳が「YES/NO」のデジタルな判断を瞬時に下す仕事を担当しているのに対して、身体は「判断を保留する」「わからないことをキープする」という機能を備えています。

子供たちの成長には「身体で何かを体験する」ということが大切だということを私たちは直観的に信じます。それは私たち自身が成長する、すなわち「未知の何かについて知ろうとする」過程で、身体の「わからないことをキープする」という機能を利用したのを、私たち自身が覚えているからです。

例えば、大きなクワガタムシを手でつかんだ子供が感じているのは「なんだこの感覚は?」「なんなんだこの感動は?」という身体のザワつきです。大変な努力の果てに、たった1球の「失投」「エラー」「打ち損じ」のために敗北を喫したと感じている高校球児が体験するのは、これまで彼らが感じたことがなかった身体の震えや戦きです。

もちろんそういった体験に「スゲエ」「ヤベエ」という形容を与えたり、「1球の厳しさを知りました…」「実力不足でした…」と総括を加えたりすることは簡単です。でも、そういった形容や総括を超えて、「何なんだ?この感覚は」「この状態は何なんだ…」と問いを発し続けることも可能なはずなのです。

それこそ、私たちの知性が最も活動的になっている状態です。

よくわからない身体の感覚に「何だ、これは」と自分自身で問いを発し続ける状態。

これこそが私たちが「未知を理解すること」に対して最も貪欲になり、「もっと知りたい」「もっと強くなりたい」と前のめりになる状態です。

これが「学ぶ」ということなんです。

「学びたいという意志」「強くなりたいという意志」、すなわち「成長・成熟したいという意志」は身体のザワつきから生まれる。ある体験に「おおぉ…」と身体を震わせて、その「よくわからなさ」「不思議さ」についてもっと知りたいと自ら前のめりになる状態。それが「学習」「成長・成熟」であるというのが今日のところの結論です。

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