一生懸命でないから、出来る

こんにちは。穎才学院教務です。本日は武道家の甲野善紀先生のご本をご紹介いたします。

カーリルで開く

甲野善紀先生は日本古来の武術研究者としてしられ、その研究成果はスポーツ、楽器演奏、介護、工学等の他分野から注目を集めています。日本各地のみならず海外からも指導を依頼され、年中あちこちを飛び回っておられます。

先日、NHKの番組「SWITCHインタビュー 達人達」で甲野先生と俳優・片桐はいりさんの対談が放送されました。とても、エキサイティングな内容の面白い放送でした。

放送を見ながら、たくさんの刺激や気づきを頂戴し、放送終了後すぐに甲野先生の著書を手に取り、読み直しました。以前に読んだ時とは違って、今回印象に残ったのは、「一生懸命ではないから、出来る」という箇所です。

甲野先生がその講習会で必ずといっていいほど実演する技に「太刀奪り(たちとり)」という技があります。自分に向かって刀を振り下ろしてくる敵の、その刀の間合いに自ら入って、敵が刀を振り下ろす瞬間に身体を敵の側面へと自然に回転させて、太刀筋をかわしていまう、場合によってはそこから敵の刀をうばいとってしまう、という大技です。

この太刀奪りでの体のさばきは、足で床を蹴って動くそれとは、まったく異なります。

甲野先生いわく、身体を移動させる際に床や地面を蹴って動くと、蹴るために足を曲げ溜めを作り、その溜めを解放して動くという過程で、ロスが発生する。そしてそのロスは近距離で敵から真剣が振り下ろされるような状況においては、致命的なものになる、というのです。

これ、すごい「?」マークが飛ぶ話なんです(笑)

だって「床を蹴らなかったら、どうやって動くねん??」となるでしょう。でも、甲野先生いわく身体を倒れない程度に倒すことで人間は、床を蹴らずとも、床の上で移動・回転が出来るというのです。

やっぱり「?」マークが飛びますか?(笑)

甲野先生の話が「?」な人というのは、ご自身がイメージする動き(移動・回転)の起点以外の「起点」をイメージできない人です。

端的に言えば、「自分のわからないことがわからない人」と言っても良い。

例えば、高校の「物理」を勉強していて、「力」と「重さ」の違いが上手く理解できないという人がいます。高校の「化学」を勉強していて、物質の量を「モル」という単位であらわすという方法が上手く理解できないという人がいます。

それは今まで、モノの重さについて考えたことはあっても、モノにかかる(モノがかける)力については考えたことがあまりないからです。あるいは、物質の量を表わす時に「体積を測る」という方法を利用することはあっても、「粒の数をかぞえる」という方法を利用することはほとんどないからです。

お肉屋さんで肉の重さを測っているときに、「おー、牛肉に重力が働いている」と考える人はあまりいないでしょう。ペットボトルに入った液体の量を言い表すときに、「ペットボトル内には水分子がこれだけの数ある」と言う人はほとんどいません。そういうことを考える人のことを科学者といいます。その人が職業としての科学者ではないとしても、科学的な考え方をする人という意味で科学者と言ってよいでしょう。

それと同じで私たちの身体が動いているときに、「今、俺の身体が重量にしたがって自然と倒れ始めているな」とか「自分自身が備えている身体の質量を活かして、筋力をなるべく利用せずに相手を引っ張ろう」とか考える人は、そう多くありません。そういう考え方をする人が武術研究者です。武術研究者というのは、何も戦闘を生業としている人ではなく、常日頃から身体の使い方を研究する人のことをそう言うわけです。

頭を使うのも、それと似ている気がします。考えるときには、大きく分けて2通りの仕方があります。ひとつは「順を追って考える」、もうひとつは「フライングして結論を先取りし、そこから逆算する」という仕方です。

論理的に思考するというのは、仮定から結論まで常に一方向に論理を積み上げるという仕方ばかりではありません。本当に頭が良い人は、まずはじめになんとなく結論がわかって(それと同時にそれが順序よく説明できるはずだとなんとなく確信してしまって)、そこから逆算するようにして、仮定から結論までの論理を組み立てはじめるのです。

世間ではこれを「カン」と言います。カンが良いとか悪いとか言うときのカンです。

本当に頭が良い人は、頭が良すぎるので、いきなりカンで結論を言い当ててしまって、そこからそれを説明しようとしはじめます。だから、うっかりその説明を終いまでしそこねると、「フェルマーの最終定理」のように「結論だけ与えられて、その説明が困難なひらめき」みたいなものが残されてしまうのです。

まあ、数学者の中でも、物理学者の中でも、本当に頭が良い人たちは、そういうことを往々にして、やってのけてしまうのですけどね。

これは、甲野先生の「床を蹴らずに床の上を動く」という話とソックリだと思います。「床を蹴って床の上を動く」という仕方しかわからない人は、そうでない仕方としての「床を蹴らずに床の上を動く」という仕方がなかなか理解できない。「仮定から結論まで順を追って考える」という考え方しか知らない人は、「結論を先取りしてから逆算して考える」という考え方がどうしても理解できない。

理解できないなら、どうするか。

やってみせるしかない。

だから、甲野先生は「太刀奪り」という大技の身体運用を、理屈ではなく実技として示されるのだと思います。

ふう…。ここまでが「一生懸命でないから、出来る」の前置きです。どうしようもなく長い前置きでゴメンなさい。でも、それぐらいの前置きが要ったのです。

そしてですね。その「太刀奪り」をめぐる話です。

そういう「太刀奪り」について、甲野先生のご子息は、その「太刀奪り」をちょっと練習しはじめたとき、すぐに「ああ、今はこれをトレーニングする時期じゃない」と悟って、やめられたと言うのです。これを甲野先生は、親の贔屓目ぬきに、ご子息の掛け値無しの武道センスの良さの現れだと説明されます。

普通は「頑張れば出来るかも」と思いますよね。何度も何度もトレーニングすれば、出来るんじゃないか、と考えても不思議ありません。

でも、そうじゃないかもしれない。しばらくの間、「頑張って出来ない」ということが続くと、「出来ない」という感覚が自分に刷り込まれて、トレーニングが逆効果になるかもしれない。

ご子息はそういったことを考えて「太刀奪り」のトレーニングを中止したのだろう、と甲野先生は推察されます。

「SWITCHインタビュー 達人達」でも甲野先生は言っておられましたが、私たち人間はついつい身体感覚よりも脳内感覚を重視します。本当は身体に悪いのに、いつまでたっても日の当たらないタバコの煙が充満したゲームセンターやパチンコ店で遊戯に耽るのが止められない、という人っていますよね。あれは身体感覚よりも脳内感覚を優先する人間の典型例です。あれ、ゼッタイ身体に悪いです(笑)

そういう甲野先生の慧眼は「努力」という概念にも及びます。私たちはトレーニング中に「実際に身体にどのような変化・影響が及んでいるか」よりも「頑張っている=努力しているという実感が脳内で得られるか」ということを優先する場合があります。そうすると、実際には身体を痛めていても、そういうトレーニングを継続してしまったり、実際には出来ないまま留まっているのに、その訓練を「出来るようになる」と信じて続けてしまったりするのです。

だから、甲野先生はよく「根を詰めて稽古をしないように」とアドバイスなさいます。指導を受ける弟子やスポーツ選手が「まだ出来る時期ではない」時に、反復練習や課題の継続を指示することは決してありません。そういう「宿題」は無意味どころか、逆効果だと先生は考えるからです。

よく「何時間トレーニングした」とか、「何日間継続してトレーニングしている」とか言ったことだけを成長の指標にする人たちがいますが。それはあまり上手い仕方ではありません。だって、身体を痛めるトレーニングを何時間も何日間も続けたら、それは身体をひどく痛めることにしかならないじゃないですか。

大切なのは「身体がどう変化したか」です。良い変化をしていると観察できるなら、それを続ける。悪い変化が起こっているなら、そういうことはやめる。シンプルな方針です。

「○○できるようになりたい」「○○になりたい」と願っているだけじゃダメなんです。いくら努力しても、願い続けるだけの努力では何も変わりません。願いはきっかけであって、その次にはもう身体が変わらなきゃダメなのです。

甲野先生はこうもおっしゃいます。

「ああなりたい」と熱烈に願うことは、何にしても、そのことを始めるための動機づけにはなりますが、常にそう思い続けるということは、「今はそうではないから、そう思い続けている」わけで、「自分の願いを憧れの対象として、いつまでも思い続けたまま」という状態になってしまうおそれがあります。これでは叶うものも叶いません。

一生懸命に願うのではなく、願いが叶った状態を先取りする、ということが大切なのだと思います。

「願い事は<何々になりたい>とか、<何々が欲しい>ではなく、<何々になる>あるいは<何々が手に入った>というような、既にそのことが成就した形で願うことが効果的だ」

というのが甲野先生の教えです。教育者を標榜する人間は、ぜひ甲野先生の武術研究にふれてみてください。得るものは大きいと思います。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed