「あいさつをしないとどうなるのか?」再考

「あいさつをしないとどうなるのか」という主旨の検索でこのブログ記事にたどりつく人たちが一定数いらっしゃるようですね。わざわざ調べてもらったのに分かりにくい文章ですみません。はい、書いた私が言うのです、分かりにくい文章だと思います。

そのままにしておくのは申し訳なく思えてきたので、これから同じテーマで文章を書き直してみようと思います。

私が書く文章はいつも分かりにくいので、おそらくは今回も分かりにくい文章ができあがると思います。その意味でみなさんを助けるところはあまりないのかも知れないのですが、文章を書くのは私の自由ですから、書いてみようと思います。宜しければご一読ください。

では、参りますね。

「あいさつをしないとどうなるのか?」

はい、たいしてどういったことにもならないかも知れません、しかしそういったことがずっと続くとちょっと、いやかなり、困ったことが起きるかもしれません。

そもそも「あいさつをしないとどうなるのか?」と問うこと自体が普通はありません。

もちろん普通はないことが良いのでも悪いのでもありませんね。

例えば私たちの身の周りの物について考えてみます。物体です。

あなたの身の周りにも物があると思います。そういった物体の成り立ちについて根源的に考えるということは、普通あまり無いことかも知れません。大人なら学校で教わったことを活かして、物体は分子や原子といった粒子からできているという説明を思いついたり、さらに詳しく調べてもっと小さな単位の粒子が物体を構成しているという説明についての理解にたどりつけるかも知れません。J.J.トムソンという人が19世紀の終わりに真空管を用いた実験をして、原子を構成するさらに小さな単位の粒子である電子という粒子の存在を実験に基づいて発見・説明しました。それをきっかけにさまざまな小さい単位の粒子(素粒子)の発見が続きます。

いま私の手元には味噌汁がはいったお椀があります。(ご飯を食べながらこの文章を書いているんですね。)そのお椀も20世紀以降に発見された素粒子の構成によって出来ていると説明できるわけですが、そういったことを味噌汁を飲みながら考えることは普通はあまりありません。

では味噌汁を飲むのに利用したりするお椀について、そんなものはこの世に要らない、無くても良いんだと全く顧みないというのはどうでしょう。

うーん、困ってしまいますよね。お椀という呼び名でなくても何らかの容器を用いないと汁物を喫することはできません。まあ、普通そういう困ったことは起きないので、私たちは日常の生活で困ったりしていないのです。

「あいさつをしないとどうなるのか?」と問う人には2種類のタイプの人がいると思います。

1つはあいさつをするということについて根源的に考えるタイプの人です。ちょうど先ほどの身の周りの物の構成について素粒子レベルで考える人に似ています。

もう1つはあいさつなんて無くても良いのではないかとあいさつの存在価値について信用を置かない人です。先ほどの例で言うと後者の汁物を飲むのに利用する容器が無い状態を招来する人がこれにあたります。

あいさつには社会的な機能があります。それは汁物を飲むのに利用する容器が私たちの生活で機能を発揮するのと同じです。そのことについて普通あまり考えなくても、それには機能があるのです。そういう社会的機能を持つものが無くなると、社会ではたいへん困ったことが起きてしまいます。

あいさつをする人が0人になった社会ではたいへん困ったことが起きてしまうということですね。

何となくお分かりいただけると思います。

では、どんな困ったことが起きてしまうのでしょうか。さあ、想像してみましょう。

うーん。

何だか、言葉が通じない世の中で、コミュニケーションが上手くいかないといったことがありそうです。

そうなんです。私たち人間は言葉を用いています。言葉という記号を人と人との間、集団と集団の間でやりとりするというのは私たち人間の特徴です。それだけではありません、私たちは届くかどうかわからない宛先にあてて言葉あるいは言葉のようなものを送り届けようとすることさえあるのです。

1977年にアメリカ航空宇宙局が打ち上げたボイジャー1号には「ゴールデンレコード」と呼ばれる金メッキされた銅板が搭載されています。その銅板には様々な言語による様々な社会の挨拶、地球の人間の生活の様子を示すイラスト、ザトウクジラの鳴き声の音声などが記されています。ボイジャー1号は現在も宇宙区間を秒速約17キロメートルというとんでもない高速で飛んでいますが、やがてそれをキャッチする太陽系とは異なる恒星系の知的生命に宛てて、ゴールデンレコードは送られているのです。

いわゆる宇宙人だけがそういう宛先なのではありません。

私たち人間はすでに亡くなった人に宛てて言葉を送り届けようとすることがあります。

そういう途方もないスケールのコミュニケーション能力が、私たち人間、すなわちホモ=サピエンス=サピエンスを生き残らせたと説明する人類学者もいます。

言葉は私たち人間がサルでなくなったころから用いている仕組みです。お金よりも古くから人間が利用している仕組みです。

お金も人間社会において重要な仕組みですが、それよりも古くからある言葉の仕組みの機能はお金で代えられるものではありません。

どんな人もその人の「言葉」を用いて他と関係しようとしています。様々な理由で口頭での言語音の発声が困難な人はいます。しかしそういった人たちも言語を用いています。

あいさつに限らず、言語的コミュニケーションをおろそかにすると、いずれ言葉を使わなくなる社会が出来するかもしれない。

あれ、あなたは本気にしていない?

誰かがあいさつをしないくらいでそんな社会になるはずがない?

うーん、確かにすぐにはならないでしょうね。でもそれは日常生活で別の誰かがあいさつをしたり、物事の丁寧な説明をこころがけたりしているからです。

他の誰かが。

その場合は、他の誰かがしてくれているから社会がもっているんです。

あいさつは言語的コミュニケーションのひとつであり、言語的コミュニケーションは人間を本質的に特徴づける行為です。

あいさつをしなくなるとか、表面的にあいさつをしているだけで言語的コミュニケーションについて充分に考えられなくなるとかいったことが起きると、そういった人間性の根幹に関わる重要な行為が社会からどんどん失われていくでしょう。

そういったことは避けた方が良いと私は思っています。

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