ネコ型合宿生活(2018年ver.)

恒例の夏合宿、志賀高原スカイランドホテル。

ここに来て、もう9年になる。今回の参加者は37名。

小学5年生から高卒生まで、24名の生徒と9名の講師、2名の事務員、塾長と私である。

ふつうの学校や塾の合宿と違って、異年齢の子供たちが共に生活するというのが穎才学院の合宿の特徴だ。勉強する内容・進度に限らず、食事をとるペースだって、お風呂に入る時間だって、みんな異なる。どうしたって、していることが多彩になる。

同年齢の同レベルの人だけを集めて、焦点を絞った授業なり指導なりをした方が効率が良いという考え方もある。そういう考え方だってあって良いのだけれど、私は小学生から高卒生まで、勉強が苦手な子から得意な子まで、ランダムに混在している状態の方が好きだ。

既に少し賢い人は、まだそうでない人に教えるという仕事を担う。教えるためには、その内容について、自分の言葉で説明し、その言葉どおりに自分で実際にやってみせることができなければならない。これは、ただ自分で勉強するだけというのとは異なる能力を必要とする。

まだ賢くない人ができないとき、そのできなさには共通した特徴がある。

そこでは計算スピードの速さとか漢字に対する知識量とか、そういう学力的不足が肝心なのではない。もし、そういったことが不能の主因なら、とにかく無我夢中で勉強しているうちに、だんだんできるようになるはずであるが、たいていの場合、不能の主因はそうではないから、そういった場合は、いくらがんばっても、それだけではできるようにはならない。

できないのは頭を使うときのマインドセット(頭の使い方)に誤りがあるからである。

内田樹先生がよく言うように、学ぶのは「電車に乗って進む」ことに似ている所がある。いくら一生懸命に勉強しても、頭の使い方に誤りがあると、なかなか勉強ができるようにならない。それは、目的地を間違えて電車に乗るようなものだ。東京駅から東北新幹線にのって新大阪駅に行くことはできない。でも、「新大阪行き」という目的地に係る設定さえ間違えなければ、乗っているのが各駅停車の「こだま」でも、品川駅、新横浜駅、小田原駅、熱海駅…、と進んでいつのまにか新大阪駅にあなたはついている。

勉強ができないときに起きているのは、電車の進みが遅いというようなことではなく、目的地について考えずに電車に乗っている(目的地が間違っているか、電車が進んでいないか、そういった)ようなことである。
そもそも、学びにおける重要な目的のひとつは、人間の潜在能力の最大化である。

もっとも、「潜在能力」という言い方をすると、まるでひとりひとりの人間の中に固有の「能力の種」が埋まっていて、それに水をやったり肥料をやったりすると、だんだん開花する…というイメージを抱かれるかもしれないから、ちょっとまずいのだ。

実は「潜在能力」というのは、私たちの中にあるのではない。

それは内側から外部につながる能力のことなのだ。

たしかに、人間の内側には宝庫(ほうこ)があるのだが、その宝庫の扉を開いて外からその中を見ても、そこにダイヤモンドみたいなものがあるわけではない。

宝庫の扉が開くと、その内側から見えるものは、それまでに見たことがない景色なのである。

ふつう、ほとんどの人たちが人間の中にあるはずのものだと思いこんでいるものは、実は人間の外にあるものなのである。ふつう、私たちは私たちの性格、好き嫌い、信念、夢、才能について、私たちの体内や脳内(あるいは心の中)に
内蔵されたものだと考える。でも、私の性格、好き嫌い、信念、夢、才能といったものは、実はすべて私の外にあるものとの関わり方によるものだ。もしあなたが、あなたの内側について深く考えがちだとしたら、それはあなたの外に向かうきっかけなのである。実はね。

ややこしい言い方をしてすまない。こう考えてもらえばよい。

人間がよく生きるというのは、きれいな夕焼けを見るのに似ていると言えるだろう。

夕焼けというのは、昼と夜の間にだけ存在するものである。昼」と夜の境目以外に夕焼けは存在し得ない。そもそも、毎日、昼と夜は必ずおとずれる。それは何も特別なことではない。でも、私たちは夕焼けを見て、美しいなあ、としみじみ思うことができるのである。

みなさんには、まだ少し早いかもしれないが、恋愛がそれと同じでしょう。恋愛がわかりにくかったら、あなただけのお気に入りの服をみつけるというシチュエーションを想像してもらえるとよい。服が本でもスポーツ用具でも、何だって良い。

激しい恋愛感情は必ず「この人に出会うことは私の運命であった」という印象をもたらす。

ここで「運命」というのは、勘違いや思い込みに基づく、一種の既視感みたいなものである。

「運命の○○を見つけた」という人はよくいるが、じゃあそういう人たちに「では、あなたはどうしてそれを『運命の○○』と断言できるのか」と聴いてみたい。多くの人は、眉(まゆ)をひそめて、いぶかしむだろう。
でも、中には、少し慎重(しんちょう)になりながらも、生真面目にこたえてくれる人がいる。例えばそれが「運命の一着」だったら、きっとそういう人は服の「赤い色合いが良い」とか、服の「デザインが良い」とか、そういったことを丁寧(ていねい)に説明してくれるだろう。でも、実際にその服の「赤い色合い」が、その他の赤と、どう違うのか。その服のデザインが、その他の類似のデザインとどう違うのか。そういったことは、ほとんど説明されていないはずだ。要は、確かに違いはあるけれど、それは他とほとんど同じだ、ということを彼らは一生懸命に述べているのである。

当然だ。

私たちが「運命の服」を見つけて喜ぶのは、ほんとうに他と違う奇抜な服(袖が一本しかないとか、首を出す穴があいていないとか)を見つけたときではなく、他と(ほとんど)同じ服が他と違うように思えた時なのだから。

恋愛だって同じなのである。君たちは一度は考えたことがあるのではないだろうか。「お母さんはどうしてこのオジサン(お父さん)を好きになったのだろう」と。(もちろん、その逆について考えてもかまわない。)

君たちがそうやって思うのは、目の前にいる「お父さん」としてのオジサンが、確かにあなたの父親という点でかけがえがないかも知れないのだけれども、他のオジサンとほとんど同じように見えるからである。そういうのを凡庸(ぼんよう)という。君たちは、若き日のお母さんがたくさんいた若い男の人のなかから、後に凡庸なオジサンとなるこの男の人を選んだ理由がわからない。お母さんにそれを聴いて、何回かに一度、運よく答えのようなもの(「むかしはかっこよかったのよ」とか)を聴いても、納得がいかない。それは当然だ。だって、凡庸なオジサンはかつて凡庸な若者であったことが、君たちにも容易に想像できるからだ。むかしはかっこよかったはずがない。

でも、君たちはひとつ大切なことを間違えているのである。お母さんは「特別な男性に出会った」から恋をした(結婚しようと思った)のではない。お母さんは「凡庸な男性を『なんだか他とは違うかも』と思えた」から恋をしたのである。世界ではこれを「愛」と呼ぶ。それは、結局、勘違いや思い込みとほとんど同じことなのだけれど、それで良いのである。

話が少し長くなったのでまとめにかかる。

人間という「宝庫」を開くと、その内側から見て外側にはこれまで「見たことのない世界」がひろがっている。そこにあるさまざまなものと、私たちが特別な関係を取り結ぶこと、それを世界では学習と呼んでいるのである。そこにあるさまざまなものは、実際には凡庸なものである。それを「なんだか他とは違うかも」と呼ぶのは、今まさにここにいる、あなた自身なのである。

学びの対象は世界に無数に存在すると言って良いだろう。学びが専門化して、その対象が限定されても、そうすると今度はその対象を細部まで詳細に観察したり、深く理解したりすることができるので、学びが専門化しても、学ぶことは尽きない。

だから、学びはじめの人も、専門家も、いくらでも学ぶことができる。主体的に学ぼうと思えば。そして、あることについて学ぶことが「私の運命だったのだ」と思えたときに、私たちはその対象と深い関係を取り結ぶことになる。それは恋愛における人間同士の関係と同じで、実に電撃的な直感によって確かめられたり、そういった関係から生きる力を得ているとしみじみと感じられたりするものなのである。やはり、それは勘違いや思い込みと同質のものなのだけれども。

でも、そういう強い感覚は、私たちの身体にとって、強いエネルギーとなる。そういうエネルギーを世界では生きる糧(かて)とも、生きる力とも、名付けている。

私たちは特別なものとの出会いによって、そういった生きる力を得るのではない。どこにでもある、ありきたりな何かを特別なものだと思えたときに、生きる力を得るのである。

学びの重要な目的地のひとつはそこである。テストで高い得点を取ることや学歴を高めることだけが学びの目的なのではない。そこを間違えてはいけない。

この合宿で行われることは、日常的なことばかりである。朝起きて、ラジオ体操をして、みんなで朝ごはんを食べて、勉強して、授業を受けて、みんな昼ごはんを食べて、ちょっとお昼寝して、また勉強して、外で遊んで、お風呂に入って、みんなで夕ご飯を食べるのだ。

そういうネコみたいな生活(起きて、伸びをして、食事をして、なわばりを散歩して、昼寝して…。)を参加者はこの合宿で体験する。でも、そういう生活のふとした瞬間に「あれいつもと違うのかも」と思うことで、その人は凡庸な日常と特別な関係を取り結ぶことになる。

そこに参加者たちが成長するきっかけが隠れているのである。

夜空だって、見上げてみれば、何か見上げた人の心をふるわせるきっかけがそこに見つかるかもしれない。みんなでご飯を食べているときに、あっ、そういうことなのか、という重要な気づきがあるかもしれない。

主体的な「ネコ型生活」を通して、私たちは成長するきっかけを得るのである。

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