地球上の「旅人」

塾生とヤマザキマリさんの「地球上の『旅人』」を読んだ。

ヤマザキさんは東京都のご出身だが、幼少期を北海道ので過ごしたらしい。

北の大地に羽を休めに訪れる渡り鳥の姿や、元は母上の愛読書だったという『ニルスの不思議な旅』の旅行的冒険の様子に憧れた「私」は、どこにいても旅を続ける生き方を選んだというわけだ。

その本文に「アウェイ」と「ホーム」という表現があった。

ちょうど昨日、かつて私の生徒で今はカナダで生活している人とInstagramのDMで話す機会があり、そこで「ホーム」と「アウェイ」の話をしていたので、そこが非常に印象に残ったのだ。

様々な土地を旅する「私」はそのどこでも「アウェイ」なわけだが、言うなれば地球そのものが「ホーム」なわけで、そういう気分になる以上はハッピーであるようだ。

しかし、昨日話していた人は違った。どこにいても「アウェイ」な気がして、それは寂しい気がすると言っていたのだ。

「私」は言う、「(私は)旅人である限り、どこへ行っても〝よそ者の傍観者〞」であり、そうであり続ける上で感じられる「緊張感」に「心地のよさ」を覚えると、「帰属を問われない透明人間でいられること」は「気楽」なことであると。

そうは言っても、傍観者であることが許されないと感じられる場合もありそうだし、帰属が問われることもやはりありそうだ。

そういったことがある以上、よそ者の傍観者であり続けるにしても、透明人間でいるにしても、それなりの自己を維持する力が要る。

そのように思え、その上で「私」の言う「緊張感」の正体が気になってしまったのだった。

さっそく、ヤマザキマリさんの著作にあたる。『国境のない生き方』(小学館新書)だ。そこに何が書かれてあるかわからないが、とにかくそれを読むことにした。

そうするとわかった。

ヤマザキさんは、自分を防御しれくれるもの、守ってくれるものがないところでこそ、その人が「自由に生きる」という仕方が試されると言っている。

その信念の基礎はヤマザキさんの「十四歳の時のフランス・ドイツ一人旅」(教科書本文)にあるようだ。

どうやら「地球上の『旅人』」になるには条件があるらしい。

教科書には

「地球上の『旅人』という意識を持ち続けて毎日を生きている」(13・2)とはどのように生きることをいうのか。本文全体をとおしてまとめてみよう。

という問いのようなものが設けられているが、そういう生き方をするのには、ただ国語の教科書を読んでそれをまとめるだけで良いのではないようだ。

ヤマザキさんは「囲いの外に出る」という言い方をしている。(『国境のない生き方』)そして、どこに行こうとも、逃れようはなく、何かの「壁」があると。本を読むことで培われる教養が「ボーダー」を越えるとも説明している。

どうやら、自由に生きるというのはやはり簡単なことではないようだ。本を読まないと、そうしてたくさんの人たちに出会い、頭をガツンと強烈になぐられるような知的経験を経ないとわからないことがあるようだ。

どうやら「地球上の『旅人』」になるのは自動的なことではないらしい。

このヤマザキさんの文章を教科書の冒頭に持ってきた三省堂、なかなか大胆なことをするではないか。いや、それともそういったつもりは毛頭ないのか。その真実はうかがい知れないが、教科書の冒頭に載せるために抜き出されたヤマザキさんの文章は、そこだけでも充分に考えさせる余地を含んだものだった。

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