こんにちは。なめこです。今日はつぶあんとこしあんに関するお話から始めます。
Twitterで議論吹っかけてくる人ってだいたいこんな感じじゃない? pic.twitter.com/80pVHT9Xmp
— 高 史明(TAKA, Fumiaki) (@Fumiaki_Taka) June 18, 2017
少し前のことです。上のようなTweetを見かけました。なるほどなあと思いました。比喩を用いた上手な説明ですね。
【毎年夏開催】小学生の柔道全国大会を2022年度から廃止「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」https://t.co/RH8IkjV6vf
関係者によると、指導者が子どもに減量を強いたり、組み手争いに終始する試合があったりした。判定を巡り指導者や保護者が審判に罵声を浴びせることもあったという。 pic.twitter.com/6pnrYRAAvR
— ライブドアニュース (@livedoornews) March 18, 2022
今日、上のような新聞記事を読みました。小学生の柔道全国大会に関する話です。
記事(朝日新聞)によれば、全柔連幹部は「大人が、子どもの将来ではなく、眼前の勝敗に拘泥する傾向があった。見つめ直す契機にしてほしい」と話しています。子どもの将来というのは具体的にどういうことか、内容の定義は不明ですが、それはそれぞれの子どもたちが大人になる過程で、あるいは大人になっても一つ一つと選び取っていくことだとぼくは思います。小学生の柔道全国大会において、そういった長い時間の流れの中でその本人それぞれに任されるべきであることがらよりも、ある時刻そのときに決定される成果、すなわち「眼前の勝敗」に大人たちがこだわる傾向が憂慮されたのでしょう。全柔連さんによる考えの本質はそこだと思います。
仮にそうだとしましょう。
一方で、小学生の柔道全国大会に関する記事に言及して以下のような意見もありました。
――
吹奏楽コンクールの金賞至上主義が話題になるが、高等学校での学力至上主義、進学実績至上主義は何故問題にされないのか?
コロナ禍、オンライン授業&部活中止なのに、特進クラスは登校させて勉強させている学校があると聞く。
何より生徒たちを歪めていると思うよ。
――
??
これはどういうことでしょう。意見の主旨は「高等学校での学力至上主義、進学実績至上主義」は「生徒たちを歪めている」ということだと読み取れます。そういった意見が事実に基づいたものなのかどうか、よくわからない上に、そういったお話は小学生の柔道全国大会で「大人が、子どもの将来ではなく、眼前の勝敗に拘泥する傾向があった。見つめ直す契機にしてほしい」というお話と、どれくらい関係があるのでしょう。ぼくにはよくわかりません。
つぶあんとこしあんの話をしているのに、小粒納豆とひきわり納豆の話が唐突に出てきた。そんな感じが否めません。
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「行き過ぎた勝利至上主義」が理由で小学生の柔道全国大会を廃止するならば、あらゆるスポーツ大会、全ての入試、選考試験、コンテスト、評価も廃止すべきだということになり、順当に共産主義に行き着く。やりがいがないので誰もやる気がなく一部の支配者だけが得をする世界。
――
??
こんな意見もありました。「共産主義」の理解・解釈が順当なのかどうかも充分に批評されるべきだと思われますが、それにしても、小学生の柔道全国大会における「大人が、子どもの将来ではなく、眼前の勝敗に拘泥する傾向があった。」とされるところの具体的かつ特定の出来事が、どうして「あらゆるスポーツ大会、全ての入試、選考試験、コンテスト、評価」に関する話にひろがるのでしょう。やはりぼくにはわからないのでした。
「一般化の罠」という言葉があります。私たちが個人に関する経験的知見を無理に一般にあてはめてものごとを考える傾向をそのように罠に喩えて言うのです。
それと少しだけ似ているところが、つぶあんとこしあんに喩えられる話にもある気がします。
つぶあんとこしあんの関係が、小粒納豆とひきわり納豆の関係によく似ている、片方において言えることはもう片方において言えるべきだという個別的意見は否定できません。ただし、その意見がどれくらい妥当なのか、そういったことは客観的に確かめられるべきです。
豆類からできた加工食品という共通性があったとしても、それ以外であんこと納豆のそれぞれに関するものごとに、いったいどれくらいの共通性があるのか、そういったことはその都度、丁寧に確かめられるべきだとぼくは思うのです。
あ、ぼくは全柔連さんを擁護しているのではありません。柔道についてぼくは全くの素人ですが、全柔連さんに関してはコンプライアンスに係る懸念について報道されたことがあったのをぼくは覚えています。ぼくは全柔連さんの活動に全面的に賛同するわけでも、全面的に反対するわけでもありません。
肝心なのはものごとを論じる際の筋道だとぼくは考えています。
つぶあんとこしあんの話を、無理に小粒納豆とひきわり納豆の話にしないこと、そういったことに注意しないとものごとを考える際の筋道が明確にはなりません。
どうでしょうか。皆さんにはこういったことが気になることはありませんか?
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