惰性の強さと人間性

こんにちは。きよしです。都心では夏から秋へと天気の移ろいを感じます。一方で感染症対策が重要な時期が続いていますね。皆様、お元気でいらっしゃいますか。

さて、今日は学校・大学などでのオンライン授業に関するお話です。

オンライン、分散登校、通常授業再開 宣言延長で割れる学校の判断(朝日新聞)

オンライン授業「カメラをオンに」 応じた学生は1%(朝日新聞)

塾で相次ぐクラスター、広がりケタ違い 「対面授業の要望強いが」(朝日新聞)

まず今日のお話の前提として、日本国内における新型コロナウイルス感染症対策がまだ重要であるとぼくが考えていることを確認してください。よろしくお願いいたします。以下はその上での話だと考えてくださいね。

さて、上に引いた新聞記事などによると、学校や大学、塾などでオンライン授業が実施されていますが、それを利用する人たちの中には、オンライン授業を望む人もそうではない対面授業を望む人もいらっしゃるようです。そして学校・大学・塾関係者のいくらかは、オンライン授業を利用しながら、なるべく元の仕方である対面授業に戻したいと考えているようです。

新聞記事の中には「できるだけ早く対面授業を再開したい」という教育委員会関係者の声や「デルタ株の感染力の強さに衝撃を受けた。保護者の対面授業へのニーズは強いが、子どもの安全を優先した」という塾経営者の声が見つかります。

この文章では、学校や大学などについて、オンライン授業の利便性を一定は認めながらも、従来の対面授業を基本とした学校や大学の運営が望ましいという社会的共通了解があると仮定します。

そうだとすると私たちはどうしてそのように考えるのでしょう。ぼくはそこから先へ、ぼく自身の考えを進めることにしました。

学校は惰性が強い仕組みだという考え方があります

惰性とは従来からのくせとか、他から力が働かない限り物体がその運動状態を持続する性質とかのことです。

学校が惰性が強い仕組みだと言うのは、社会科学的事実に基づく言説ではなく、人文的直観だとぼくは思います。そうだとして、ぼくも直観によって考えを進めることにします。

学校が惰性が強い仕組みなのは、学校が人間性に関する仕組みであるからだとぼくは思いました。

岩波書店の『広辞苑第六版』で、人間性は人間としての本性や人間らしさのことだと解釈されています。

ではぼくが言う学校に係る人間らしさというのは何だろうということが気になりますね。

それは人間の過去参照性のことです。人間は既に起こったできごとについて、過去に理由を求め、何らかの合理的説明を試みます。その意味で人間は無意味にたえられない生き物だとぼくは考えます。

作家の村上春樹さんは各作品の物語世界内で、登場人物が既に起こったできごとについて、過去に理由を求め、何らかの合理的説明を試みる様子を繰り返し描いています。

精神分析家のラカンは「文はその宛先の人なり」(Le style c’est l’homme à qui l’on s’adresse)と言っています。

Le style c’est l’homme, en rallierons-nous la formule, à seulement la rallonger : l’homme à qui l’on s’adresse ?

『エクリ』の序文でラカンは上のように書いたのです。よくわからないと思うので、少し説明をしますね。

例えばぼくが知らない人から急に罵声を浴びたとします。「くさい」とか「きもちわるい」とか言われたとしましょう。ひどいですね。

そうしたとき、とても嫌なことなのですが、ぼくは「あれ?ぼくってくさいのかな?」とか「ぼくって口の上下で歪みがあるから、それはやっぱりきもちわるいのかな」とか、考えてしまうでしょう。

実際にはぼくがくさいのか、くさくないのか、それはよくわかりません。きもちわるいかどうかについてもそれと同じです。ぼくのことをあまり知らない、ぼくもその人のことをあまり知らない、そういう人が言ったことですから、そんなことにどの程度の信憑性があるのか、全くわかったものではないのです。

それなのに、ぼくはその面識が無い人が吐いた言葉を受け止めてしまうのです。皆さんにもそういった経験があるかも知れません。それはとても嫌なことだと思います。

ではどうしてぼくはそんなことを気にしてしまうのでしょう。それはぼくが日頃からにおいについて気にしたり、他者のよる自己評価について恐れたりしているからだと思います。

つまり、こういうことです。

ぼくはくさいかもしれない。くさいと嫌だな。

ぼくは人に気持ち悪いと思われているかも知れない。そうだとしたら嫌だな。

そういったことをぼくがいつも考えていると、ぼくは他の人からうっかり聞いたそれに似た言葉をまことしやかに受け止めてしまうのだと思います。そして、過去からそれらしい理由を探し、その言説を合理化しはじめます。

例えば

「あ、さっき食べたラーメンにニンニクがたくさん入っていたのかな、だからくさいのかな」など、何らかの理由を過去に求めてしまうのです。

このように、

人間は他者の言葉を経由してしか言葉を聞くことができないとか、

人間は考える生き物だが、人間が考えるには他者の言葉が必要であるとか、

そういったことが人間性において本質的なことなのだと言われているわけです。

その際に人間が聞く言葉は常に過去の言葉です。未来の言葉を聞くことができる人はごくまれにいらっしゃるそうですが、そういった方たちも未来の言葉を聞いたという過去形でそれについて説明をします。同じことです。

このような人間の本質的性質をぼくは「過去参照性」と名付けました。

学校や大学は教育などのための仕組みですが、教育をするというのは、他の動物と人間の違いに関わる、人間の本質的特徴の一つだとぼくは思います。そういった教育に関する学校や大学が人間の本質的性質によって、過去の言説に引っ張られるような仕方で惰性の強い特徴を備えていても、それは仕方がないとぼくは考えています。

これからも学校や大学は、少しずつ変化しながらも、過去の仕方を参照した惰性の強い仕組みで続いていくのだとぼくは予想しています。それは児童・生徒に対して、国からの予算を利用して、1人1台のタブレットが配布されても、同じだと思います。

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