教育と暴力

怒鳴る指導求める親に「バカだ」 分裂危機、導いた答え(朝日新聞)

こんにちは。きよしです。今日は読んで印象に残った新聞記事に関して、書こうと思います。お付き合いをいただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

市民が運営する子供向けラグビー・クラブをめぐるエピソードでした。子供向けのスポーツ・クラブですから、それには親である大人が関わります。エピソードの中心はその大人たちの振る舞いや考え方に関することでした。

記事を読んだぼくは思います。

① 強い力を持つ人が暴力やそれに関係する恐怖で弱い立場の人を支配するのは卑怯な仕方でしょう。

暴力を合法的に行使できるのは国家権力だけです。それが国家権力の源泉だとMax Weberが説いています。このように国家は合法的な暴力行使を独占するので、それ以外の暴力行使は合法的ではないのです。合法的でないものごとの中で何が違法なのかということは、法令に基づいて判断できます。

ところで国家は個人ではありません。

よって個人が行使する暴力はすべからく合法的でないと言えるのです。

また暴力と恐怖は異なります。ただしそれらは関係しています。暴力に関係する恐怖で個人が他者を支配するのは、個人による暴力が合法的なものでない以上、卑怯な仕方だとぼくは思います。

② 子供がすることに口を出すことだけが親がすることではないでしょう。

教育というのは教え育むことですが、教えるのと育むのとでは、その仕方がずいぶんと異なることがあります。

教育が子供にとって重要なものだとして、教育は教えることと育むことでできているとします。その場合、教えるだけで育むことが不充分だと、子供に対する教育的効果は充分なものになりません。

口を出すというのは教えることではっても、育むことではない気がぼくにはするのです。育むことは「羽包む」の意であると説明する国語辞典があります。例えば、親鳥がひな鳥を羽でおおい包むような仕方を言うのです。外的環境の危害から子供を守り、子供が食べられるものを子供に食べさせ、子供が休みたいときに子供を休ませ、子供が健やかに生きられるように下の世話までする。そういうことが育むということの具体的な仕方だと思います。人間は他の動物と違い、言語で世界を区切り、名付けます。またそのようにすることでものについて知るだけでなく、ものとものとの関係を理解するようになります。そういったことが人間的知性と関係しているのですが、そういう知的成長が充分にできるような人間的環境をこしらえるのも、人間の育みだということでしょう。

知的だというのは、ものごとについてたくさんの情報を知っているという様子だけを言うのではありません。知的だというのはすばやく判断して強い力を発揮することだけを言うのではありません。知らないことがあることに気がついたり、不明なこととそうでないことの区別をコツコツと続けたり、不明なことについてじっと判断を留保したりするのがすぐれた知性への入り口です。またそういったことは本人がすることで、他の人が代わりにすることではありません。

そのように知的であるということについて考えると、子供の知的成熟において、子供がすることに口を出すことだけが親がすることではないとぼくには思えるのです。

新聞記事に関するぼくの話は以上です。

気になることとそうでないこととを区別することがぼくにはできるようです。ぼくが気にすることのいくらかは知的な好奇心に関することで、残りのいくらかは人間の暴力性に関することです。

刑法などでは不法なまたは不当な仕方で物理的な強制力を行使することやその力を暴力と言います。それ以外にも、乱暴な力、無法な力を暴力と私たちは言います。

他人の考え方に影響を及ぼすのは乱暴だと、みなさんは思いませんか。

他人がすることを、不当に制限するのは無法なことです。

そういう仕方をぼくは暴力的だと判断しています。そしてそういう仕方をぼくの仲間たちやぼくたちの生活でなるべく遠ざけようと思っています。

世界にはいろいろな考え方や行動があって良いのです。ただしそれが他者の考え方や行動の自由を妨げてはいけないのです。

それは教育においても同じだとぼくは考えています。

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