羅生門2020

こんにちは、きよしです。

昨夜、芥川龍之介の「羅生門」を読み直しました。

ぼくといっしょに暮らしているなめこはぼくの部屋とは別に自室を構えています。なめこはたいてい午前0時になると自室で床に就きます。しかし、昨夜はめずらしくぼくたちが共用しているリビングのソファーベッドで寝入ってしまったようです。側のダイニングテーブルには高校の教科書がうつ伏せにしてありました。森本先生のものだと思います。手にとって見ると、伏せてあったのは教科書に載っている「羅生門」のページでした。

日本の学校では高校1年生の国語の時間に芥川龍之介の「羅生門」を教材として学ぶそうですね。

ぼくはこれまでに何度も「羅生門」を読みました。

とてもクールなお話だと思います。

「羅生門」で物語られている出来事は、衰微した平安京で生活に困窮した下人が、羅生門の2階で死体の髪をぬく老婆に出会い、その老婆を暴行して老婆の衣服を奪うという事件です。

下人は生活に困窮しています。経済的弱者と言えるでしょう。また、下人は合理的判断が苦手なようです。おそらくは言語的理性が未熟なのだと思います。下人がする判断は短絡的で、非合理的です。

老婆も同様です。

芥川による「羅生門」の語りは実に精緻かつ巧妙でそうした下人と老婆の愚かさを的確に表現しているのですが、同時にその表現は高級で美しいので読み手のいくらかは下人や老婆が愚かであるという物語的事実に気がつかないのだろうとぼくは推測しています。

「羅生門」で描かれているのは愚かな弱者が邪悪なことをするという話です。

人間はときに弱く、ときに愚かで、ときに邪悪なことをします。

それはぼくたちも同じです。ぼくたちはときに弱く、ときに愚かで、ときに邪悪なことをしていまいます。(この前、ぼくはなめこが大切に冷蔵庫にしまっていたプリンを勝手に食べてしまいました。)

また人間はときに弱くかつ愚かでかつ邪悪なのです。これもまた事実だとぼくは思います。

繰り返すのですが「羅生門」は弱くかつ愚かで邪悪な下人と老婆の話です。

人間の学校ではエゴイズムがどうのこうのという話を、この「羅生門」を教材として、しばしばするのだそうです。エゴイズムとは利己主義のことですね。

考えたり調べたりするとわかるはずですが、エゴを大切にすること自体は悪いことではありません。ただその結果、人間は邪悪なことをする場合があります。邪悪なことは悪いことです。当然ですね。しかし、エゴイスティックであるというのと邪悪であるというのは同じことではありません。これも当たり前のことだとぼくは思います。

また、邪悪だというのと愚かだというのは同じことではありません。善良だけど愚かだという場合はあり得ますし、邪悪だけど頭がまわるという場合もあり得ます。

そして、弱者は必ずしも善良ではありません。弱者は愚かであるという場合があり得ます。

こういったことはそれぞれたいていの人間が経験的に理解することなのでしょう。

しかし、その3つが揃ってしまったらどうでしょう。

それでも人間は人間です。人間的尊厳や基本的人権は愚かで邪悪な弱者にも保障されます。それが倫理や法理というものでしょう。人間からそういった尊厳や権利を引き剥がして、生身の人間のようなものについてだけ取り扱うということは人間の実世界ではできません。

芥川はそれをやってみたのだろうとぼくは思いました。

フィクションの世界で、地震や災害や飢饉などで衰微した平安京というダークワールドを設定としてこしらえ、倫理や法理のとどかない社会の闇の部分をその中につくりだしたのだと思います。

そういう知的な作業をたくみにこなし、しかもそれを美しく仕上げるというのは並大抵のことではありません。

美しく仕上げるために要る仕事に1つには、むだをそいでシンプルにするという仕事があるでしょう。

そういった仕事ができるのはクールだとぼくは思います。

ぼくにはとてもできそうにありません。

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