倫理的なきのこ

こんにちは、なめこです。ご無沙汰しています。みなさん、お元気ですか。

最近は、新型コロナウイルスによる感染症を気にして、森本先生がぼくたちをお外に連れて行ってくれません。困りました。

でも、ぼくたちは勝手におでかけをしています。

今日の東京都は暖かな陽気です。ちょっと暑いくらいでしたね。花粉がたくさん飛んでいそうです。

ぼくたちはお散歩をします。お気に入りの場所である外堀通りの土手におでかけです。桜が咲くころにはたくさんの人がお花見に来る場所なのですが、今日は誰もそこにいません。ぼくときよしはベンチに座って、元はお堀があった方をのんびりと眺めています。

そうしているうちに、14時46分になりました。9年前に大きな地震があった時間です。ぼくはまだ若いパペットなので、そのときのことを知りません。きよしは結構長く生きているパペットなので、その当時のことをよくおぼえているそうです。

時間の区切りというのは人間が生活などのために便宜的に設けているものです。9年前と同じ日付の同じ時間というのは、あの大きな地震があった時間と物理的に特別な関係があるわけではありません。時間という区切りで世界を分けて理解している私たちが勝手に同一性を感じ取っているだけです。しかし、そういった勝手な感じ方は大切だと思います。

祈るだけではお金になりません。お金が復興などの仕事に要るなら、祈るだけの仕方は復興のための集金の役には立たないと言えるでしょう。

しかし、祈りは私たちの生活に要るものです。

祈りはさまざまなことに関わっていると思います。そのひとつが倫理だとぼくは思っています。

倫理というのは、人々がともに(倫に)生活していく上で必要だと考えられているものです。

ぼくときよしはいっしょに暮らしています。そのため、お互いに助け合うことがあります。この前、きよしが風邪を引きました。ぼくはきよしの看病をしていました。本当は看病をしない方がぼくの身体は安全です。でも、同居人が風邪でダウンしているのですから、それを助けるのがぼくの務めだとぼくは考えました。

風邪が癒えてから、きよしにそんなことを考えていたんだよと話したら、「それは君の倫理だね」ときよしはぼくに教えてくれました。きよし曰く、ぼくは「倫理的なきのこ」なのだそうです。ふーん。

難しいことはぼくにはよくわかりません。でも、3月11日の14時46分に私たちがあの大きな地震のことを思い出して少し考えるのは、そういう倫理的なことに関係があることだとぼくには思えてなりません。

ぼくはこれからもおだやかに暮らしていきたい。きよしにも森本先生にもおだやかに暮らしてほしい。それと同じようなことを他の人たちについても、あの日に失われてしまったたくさんの大切な生活についても祈るのは、ぼくたちにとっては自然なことなのだと思います。

お堀の土手っぷちからは、JRの四谷駅やその周りの町並みが見えていました。気のせいかも知れませんが、町に出ている人の数はいつもよりも少ないように見えます。そういった人たちの生活がぼくたちの生活と同じようにおだやかでこころよいものであることをぼくは願いました。

きよしは何を考えていたのでしょう。いつもと同じできよしは何もしゃべりません。じっとお堀の向うを見ています。

お昼の陽気が気持ちよくて、ぼくたちはしばらくそこでひなたぼっこをしていました。身体が太陽のにおいに包まれた気がします。

これからお家に帰ろうと思います。四谷駅のアトレでお気に入りのパンとワインを買って帰ります。ワインは森本先生にあげるのです。

今夜も幸せな夜になると良いなと思っています。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed