お酉さん

こんにちは、なめこです。今日は「お酉さん」の話です。今年もそういう季節になったのですね。

ところで、10月に台風や大雨で日本各地が被災したのをみなさんは思い出しますよね。ぼくの友達や仲間たちも、各地で被災しました。お家がながされたり、大切にしていた畑がダメなったりして、彼らは途方にくれています。ぼくたちができることはあまり多くありませんが、災害からの復興は長期に渡り、辛いものなので、これからもぼくたちはできる仕方で友達や仲間のことはもちろん、彼らが暮らす地域のことも支援していきたいと思っています。みなさんもどうぞよろしくおねがいいたします。みなさんの力が必要です。

さて、ぼくときよしは昨夜新宿にある花園神社におでかけしました。酉の市は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事です。関東では11月の酉の日に夜通しで神社に参詣と飲み食いのために人が集う、ちょっと賑やかな雰囲気を醸し出す晩秋のお祭りとして知られています。

新宿の歓楽街の側にある花園神社はそのお酉さんで有名な神社です。ぼくときよしはここ数年、お酉さんのお祭りの日に花園神社をたずねています。ぼくたちはそこで神様にご挨拶をして、その後で熊手を買うのです。

関東の酉の市では各神社に露店がならび、そこで威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る賑わいが晩秋の風物詩です。

ぼくときよしは毎年「つるかめ」というお店で熊手を購入しています。ぼくのお店にそれをかざるのですが、今年もつるかめさんからご招待のはがきが届きました。

そのはがきをもってつるかめさんの露天に向います。途中できよしは焼き鮎の露天から流れてくる煙と灰を頭にかぶって悲鳴をあげたり、別の露天で売られている焼肉の串をものほしそうにながめたりしていました。ぼくはそんなきよしの様子に気がついているのですが、知らないふりをして先をいそぎます。

つるかめさんのお店にたどりついて、お店の方にはがきを渡しました。お店の方たちがぼくたちにご挨拶をくださいます。ぼくもご挨拶をして、それから熊手を選ぶことにしました。

きよしはお店にならぶ熊手を今年も不思議そうに見ています。たぶん、ただの竹と木工細工などの組み合わせに何の経済的効果があるのだろうと不思議に思っているのでしょう。

きよしは合理的なパンダなので、熊手のような縁起物にはほとんど興味を示しません。かといって、ぼくが酉の市でそこそこ値の張る熊手を買っても、それをぼくのお店にかざっていても、何を言うでもありません。熊手の原価や熊手製作と販売にかかる諸経費を類推して、熊手の利益率を推測する方がきよしには興味深いことのようです。

ぼくはお商売人なので、お商売をする場所の風習にあわせて、酉の市には参加するようにしています。そしてそれが経済学的に合理的な活動では必ずしもないということはよく理解しているつもりです。熊手を買っても買わなくても、ぼくのお店の経営にさしたる変化はないでしょう。

でも、ぼくもきよしもいっしょに神社の本殿で拍手を打つのです。(ぼくたちはぬいぐるみなので、かわいた音で鳴り響く拍手を打つことができないのが残念なのですが。)

例えば神社で神様に祈ったり、教会での礼拝に参加したりするのは、ぼくたちの生活において合理的な必要があるのではないけれども大切な、その意味では欠かせない仕方なのだと思います。

お酉さんで賑わう新宿の花園神社は、祈りや信仰の場所であるというよりは、経済的活動の場所であるようにぼくの目には見えます。たくさんの人がそこでお買い物をしたり、飲み食いをしたりして、そこでものを売った人たちに対価を手渡していくという経済的活動です。それはとても資本主義的で、またプリミティブな資本主義的活動の形態であるようにぼくには思えます。

そういった活動は神社のまわりでの歓楽街でも日日くりかえされているのだと思うのですが、そういったことが信仰の場所である神社の中や周囲で行われているというのは、人がそこに集まりやすいからという理由以外では合理的な説明がつかない現象だとぼくは思うのです。

人が集まるところなら、東京駅や新宿駅など、巨大ターミナル駅で飲み食いをするのだって同じようにぼくらの目には見えるはずです。実際にここ20年くらいで、いわゆる駅中で食事をしたり買い物をしたりする場所や機会が増えましたね。それ以前においても、駅弁やお土産の販売という仕方で小規模にそういうことは行われていたので、それが巨大資本によって合理的かつ都市的な仕方で行われるようになったという変化なのだと思います。していることの本質は同じです。

しかし、そこで行われていることはやはり神社の中や周囲の賑わいの中で行われていることとは異なるようです。

例えばお酉さんの日に神社の中で賑やかに行われていることは、ターミナル駅で行われていることよりも、ずっと猥雑で非合理に見えます。昨夜の花園神社には「見世物小屋」なるものがありました。中では「河童」や「へび女」などが見られるようです。ただの眉唾ものかと思いきや、結構な賑わいを見せていましたよ。またおでんが一皿1000円で売られていました。おそらくコンビニで買えばその定価で250円くらいの商品です。露天で飲み食いする人たちがとても大勢いましたが、そこで食べる人たちと食べ物を持ち帰る人たちとの区別をして、食べ物を持ち帰る人たちに対してこの10月から導入された軽減税率をお店側は適応しているのか、たいへんに訝しい状況だったようにぼくは記憶しています。

でも、そういう猥雑さや非合理性をたたえているのが社会のどこかなのだとぼくは思います。

おそらく、そこで繰り広げられる人間の活動というのは、何と言うか、生きている私たちにとって死んでからの世界や人間でない神様みたいなものの世界と理解されている何か、いわば『千と千尋の神隠し』で物語られる向こう側にある神様の世界と関係しているのだとぼくには思えるのです。

ぼくは花園神社からの帰り道にきよしにそういう話をしていました。

きよしは神社の露天でかったお肉の串焼きをほおばりながらぼくの話を聴いています。そして答えてくれました。

「うん。なめこは中沢新一先生のご本を読むとよいのではないかい。うちに『アースダイバー』があるよ。」

なんですか、それは??

「『ポケモンの神話学』も、その旧版である『ポケットの中の野生―ポケモンと子ども』もおうちにあるよー(もぐもぐ)」

ポケモン!?何なんですか、その本は。気になります。

そういえばきよしは最近ポケモンの新作をプレイしています。ポケモンと今日の花園神社をめぐる話が関係していると言うのでしょうか。気になって仕方がありません。おうちに帰ったら、さっそくその中沢先生の本を手にとってみようと思います。

今夜も夜更かしになりそうです。

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