「道徳について」

「道徳について」(内田樹の研究室)

「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることができる人の頭数(「とうすう」と読まないでね)を増やすことが大切だ。

私は常々そのように思っています。

そういった考え方に基づいて様々な仕事を引き受けることができる人の負担は果たしてその人の個人的負担とされて良いのか、確かに社会にはそういった問題が残るのだけれど、それでも私はこの考え方を支持しています。

それは信仰のようなものだと思います。

ここで少し学問のお話をしましょう。

いわゆる「文系」の学問には社会科学的領域と人文科的領域とがあります。

社会科学は科学です。科学なので客観的な理解が可能です。私はそういった客観的理解をするのが好きです。科学ラブ。

人文科は科学ではありません。人文科(humanities)のことを人文科学と言うことがありますが、だからといってhumanitiesについての理解が客観的であるということにはなりません。

人文科は人間の考え方や振る舞い方に関する科目です。大学のような場所で人文科の研究をする際には、研究は共同的作業であるので、共同して研究する仲間たちに対する配慮が欠かせません。その意味で、人文的説明に一定の客観性が求められるということはあると思います。それは他人の意見と自身の意見を混同しないとか、参照した他者の意見について後で他の人が確かめるに足るreferを施すとか、そういった仕方で保障されるものです。そういった意味で人文科の理解は共同的(common)なものだと思います。社会的なものであるとも思います。

話を信仰についての話に戻します。

信仰は共同的なものでもあり、社会的なものでもあり、個人的なものでもあると思います。信仰について共通の了解を設けることができる場合と、そうでない場合とがあると思います。

そうだとしたら、他者と信仰に関する協議をするときには、共通了解を設けることが大切で、そういった了解を設けることが難しそうな領域については余計な口出しをしないということが重要でしょう。他の人の福祉を損なわない限り、共通の了解を設けることが難しそうなパーソナルな領域についてはそっとしておくのが良いのだと思います。

それなのに、そういった信仰に関することがらについて、他の人たちのパーソナルな領域にどこまでも土足で踏み込む人たちがいます。

そういった人たちは単純に愚鈍な人たちばかりではありません。それぞれの人にとって大切でパーソナルなことがらについて、社会科学的なアプローチで勝手に評価をしたり、他者の考え方や生き方のようなものに対して充分な配慮ができなかったりして、ある程度まで社会的に高度な教育を受けていても、他人のパーソナルな領域を踏み躙る人というのが時折いるのです。失礼な人たちです。

受けている教育の程度に関わらず、そういった人たちに出くわすと私たちは思わぬダメージを心や身体に負うことがあるので注意しなくてはなりません。

私は内田樹という人物に私淑しています。その理由のひとつは冒頭に示した「道徳について」という文章で示されているような考え方に私が同調するからです。

それはここで言う信仰の共有のようなパーソナルな話だと思います。

そのことについて共通了解を設けることができない、且つ失礼な仕方でオブジェクションをする人たちと私は上手く対話をつみあげることができません。いや、そういった仕方は私にひどいダメージを与えます。

それは単に私がナイーブだからなのかも知れませんが、それでも仕方がないことだと思っています。そして実際にそういう人に出くわすことがあります。

「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることができる人の頭数(「とうすう」と読まないでね)を増やすことが大切だ、この考え方を共通の了解として仕事ができる人たちと私は仕事をしたい。

そして、そういった考え方を共通の了解とすることができない人たちとも同じ社会で暮らして行きます。

そのために必要な「雪かき仕事」をするのが、塾の先生としての仕事とは別に私に課された仕事だと私は考えています。

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