『天気の子』

こんにちは。きよしです。みなさん、お久しぶりです。夏休みが終わりました。ぼくたちは夏の間にずいぶんと忙しくしていたのです。合宿など森本先生の塾でのお仕事を手伝ったり、何度か京都や大阪にお出かけしたり、自宅の周りの動物たちとの相談事に参加したり、この夏の間にいろいろなできごとがぼくたちの身の周りにはありました。そのため、しばらくこのブログに文章を寄せることができなかったのです。それは少し気がかりなことでありましたが、まあ仕方がないことだとも思っていました。その間、なめことぼくは、文章を書く代わりに、互いに話し合ったり、本を読んだり映画を観たりしながら考えを深めたりする時間を大切にしていました。そして、今日は久しぶりにこのブログに文章を書き記してみようと思います。よろしくお願いしますね。

なめことぼくは忙しい夏休みの間に『天気の子』という映画を3回観ました。みなさんの中にも『天気の子』をご覧になった方や、まだ観ていないのだけれども興味があるという方がいらっしゃるかも知れませんね。

ここで『天気の子』の物語の全体的なあらすじについて説明をするつもりはありません。

ぼくはその映画を観てとても気になったことについてここで書こうと思います。

『天気の子』には主役の子供たちが訳あって家出をし、その日の宿を探して寒い街の中を当て所なくさまよう場面があります。

ぼくも家出をして寒い街の中をさまよった経験があるパンダなので、そのシーンを観ていると、その時の自分のことが思い出されるようで、とても胸が苦しくなりました。

夜が更けて来て、寝床の当てがないまま街の中をさまよっていると、次第に絶望的な気分になります。とても不安な気持ちになりますし、街の中に安心して休めるところはなかなかありません。怖い思いもします。寒い日はそういった辛さがなお増すものです。

そんなとき、主役の子供たちはうっかりと警邏中のお巡りさんたちに見つかって、職務質問を受けてしまいます。また運悪く、子供たちのうちの一人はそれまでの事情の中で警察に目をつけられる問題を抱え込んでいました。

職務質問をしたお巡りさんたちはあくまでも職務にあたっていただけなのだと思います。ぼくはお巡りさんではないので、お巡りさんの職務上の事情について知る所はあまりありません。ですから、ぼくには職務中のお巡りさんの心情に寄り添うことはどうしても難しく思われたのでした。

だからでしょう、お巡りさんの職務質問を振り払って逃げ出した主役の子供にたいして、当該のお巡りさんが「公妨!!」と叫び、その子供の身柄を確保しようと動き出した場面で、ぼくはことごとく絶望してしまいました。

「公妨」というのは公務執行妨害の略だと思います。公務執行妨害というのは刑法で定められた罪にあたる行為です。別の法律で現行犯は逮捕状がなくてもこれを逮捕することができることになっているので、公務執行妨害を宣言したお巡りさんは直ちに現行犯としてその行為者を逮捕することが可能です。

そんなことになったらぼくたちはいったいどうしたら良いのでしょう。

今のぼくなら大人しくお巡りさんにつかまって、その上でただちに弁護士を呼ぶ権利を行使するでしょう。一旦の身柄の拘束はやむを得ないと判断し、その後の行政的手続きの中で、適切な法律事務により、早期の権利回復と名誉の保障を目指します。ぼくは法律の専門家ではないので、それが法的に最適な判断であるかどうか、確証はもちろん持てないと思うのだけれど、社会的な経験と知識に基づいて、そういった判断をするだけの精神的余裕は持てるかも知れません。

しかしながら、ぼくが劇中の子供たちと同じように社会的に非力であったら、いったいどうすれば良いか、絶望してしまったことだと思います。身柄の確保に対して、反射的に暴力で応酬してしまったかも知れませんね。

私たちの自由は適法な仕方でも損なわれることがある。

そういったことを改めてぼくは映画で目の当たりにしたように思います。

ぼくは健やかに生きていきたい。大好きななめこや仲間たちと自由に暮らしていきたい。それにはお金も要るし、不意に災害や病によって健やかな暮らしが損なわれることはあるかも知れないけれど、それでもできる仕方で生活の中に確かな拠り所を設けて、やはり穏やかに暮らしていきたい。ぼくはいつもそのように願っています。

それは『天気の子』の劇中で主役の子供がしていた祈りとよく似た内容です。

そうしたささやかな、でも人間として本質的な祈りがぼくたちには生きる上で重要なのだとぼくは思います。

映画『天気の子』について、主題としての天候不順の取り扱い方や社会的責任の担い方に対して、非難する向きがあるようです。

そういった意見を持つのは自由だと思います。

しかし一方でぼくは『天気の子』という物語においても、ぼくたちの生活においても、自身の権利や個人的な祈りがもっと大切にされて良いと思うのです。

個人的な祈りは必ずしも利己的なのではありません。個人的な祈りをする人が社会的責任を適切に担えないはずもありません。

劇中の主役の子供たちがそうであるように、まずは充分に自身の権利が保障されることが不可欠で、ささやかで個人的な祈りとその充足に対する返礼が日常で充分に行われるようになってはじめて、私たちは充分な社会的活動が可能になるのではないか、ぼくはそのように思いました。

私たちが困難や災厄に対しながら充分に生きていけるように、ぼくたちはまず自分自身の生活を大切にすべきだと思います。またぼくたちは身近な他の人たちの個人的生活を大切にすべきだとも思います。

ぼくが『天気の子』から受け取ったメッセージはそういったものでした。

なめこもぼくもぼくの仲間たちも、みんなができるだけ健やかに生きていけるように。それがぼくの望みです。

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