脚下照顧

禅宗で、足元に気をつけよ、の意味で、自己反省、日常生活の直視をうながす語です。

私は座禅によって仏道をきわめようという修行をしているわけではないので、禅宗的な戒律や日常生活の仕方についてはそのほとんどを知りません。

ですから、そういった意味で正しく脚下照顧という言葉の意味を日常的に身体レベルで理解しているとは言えないと思います。

しかし、その言葉からうかがえることは私にもあります。

最近、とみに感じるのは、客観的思考の難しさです。

個人的主観から独立して評価したり考えたりするためには、どうしたって他と共有することができる考えの確実な拠り所が要ります。

言葉で説明されていることを適切に読んだり聴いたりする力が要ります。そうして言葉で理解したことをやはり適切に別の言葉で表現する必要も出ます。

その際には母語だけでなく外国語を利用する場合もあります。数学のような論理的思考の形式が要る場合もあります。

ともすると私たちはすぐに他者のことを評価したがります。自分自身のことも常に自分で評価しています。

でも、そういった評価がさまざまなものごとに通じ、どのような場合にも有効・適当であるためには、評価の客観性が要るのです。

既に見たように、客観的思考には言語の運用能力や論理的思考の力が欠かせません。

そういった力が無いとできないことです。

そういった力が不充分なのに、あれこれと私たちが勝手な評価をしたら、どういったことになるでしょう。

それらは独りよがりなものになってしまうでしょうね。あまり有効なものにはならないでしょう。

私たちは決して充分に強いわけではありません。充分に賢いわけでもありません。そうだとしましょう。そうすると、私たちは充分に思考したり評価したりすることができない、そうだとわかりますね。

すなわち、私たちは間違えるということです。

だから、自己反省や自身の日常生活の見直しが重要なのだと思います。

間違えを見直すことができないとテストの得点が高くならないのと同じで、自己反省や自身の日常生活の見直しができないと私たちは上手く活動することができません。上手く他者を支援することも、上手く他者に支援されることも困難になると思います。

そういったリスクを逓減するために、私たちは学ぶ必要がありますし、ひかえめであるべきだと思います。

今年度、他者を呪詛的な仕方で非難する声を私は何度か耳にしました。秀麗な表情や初々しく伸びやかな声色でそれを包んでいる人もいましたね。

でも、そういった他者の不能や無知の現象を期待する声は確実に他者に届きます。自身の不能や無知を棚上げにして、それを他者の所為にするとき、私たちは他者が不能により何かをしそこなったり、無知のために不幸な目に合ったりすることを期待してしまいます。他者を不充分で困難な状態に釘付けにしようとするのです。それが人を呪うという仕方です。

私も含めて人間の勝手な意識というは怖ろしいもので、自身の考えや仕方が正しいことを証明するためには、他人の不幸も、何だったら自分自身が不充分で困難な状態になることも厭いません。

ここで「勝手」というのは自分だけに都合が良いこと、わがままなことですが、そういった意識は他者をも自身をも損いかねないのです。

そういう身勝手な意識に振り回されて、自身の適切な成熟を妨げたり、他者のささやかな幸せを損なってはいけません。どんな人もそれぞれの成熟に向かって、そこそこ幸せに暮らせるように、私たちは工夫したり協力したりすべきだと思います。

それを妨げる身勝手の恐ろしさを今年度、私は身をもって学びました。

それでも私は全ての人たちの成熟を幸せを祈念しています。

そのためにはまずできることから、自身についての反省や日常の間違いの直視から始めていくべきだと思います。

脚下照顧というのは私にとってそういうことです。

新年度もよろしくお願いいたします。

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