魯迅と藤野先生

こんにちは。穎才学院です。寒くなってまいりましたが、みなさまおかわりはありませんか。

さて、今日はノートチェックに関する話です。

魯迅の「藤野先生」という作品に、「先生」が「わたし」の講義ノートを添削するという場面があります。
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わたしが講義のノートを差し出すと、彼は受け取ったが、二、三日すると返してくれた。そして、これからは毎週持ってきて見せるようにといった。持ち帰って開けて見たとき、わたしはあっとおどろき、同時に一種の不安と感激とを覚えた。わたしの講義ノートは始めから終わりまで、すっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足してあり、文法のあやまりまでいちいち訂正してあったのだった。このようなことがずっと、彼の受け持っている学科の骨骼学、血管学、神経学の講義が終わるまでつづいたのである。
(講談社学芸文庫、魯迅『阿Q正伝 藤野先生』駒田信二訳 262-263ページ)
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中国から仙台にやってきて、仙台医学専門学校(今の東北大学の医学部)で日本語で医学を学んでいた魯迅。「藤野先生」のモデルになった藤野厳九郎教授は、実際に医学生であった魯迅のノートを丁寧に添削していました。その写真が東北大学のHPで見られます。(魯迅と東北大学-歴史の中の留学生-(東北大学)

私は藤野先生を読んだ後に、このHPの写真を見て、非常に心をうたれました。教授にとって、さまざまな研究や教育に係る業務の合間に、ノートを添削するというのは、決して簡単な仕事ではなかったはずです。疲れている身体に鞭打ち、場合によっては寝る時間を惜しんで、教授は魯迅のノートを添削していたのでしょう。

私は単純に藤野教授の献身だけをたたえているのではありません。学生の学びの様子をそのノートテイキングの様子を通して理解しようとした、教授の指導の的確さに感嘆するのです。

留学生であった魯迅のように、外国語で学ぶ学生だけでなく、母語で学んでいる児童・生徒の学びの様子を確かめる際にも、ノートチェックは有効です。

ノートチェックは、宿題など、課題学習の抜けが無いか、確認するために行われる場合があります。そういった確認が有効な場合もありますが、大事なのはそれだけでなく、ノートテイクの様子を見て、その児童・生徒がどういった学び方をしているか、指導者が推定することです。

そういった際、指導者はちょっとした違和を見逃してはいけません。ただ、ノート上の解答の正解・不正解、記入・無記入について確かめるだけでなく、その児童・生徒の日常の様々な学習活動の様子と、ノートテイクの様子とを比べて、ちょっとした違和が感じられたら、それについて確かめてみるべきなのです。

児童・生徒が、わかったふりをしているだけで、学んだふりをしているだけで、実は理解できていない、学べていない、ということが無いか、確かめる機会としなくてはなりません。

そういった作業は人間の先生じゃないとできない、いわゆる「AI(人工知能)」にはできない仕事です。

魯迅が日本で学び、その後、作家として中国で活動するのは、今からちょうど100年前のことです。

「藤野先生」で「わたし」は、「先生」が添削してくれたノートや手渡してくれた惜別の写真が、常に「わたし」を励ましたと言っています。

それは「先生」の「わたしに対する熱心な希望、倦むことのない教え」であったと述懐されるわけですが、私たちが暮らす実際の社会にも、そういった熱心な希望と丁寧な指導を児童や生徒に贈りとどけている先生たちがおられます。

そういった方たちが健やかに働ける教育的環境がととのえられるべきだと思いますし、そういった指導の重要性がより一般に理解されるべきだとも思います。

そういった意味で、100年前も、今も、教育的に重要なことがらは変わっていません。

そのように思っています。

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