師の教えるところ

今夏、京都に出張して感じた所を、

昨日、ある方に宛てて述べました。

それは結構な長文になったのですが、その方は読んでくださるだろうと自然と思われたので、適当な挨拶と併せて、文書を送ったのです。

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そしたら、面白い角度からのお返事をいただきました。

曰く、「最近、関西出身の人と話をする機会が何かと多いのでこちらも関西弁と標準語、そしてそれらを使う人達の違いについて実感している所でした」と。

続けてお話を聴いていると、

「(言語的な)音が人の思考を形成するんですよね」とか、言語的音声のニュアンスの違いが醸し出す、コミュニケーション上の他者との距離感や関係の構造が私の理解に影響を及ぼしているとか、

たいへんに重要な示唆がそこにはありました。

関西(というか大阪?)は人情味に溢れているとか、標準語の会話には方言性が無い分だけ冷たく感じられるから方言で話す方が良いとか、そういうありきたりな話ではありません。(そんな話、眉唾です。)

言語的音声と各話者との関係は、実に固有です。

いわゆる「大阪人」は大阪弁を一様に話すのではありません。

これは多くの「大阪人」が納得してくださることだと思います。

大阪府の中でも、地域によって使用される言語の趣きはずいぶんと異なるし、話し手のオリジナリティーや為人によっても、それは変わります。

私は大阪市内、大阪城の近くのエリアで生まれ育ち、小学校まではその地域の公立校に通って、兵庫県西宮市の進学塾で学び、中学校と高校は京都の私立学校に通いました。18歳になって大学生になってからは、ずっと生活の拠点を東京に置いていますが、私はそうする以前、大阪で暮らしたり、京都の学校に通ったりしているころから、自由に標準語で話したり関西弁で話したりすることができる子供だったのです。

そういった子供は決して多くありません。でも、そんな風になってしまったのですから、仕方がありません。まあ、よくあることなのだろう、他の地方の方言を話す人でも、東京に出たら標準語で話すとか、そういったことはよくあるらしいから、私のような2言語話者もそんなに珍しくはないだろうと思っていました。

いや、そう思うように努めていたのです。

初めに述べたように、そういった子供は決して多くない。それは、やはり間違いのないことでした。

昨日、その方と話して、重要な気づきがありました。

私は標準語も関西弁も、どちらも母語的拠り所としていない。

はあ?(。´・ω・)?

意味が分からないと思われるでしょうか。

私にとっては、標準語も関西弁も、どちらも耳で聴いて、その構造を意識的に理解して覚えた言語です。

母語というのは、そういった仕方で身に付けるものではありません。(自分がしたことが無いから、想像だけど。)耳で聴いて、それを無意識に真似るのです。そうしているうちに、身に付いていく。

この文章を書きながらしているように、私は言葉で自身の考えを立ち上げ、整理し、確かめます。

この作業、誰もが行う当たり前の作業であるように思いたかったのですが、そうではないんですよね。

そうではないんです。

多くの人は、こんなことしません。(それは、わかっていたはずでした。)

でも、私はこういうことをしないと、ダメなんです。考えがまとまらない。

大学生になって、私が話すのをきいた学友たちが、そのわかりにくさや要点の無さについて、難じてくれました。今思うと、ずいぶんと手ひどい仕方でのご指摘をいただいたものだと思います。

そういう経験があったから、私は(今でも)自分の話が下手だと思っています。

でも、それはよく考えたら、他の人の話し方と上手下手を比べられることではないんです。

だいたい、私の話し方を難じた学友は、誰も「では手本を見せてやろう」というようなことをしませんでしたね。下手だということだけ伝えて、どう下手かは、説明しなかった。唯一、「オマエの話は頭と尻がなく、ぐるぐる同じところをまわっているだけだ」と説明らしいことを言った者がいましたが、実のところ、これだって全く論理的な説明にはなっていません。

そも、頭と尻がないって、何ですか。それは喩えでしかなくて、頭と尻が無いものなんて、輪っかの形をしたものしか無いでしょう。だから、頭と尻がないものが、ぐるぐると同じところをまわるのは当然。実際、私の話には話の初めと終わりがあるのですから、輪っかみたいに初めも終わりもない話になっているはずがありません。(まあ、話が長いのは認めますがね。)

今になって、わかりました。

私の話し方を難じた人たちは、

「お前の話など聴く気はない、だから黙れ」

と私に命じていたのです。いやー、ずいぶんと手ひどい仕方だと思いませんか。

昨日の方はそうではなかった。

ちゃんと、私の話を聴いて、その上で話を聴かせてくれたのです。

私もその方の話を聴きました。

話を聴いてもらえると、嬉しいし、

話を聴いていると、色々な言葉になって考えが頭に浮かびます。当然です。たくさんの言葉を耳に入れてもらっているのですから。

だから、思いもしないことを思いついたりするんです。

私には母語がなかった、そんなこと普段、思いもしませんよ。ね?

そういったことを考えることができるくらい、豊かに思考が育まれるのは、お互いにお互いの話を聴くからです。

他者と向かい合う時の基本的な構えは、相手が言っていることに対して、つねに「そうだね」と頷き、受け入れることです。

そのように教えてくれたのは、私の師であります。

理解できないことでもまず受け入れる。自分自身の知のセッティングを変えて、それが理解できるところまで拡大してゆく。

他者の思考や感情に敬意を示すところから始めて、豊かな考えを互いに形作っていく。

そういったことが昨日、その方とは出来ました。

京都でも、そういった方たちとの豊かな対話の機会に恵まれました。

私は、そういった方たちの存在を本当にありがたく思います。

私の話を聴いているようで、聴いていない人。

あるいは、私に発言を許さない人。

もちろん、そうするのは自由ですけど、それがどういった意味のふるまいなのか、私は今回の京都出張をめぐる体験を生かして、よく理解することができました。そこで理解したことは忘れません。

私はそういった仕方から、自身にとって大切なものたちを守ります。専守防衛。いつでも、ドンときなさい。そういう腹がくくれました。

その上で、昨日のような対話の体験に私はたいへんに励まされています。

その方にはこの文章を通して、お礼を申し述べます。ありがとう。

そうした体験を私は大切にしたいし、そうした経験をやはり大切な他者と育んでいきたいとも思います。

他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない。それが師の教えていることだと私は思います。

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