おにぎりとクロワッサン

飯をくったら、人心地がついた。

新幹線に乗っているのである。

徹夜で塾の仕事(時間割の作成や答案の添削など)をして、母校である洛南高校附属中学校へ伺うべく、朝いちで東海道新幹線に乗車し、車内でおにぎりの弁当を買って(それしか無かったのだ)、それをむしゃむしゃと食べてお茶をのんだら、なんだかホッとしてしまった。

こういうのを人心地がつく、と言うのである。

胃のあたりがほっとして、緊張の緩んだ、穏やかな心地になる。

ああ、緊張していたんだな。

人間の意識は、平気で身体を置いてけぼりにする。

意識には合理的な考えに基づくものも、ずいぶんと無責任で身勝手なものもある。

そして、どんな意識だって、たいていは己が正しいと思っている。あるいは、上手くいかなくたって、そう思いたい。私たちはそのようにして、それぞれなりの正しさに縋り付いて生きていく。

その「正しさ」、

これが実に厄介なのである。

実際、正しさは無数にある。

子供なりの正しさ、宗教的原理主義者なりの正しさ、トランプタワーの住人になるような金持ちなりの正しさ、そういった正しさはそれぞれ違う。

むしろ、子供の数だけ、正しさはあるし、宗教活動家や金持ちの数だけ、やはり正しさがあると言っていい。

人の数だけ、内心の多様さがあり得る。それは当然のことだから、そういった内心的多様性に基づいて、それと同じ数だけの正しさがあり得るなら、そうして出来る正しさのあり様はやはり多様になるだろう。

当然である。

だから、そういった正しさを規範にした言動はしばしば衝突する。

仕方がない。

朝ごはんにおけるおにぎり原理主義者とクロワッサン原理主義者は、それぞれが是とする朝ごはんのあり様について、衝突せざるを得ないだろう。

おにぎり原理主義者はクロワッサン的朝食の存在を容認できないし、クロワッサン原理主義者はおにぎりを朝ごはんから排除したい。

そうして、衝突が生じる。

お分かりの通り、そのような衝突はほとんどナンセンスである。

朝食におにぎりを食べるものがいても、朝ごはんでクロワッサンを主食とするものがいても、それはそれで、何の問題も無いと言えるからだ。

あるテレビドラマに、家庭では主食としてパンばかりが食事に供されるから、どうしてもバターライスが食べたくなって、わざわざ飲食店でバターライスを注文するという人物が出て来た。

そんな生活は悲しい。私は嫌だ。みなさんは、どう思いますか。

別に家の中でバターライスを食べるものがいても、何らその家庭内で支障はない。

「バターライスなんて、下品だ」とか、「俺の自家製パンが食えないとでも言うのか」とか、そんな言葉で罵られるのは、どう考えても、ウンザリである。

私は今朝、おにぎり弁当で私の心と身体とに力を満たしたが、そのとき食べるのはクロワッサンのサンドでも良かったし、おろし蕎麦でも良かったと思う。(新幹線のワゴンサービスでおろし蕎麦を販売するという話は、確かに聴いたことがないのであるが。)

何を食べるかは私の自由、どのように食べるかも私の自由であろう。(新幹線の車内でずるずると大きな音を立てて蕎麦を啜り、周囲の乗客の不興を買うなどしない限りは。)

もしここまでの話に多少なりのご賛同をいただけるなら、ぜひ、「朝ごはん」の話を、子供の学びやお稽古事などの話に置きかえて、同じ様にお考えいただきたい。

学ぶ子供について、その子供が何を学んでいるか、どのように学んでいるか、何を考えて学んでいるか、そういったことは、およそ自由であろう。

重要なのは、学んだ子供が何を得たか、何に気付いたか、といったことである。

自由に学んでいる子供たちを見ると、まじめに学んでいないのではないかと不安になる大人たちがいる。何かのお稽古に励む子供に出会うと、そのトレーニングの仕方や練習の仕方に物言いをつけずにはいられなくなる人たちがいる。

そういったことをするのは、自由だけど、それによって、子供たちの自主性や快さが損なわれるなら、そういったことはしないでいただきたい。迷惑だからである。

おにぎり弁当を食べている人の内心に蕎麦を啜っている人が何かしらの文句をつけたり、おにぎりを食べている人が、クロワッサンサンドを食べている人の手からそれを取り上げて、おにぎりを代わりに差し出したりするのは、あまりに暴力的な仕方であろう。

私は、おにぎりでも蕎麦でも、好きなものを好きな時に食べたいと思うし、それしか食べるものが無いときには、それを美味しくいただこうとも思う。

そういった自主性の種類は、あくまでも各個人の数だけ在り得るのである。自分の知っている自主性だけが、自主性なのではない。自分の知っている快さだけが、快さの全てなのではない。

実に多様である以上、容易には理解しつくすことができない世界や他者の多様性を尊重すること、主体的に学んでいる人の自主性を、それが未知なものであっても、重んじること、そういったことがとても大切だと思う。思えてならない。

そんな朝だった。

今、私はこの文章を母校の吹奏楽部の練習場で書いている。楽器の練習に励む部員も居れば、夏休みの宿題に追われている者もいる。そしてノートPCを膝の上において、ポチポチと文章を打っている私もいる。それぞれがそれぞれなりの仕方で、主体的に活動しているのである。それぞれの活動を互いに誰も邪魔しない。(私も後輩たちの楽器の練習の仕方には、全く口を出さない。その音色や息遣いには耳を傾け、観察しているけれど。)

そういう素敵な午前の時間である。

自主自律というのは、こういうことであろうと思うよ。うん。

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