「スマホを見ながらひとりで食事をする女の子」の話

こんにちは。今日は哲学的なお話。

まずは「すぴかあやか」さんのマンガを読んでください。

ある日、「わたし」は「スマホを見ながらひとりで食事をする女の子」に目が止まり、「ひとりでスマホ相手にごはん」を食べているなんて「ちょっと寂しいな」と考えました。でも、次の瞬間に「わたし」は自身の視野の狭さを疑います。

と言うのも、その女の子がスマホで何をしているかは「わたし」にはわからない。ということは、その「女の子」は寂しくなんてないかもしれない。

うん。「わたし」はなかなかに聡明でいらっしゃる。「わたし」が見ている世界と「女の子」が見ている世界は異なるかもしれない、「わたし」は「わたし」自身の世界の見方だけで世界を解釈しているにすぎない、とすぐに気づいたのですから。

そして、そのように解釈してしまった理由を「わたし」はスマホの機能の豊かさがスマホの見た目の一様さとちぐはぐであるからと分析しました。

でも、それは違うと思います。

確かにスマホにはいろいろな機能がついています。そして、どんな機能もだいたい同じような仕方で利用できるように設計・プログラムされています。専門的な言い方で、インターフェイスの統一と言います。ひとつの画面で、だいたいは指をつかった簡単な操作により、いろいろな機能が利用できるようにスマホは作られているのです。

だから、スマホで何をしていても、その姿にはあまり違いがないはずです。(嘘だと思ったら、試してみてください。)スマホの見た目が一様なのは当然なのです。

そもそも、「わたし」の勝手な解釈の理由は他にあります。

私たちは、私たちの生きる世界を、私たち自身の欲望や関心に従ってしか認識できません。

スマホでゲームをしたい子供にとって、スマホはゲーム機とほとんど変わりませんし、スマホでたくさんの人とメッセージや画像・動画のやりとりをしたい人にとって、スマホはコミュニケーションのための道具です。

子供のスマホの使い方が心配な親や教師にとって、子供がスマホをさわっているのを見たら、それは心配になる様子にしか見えません。

「わたし」は「わたしたちは日頃『見た目』に頼って判断することが多い」、「新しいものは『少しこわい』」という言い方をしていますが、実際に私たちが判断のよりどころにしているのは、他の人や世界の見た目ではなく、私たち自身の欲望や関心です。

そして、欲望や関心が異なれば、同じ世界でも同じ物事でも異なって見えます。

それは誤解の種にもなるのです。そして、そういった誤解は何も新しいものに限って起こるのではありません。どんなものでも同じです。

みなさんは、友達と意見が合わなくて困ったり、考え方が違う人たちにイライラしたりした経験がありませんか。そういったときには、どちらが正しいかについて考えるのではなく、こちらもあちらも、それぞれどういった欲望や関心にもとづいて考えたり発言したりしているのか、そういったことについて考えるようにすると良いと思います。

これは哲学的手法です。おすすめですよ。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed