いい声というのがある。好きな声というのもあるよね。

でも、実はいい声には「視覚とセットのいい声」と「声だけ聴いて、いい声」というのがある、というのはあまり知られていない。

ついでに話の内容についても話しておこう。

おもしろい話というのには2通りある。「思わず笑ってしまうような話」と「聴いていて身体にじんわりと響く話」とである。

2つのパターンには共通点がある。定型的でなく力動的である、というところである。でも前者と後者との間には大きな違いがある。前者は聴き手にとって他人事である。後者はどこかで話の内容と聴き手自身とがリンクしてしまうのだ。

まれに2つのパターンを兼ねた話というのがある。落語などにある佳話がそれである。(落語は定型だと思う人は、そうはいかのキンタマ。定型で上手くいくと思うなら、やってみやがれ。)聴き手がクスリと笑いながら、「しょーがねーヤツだなあ」なんて思いながら、ほんのり涙ぐんでいたら、まさにそれである。

そういう話は聴き手に届いているのである。

いい声というのも、それと同じである。聴き手に届いている。それは耳に音波が届いているということだけを言うのではない。(だって、耳に届いて耳障りだという声があるのだから、それもおわかりいただけるだろう。)

「視覚とセットのいい声」の場合、声は視覚によるイメージを補強する。声がなくても魅力的なのだが、声があることでより身体にぐいぐいと魅力が突き刺さるのである。人気の声優さんや宝塚歌劇団のトップスターのお声などがそれである。

「声だけ聴いて、いい声」というのは、それとちょっと違う。

声にいろいろな襞(ひだ)がある。明るい声、低い声、くすんだ声、若い声、熟年の声、女の声、男の声、そういったいろいろな声が同じ声のなかに隠れている。

多彩なのである。

いろいろな要素で構成されているから、その中の何かが(あるいはその中のいずれかによる和声が)聴き手に響くのである。

「響く」というのは音叉を想像してほしい。

同じ調律の音叉を2つ用意して、ひとつを鳴らし、適切な仕方でもうひとつの様子を観察すると、やがてそちらも同じように音を鳴らすようになることが知られている。共鳴という物理現象である。

聴き手に響く声というのも、これとよく似ている。

話し手の声を聴いているうちに、聴き手の中で「調律」の同じ部分が共鳴し、音を鳴らし始めるのである。

人の声の基本構造は変えられない。人の声は身体の物理的構造に基づいて発声される。楽器と同じである。発声に関する身体の物理的構造が変わらない限り、基本的に声は変わらない。発声に関する身体の物理的構造を変えずに人の声を変える方法は2つである。

1つは、息づかいが変わるときである。(これも楽器と同じ。)

話していて、気分が高揚して、涙が出そうになると、声が変わるでしょう?

涙声ってやつだね。あれは息づかいが変わるから、声が変わるのである。経験があるでしょう。

もうひとつ、声が変わる場合がある。人生経験や体験によって、人の声は変わる。これはその人自身が随意にコントロールできることではない。(残念ながら)

人を愛したり、裏切ったり、愛されたり、裏切られたり、ものを壊したり、作ったり、壊されたり、作ってもらったり、そういうことを経験していくと人の作りが変わる。それによって声の彩りも変わるのである。

私はこれを声の不随意筋と呼んでいる。

人の声には、そういう話し手の生身の部分がもろに出てしまう。だから、怖い。だから魅力的でもある。

讀賣新聞社が声優たちと「編集手帳」の朗読をしている。その中で大久保瑠美さんの朗読はすばらしい。

「声だけ聴いて、いい声」なのである。

私は大久保さんのご経験について何も知らない。知る必要もないだろう。でも、大久保さんのお声が彩り豊かな、聴いていて心地よいものであることだけは間違いない。少なくとも私にとっては間違いない。

そういう「私に宛てた声」を聴き分けられるのはたいへん重要なことである。

みなさんにも、みなさんに宛てた声が届いているはずである。

それをきちんと受け止めていますか。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed