突然ですが、問題。
100本のくじがある。100本のくじの中に3本のあたりが入っている。そこから30本のくじを引くとき、何本の当たりが引けると期待されるか。期待値を利用して答えなさい。
はい。数学の問題です。
確率の問題。
「期待値」は数学Bで学習します。
だいたいでも、いいですよ。どれくらいの当たりが引けそうですか。
答えは、
0.9本です。
「合計N個の物の中に,当たりがA個入っている。このN個からn個選んだとき、当たりが何個あるか?」
という確率の分布を超幾何分布と言います。(この言葉を知らなくても、高校数学の学習でほとんど問題はありません。)
その超幾何分布の期待値はnA/Nでと表せます。(別にこれは公式でも何でもありません。)
今回の場合、「30×3」を「100」で割ることになりますから、期待値は0.9です。
30回引いたら、1本くらい当たる気がしませんか?
30回引いて、1本も当たりが出なかったら、
何だか凄く損をした気分になりませんか?
そういう気がしない人も、そんな気分にならない人もいますよね。
私はくじ引きをするときに、こういった期待値計算をよくします。
「一番くじ」というのがあります。バンプレスト(バンダイナムコグループ)さんの商標です。「はずれのないキャラクターくじ」というのがキャッチコピーですが、くじを引く人にとって、すべての景品が欲しくて仕方がないものであるとうことはあまりありません。だいたいはA賞とか、B賞とか、特定の景品が欲しいんですね。
気が利いたお店は、客に残りのくじ数を教えてくれます。そういう場合、上記の期待値計算が使えます。さらにくじ1回の費用を計算に組み込めば、いくらの費用を費やして、どれくらいの当たりが期待できるか、計算できるのです。
数学において確率に関する分野はそれを構成する重要な一分野です。
高校の数学で確率の問題が苦手という方はおられますし、いらしていいのですが、数学における確率の研究というのは19世紀にヨーロッパで同時多発的に発展を遂げた人類の重要な知的成果のひとつです。
せっかくなら、使ってみても良いのではないかと思っています。
ちなみに
私は数学が苦手です。
でも、数学は嫌いではありません。どちらかと言うと好きだと思います。
「どちらかと言うと好き」というような持って回った言い方をするのは、「数学が好き」と言うと「じゃあ、数学できるんですね!」という誤解が飛んできそうだからです。数学はできないんです。苦手です。
でも、私は数学に関心を持っています。(しつこい)
だから、今でも時々勉強しています。
18年前の高校の学習過程で数学ⅠAⅡBの学習はしたので、それが役に立っていると思います。あと、日本で暮らしていると、日本語で数学の勉強ができます。私のような数学者とは縁遠い人間なら、まずは学ぶべき数学の大半について、全て日本語で学ぶことができます。
幸い、私は日本語の先生です。
ですから、数学を学ぶのにあまり支障はありません。
これからも、コツコツと数学のお勉強をしようと思っていますよ。ちなみに本文を書くにあたって、ウェブサイト「高校数学の美しい物語」が大変参考になっています。ありがとうございます。
もしお金が無限にあったら、もう一度大学に行って、好きなだけ数学の勉強をして、勉強したことをサイトにまとめる生活がしたいです。
— 高校数学の美しい物語 (@mathelegant) 2017年10月17日
さっきの超幾何分布の期待値の話だって、それを求める数式はとてもシンプルですが、それを導くには結構な手間がかかります。数学を学ぶというのは(私が言う「数学を学ぶ」というのは、せいぜい高校数学を学ぶくらいの程度ですが、それでも)できあがった数式を覚えることではなく、その数式を導く過程を理解し、自分自身の手を動かして同様に立式できるようになるということです。
もちろん、高校のテストや入学試験で解答するためにそういった過程をいちいちふむ必要はないかもしれません。
でも、そういった過程を理解することにおもしろさをおぼえる人たちもいるわけで、そういったことに熱中するのも楽しいものです。
さて、何で急に数学の話をしはじめたのか。理由がないのではありません。
中学生の作文で「顔面偏差値」という表現を目にしました。
これで3回目です。
過去2度は男子生徒でしたが、今回は女子生徒でした。
私は「言葉狩り」が嫌いです。
『三省堂国語辞典 第七版』によれば、言葉狩りというのは「特定のことばを悪いものとして、出版・放送などで<使わないように圧力をかける/使用を過剰にひかえる>こと」と説明されています。
「顔面偏差値」という表現の使用を生徒に禁じるつもりはありません。
でも、私はそういった表現は使いません。
まず、現実の人の美醜を評価する立場に私はいません。どんな姿形をしていようが、かまいません。外見的美醜(たとえば「顔面」の美醜)以外に、私はその人について興味があることがたくさんあります。むしろ、そういったことはどうでもいい。そう思っています。
また、偏差値というのは数学の言葉です。
ある試験における平均点をμ、標準偏差をσ、得点をxiとすると、偏差値Tiは、
Ti=10(xi−μ)/σ+50
という式で表せます。
つまり、偏差値は数値です。ということは「顔面偏差値」と言うからには、その美醜(?)のようなものが客観的に数値化できるということになります。
凄いですね。百歩譲って、その人たちに他人の顔面の美醜を評価する権利がある(そんな権利は不要だと私は思いますが)としても、余程の審美眼があるのでしょうか、美しさを数値で評価することができるそうです。
実に凄い。ぞっとしてしまいます。
「顔面偏差値」という言葉を日常的に使用していると、その方たち自身もご自身の「顔面」について、あれこれと余計なことを言う他者の干渉を許すことになります。それはたいへん危険で厄介なことではないでしょうか。
また、そういった言い方をしていると、偏差値の数学的理解から遠ざかり、結果として数学的理解全体からも疎遠になってしまうということになりかねません。これはこれでリスクなのではないでしょうか。
言葉を使うのは自由です。でも、言葉の使い方は思ったより大きな影響を私たちにおよぼします。
そういうことをお伝えするのは、手間のかかる仕事ですが、日本語について教える先生、つまり「国語」の先生の仕事のひとつだと思っています。そういう仕事の方が言葉狩りより大事です。はい。
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