その責任は誰にある

わからないことについては、

わからないとすべきである。

それは「わからない」といちいち言明せよ、ということではない。

これについてはわかっていない、ということを確認する地道な仕方が大切だということだ。

加えて、他者の知性を侮らぬことである。

私が知らないことをその他の人は知っているかもしれない。私が見たことがない仕方で、その人は世界を見ているかもしれないのだ。

そういった意味で、私は他者の知性をできるかぎり尊重し、また他の人のすることに対してはできるかぎりの譲歩を用意している。

そんな私であるが、難しいと思うことがある。

それは省みるという仕方である。

世の中の大抵のことは誰かひとりの力だけでどうにかなるものではない。

だから、世の中の大抵のことについて、「私はそれと関係がない」とか「私には責任などない」とか、私たちは言うことができる。

そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない。

いや、むしろ「私と関係があるのではないか」とか「私には責任があるにちがいない」と思わずにはいられない、そういう人たちがいる。

「省」という漢字には「目」が含まれている。篆文や金文で書かれた「省」の字を見るとそれがよくわかる。

だから「省みる」というのは、じっくりと見るということでもある。

私たちが見ているものは、世界の全てではない。あるいは私たちは一度に世界の全体を見渡すことができない。

だから、時間をかけて丁寧に見ることが重要である。「じっくりと見る」のである。これが難しい。

私は「じっくりと見る」ことができる人たちを尊敬している。じっくりと聴くと言い換えてもいい。

そして、そういう人に会うとほっとする。

再び漢字の話をすると、聴という漢字の右の部分は、「心」に「目」をくっつけるようにして、それをみている人の様子を表している。(目が横になっていて、人が天地さかさまにえがかれている。)『角川 新字源』では、それを「正しい心」と説明していて、この字は「聞いて正しくさばく」、あるいは「ゆるす」とか「したがう」といった意味があるそうだ。

見るとか聴くとかいった基本的な仕方には、その人が選び取っている世界・他者との関わり方というのが表れてしまう。

「じっくりと見る」、「じっくりと聴く」ことができる人は、世の中の多くのことがらについて「他人事ではない」「責任がある」と思っている。

私たちはつい、多くのものを見たり、聴いたりすることに重きを置きがちである。でも、多くのものを見たり、聴いたりしても、必ずしも理解は深まらない、理解の及ばぬものと共生することができるようになるとは限らない。

世界のさまざまなことがらと関係を取り結び、それらと応答することができる人は何かの拍子にわからないことがわかるようになったり、わからないものを身近にたくさん滞留させたりすることができる。

そういったことをするとエネルギーを消耗するし、そういったことをするのに重要な技術は経験的しか身につかないことが多い。だから難しいのだけれど、そういったことができる人は世界のハブ(hub)になる。

ある新聞のコラムを読んで、そのような思いを強くしたのである。

「その責任は僕にもある。」

なかなか言えるものではない。しかも、コラムの結びが素晴らしい。ただ口をついて出てきたのではない、とても重みのある言葉だ。リアルな言葉だ。

ご高覧の機会があるなら、未読の方にも、ぜひお勧めしたい。

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