誰そ彼と

好きだったんだ、あたし。ここ最近の瀧くん。

前から良い子だったけど、最近はとくに。

なんか、必死で。かわいくって…。

瀧くんの言っていることは、やっぱりおかしいとは思うけど、

…、

でも、きっと瀧くんは誰かに出会って、

その子が瀧くんを変えたのよ。

それだけは確かなんじゃないかな。
(映画『君の名は。』)
―――
劇中で主人公の「立花瀧」(@神木隆之介)が「宮水三葉」(@上白石萌音)を探すために「糸守」という三葉の故郷のことを必死に調べている場面。

その様子を瀧の先輩である「奥寺ミキ」(@長澤まさみ)が説明しました。

2016年に大ヒットした映画『君の名は。』はその予告編から「男女逆転」という入れ替わりの物語であることが知られていました。

瀧は入れ替わりの相手である三葉という少女の姿を追いかけるのですが、その姿は周りの誰にも見えません。

劇中の他の場面からもわかるように、奥寺ミキは瀧の様子をよく観察していて、彼の好意がミキ自身ではなく他の「誰か」に移っていることを言い当てています。それこそ、そのことを瀧が認められるようになるよりずっと早い段階から。

でも、「三葉」という物語のカギを握る少女の姿は、瀧の周囲の誰にも見えません。だから、瀧の様子はミキが評するとおり、

何でかはよくわからないけど、確実に変わった、

というように見えるのです。

少年少女の成長は、

誰の目からも、実際そのように見えているはずです。

何があったのか、それはよくわからないのだけれど、急に様子が変わった。

何かに夢中になっている。その理由とか、それをしてどうなるとかいう合理性とか、そういったことについては全くわからないのだけれど、何かに心をとらわれている。

周りの人たちは、まったく理解がすすみません。

でも、その当人もよくわかっていないのです。

何だ。何なんだ。どうしてだ。お前は誰だ。いったいなにものなんだ。

「君の名は。」

というのはそういう話なんです。

深読みをすれば「君の名は?」でも「君の名は…。」でもない。

だって、語りかける相手が何なのか、どこにいるのか、なにものなのか、それがわからないのだから。疑問符のない理由は、そんなふうに説明できます。

他にも「君の名は」の後に、何も言葉にした考えが続けられない。お前は何なんだ、いったいなにものなんだと問うて、そのままグッと言葉を呑むしかない。だって、何も言葉でわからないからです。

若い人の成長というのは、合理的に説明できることだらけではないのです。

いや、それは年を重ねても同じかもしれませんね。

何かをする意味とか、

目的とか目標とか、

そういったものが言葉で上手く説明できない。説明の仕様がないのだから、仕方がない。

でも、何かがそこにはあるんです。

物語のはじまりは

「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」

という三葉の語りからはじめられます。

そういうことが、ときどきある」

と続くんです。

いや、ねーよ!

という人もおられるかもしれませんが、私たちの多くはどこかでそういう経験をしたことを覚えています。

それに

「見ていたはずの夢は、いつも思いだせない

という瀧の語りがつづき、

「ただ(瀧)、ただ(三葉)」

何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く残る。」

「ずっと何かを、誰かを、探している」

そういう気持ちにとりつかれたのは、たぶん、あの日から。」

そんなふうに二人の話が続きます。

その後、予告編でも用いられた、

「あの日、星が降った日、」

「それはまるで(瀧)、まるで(三葉)」

「夢の景色のように、ただひたすらに…」

「美しい眺めだった。(二人)」

というパッセージがあらわれ、RADWIMPSさんの楽曲と共に映画の幕がオープンします。

実はこの最初のシーン、物語のクライマックスでもあるんですよね。

それは三葉たちにとっての物語の「クライマックス」、そして瀧にとっての物語のはじまり。

そして、瀧にとっての三葉を探す物語の佳境がやはりその場面でもある。

『君の名は。』という映画は、

時間というしくみを巧みにつかって、

瀧と三葉という二人の違いをきわだたせています。

どうしようもないくらい違う二人。

すれ違うのは仕方がない二人。

そういった「違い」が時間という私たちに身近な仕組みによって、強く印象づけれているのです。

それを結ぶきっかけのひとつになるのが「糸守神社」のご神体と黄昏(たそがれ)の時間。

三葉の高校の古典の先生(「ユキちゃん先生」@花澤香菜)は、たそがれの時間を「逢魔が時」とも説明していましたね。

それに対して生徒の誰かが「かたわれ時やないんですか~。」と質問するのですが、その「かたわれ」という言葉は「かたわれ星」という言い方で流れ星を意味するというのも、非常に印象的です。

このとき、ユキちゃん先生が黒板で説明していたのが、『万葉集』の

誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を(巻十の二二四〇)

という歌でした。

三葉がノートの中に「お前は誰だ?」という乱暴な質問の文字を見つけて、そういうお前こそ誰だ、と訝しむのがちょうどそのときです。

「誰そ彼」

あるいは

「君は誰か」

と問うしかないのです。そうして「君を待つ」しか、あるいはこちらから走って「君」を探しに行くしかないのです。

誰を探しているのか、わからないけれど、

何をしようとしているのか理解できないのだけれど、

消えてしまった何か、そこにあるはずなのに存在しない何か、

どこかで知っている何か、いつか出会ったことのあった(でも今は忘れている)何か、

そういうものを「取り戻す」という仕方で大事なものを見つける。

そういう見つけ方もあるということは、忘れてはいけないことだと思います。

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