森の生き物として

人間はサルの仲間、まぁ類人猿でもいいんだけど、もともと森林の動物なんだよね。森林の動物っていうのは不確かなものに出会い、不確かなままに対処するという能力を持ってるわけなんですよ。

要するに、すべてわからなくてもいい。わからないままに付き合う。これが、森林の動物の能力です。

動物と付き合うと、その動物が考えていること、やろうとしていることなんてわからないですよ、最後までね。でもそれでいいんです。動物は動物の能力でコミュニケーションをとってるわけだから。どっかで折り合いがつけばいいわけで。

「わからないとダメだ」みたいなんじゃなくて、鷹揚さというのを身につけてほしい。ただ必要なことはね、リスク回避なんですよね。本当に危険なことを避けられないとマズイ。それが本当の勉強なんですよね。

とくに人間関係でそれは鍛えてほしい。同じ人間だからわかり合えるなんて思ったら、大間違いで。やっぱり人間も自然なんですよ。だから不確かなもの。不確かなものとわかり合えるためにどうしたらいいのかを自らの体験を通して、とりわけ自然との体験を通じて教えてほしい。

いまの子供は生まれながらにインターネットと付き合ってますから。インターネットのなかには不確かなものはないんですよ。不確かなものはあってはいけない。どんどん確かなほうへ確かなほうへ流れていくようにつくられているわけです。でも、生物の世界はそうできていない。不確かなものは不確かなままにいるんですよ。それが自然というものでね。そっちと付き合う学習をしなくちゃいけない。それが家庭でできる勉強だと思いますね。
(「ちゃぶ台Vol.3」ミシマ社)
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京都大学の山極壽一先生がこんなふうにおっしゃっていました。

ICTやインターネットの普及は、子供たちから「不確かなもの」や「確かそうなこと」を取りのぞいてしまいます。今私たちの多くが知っているICTやインターネット上のコンテンツはそうです。

上に引用したのは「ちゃぶ台」という雑誌にのったインタビュー記事なのですが、そこで山極先生は教育におけるICTの可能性に肯定的な評価をした上で、自然や生物それ自体が備える未知について、そういった不確かなものが重要であるという話をしました。

何だかよくわからないものを「何だかよくわからないもの」のまま、頭の中で取っておけるというのは重要な能力です。

この能力に失調があると、私たちはしばしば失敗するのです。

代表的なのは『徒然草』の第八十九段にあらわれる名もなき法師です。(文章中に「何阿弥陀仏」という名前のような表現が出てきますが、あれは匿名ですからね。)

法師は連歌会のかえりに夜道を歩いていましたが、首に飛びついた何かを化け猫だと思い込み、大失敗をしてしまいました。

結果、その「何か」は法師の飼い犬だったのですが、法師はそれを化け猫の「猫また」だと思ってしまったのです。

この章段は高校の古文の授業でよく学ばれます。

学習の最後に「この話のおもしろさについて話し合ってみよう」というような研究の課題が設けられることがありますが、この話はただのおもしろい話ではなく、私たちを戒める話でもあると思います。

そもそも、法師は首のあたりに違和感をおぼえたとき、どのように立ち振る舞うべきだったのでしょうか。

みなさんはどう思われますか。

もちろん、答え方はさまざま有り得ます。

ただ、その概ねは「首の違和感の正体をうかつに臆断せす、違和をそのまま受け止める」というものになるでしょう。

違和感の正体を「猫また」と決めつけても失敗しますし、全く恐れる必要のないものと臆断しても失敗する可能性があります。

わからないものを「わからないもの」としてそのまま受け入れる、というのは実に重要な知性の働きなのです。

山極先生はそういった「わからないもの」との付き合い方を家庭で学ぶというのですが、それはどういうことでしょう。

山極先生は同じ文章で人間の子育てが類人猿のそれとどのように違うかということについて説明しています。

類人猿と違って、人間は共同で子育てを行うという仕方を選び取ることで進化をしました。

森林で暮らしていた人間の先祖は、森林で食べ物が減少した時代に平原に出ることを選びます。そういった環境で効率よく運動するために、人間は直立二足歩行という仕方を獲得しました。しかし、平原には今で言うとライオンやジャッカルのような肉食獣が生活しています。二足歩行はエネルギー効率が良くても、敏捷性や走力では四足歩行に劣るので、身体の小さな子供たちや老人はのんびり歩いていると肉食獣に襲われてしまう危険がありました。

山極先生は500万年から700万年くらい前のこの時期に、肉食獣にやられて幼児死亡率が高まったと考えています。

このとき、人口を補填するために人間が他の類人猿に比べて多産になった、正確にいうと出産のサイクルが短くなったというのが山極先生の説です。

そのため、人間はまだひとりで充分に食事ができない未熟な子供を育てることになります。

しかも、200万年前くらいから脳が大型化して、人間は乳幼児期に脳の発達を優先するようになりました。そうすると他の動物に比べて身体的機能で劣る子供たちを育てることになる。しかも、12歳を過ぎたころから、脳よりもおくれて、それ以外の身体の成長が始まる。そのときに性的特徴も発現するし、性的衝動に駆られるようにもなる。しかも、急激に身体が変化・成長することで脳と身体のバランスも変化し、そのつりあいがうまくとれないことがある。そういう仕方で「子供が大人になる」(この言い方はちょっと適切でない場合もあるのですが)ときに起こりがちなトラブルを大人がうまく回収・吸収しなくてはならない。人間はそういう仕方で進化してきたのです。

そのため人間は他の動物と比べて子育てのコストが増大し、それを共同で子育てをするという仕方で補うようになった。他の動物とは違う仕方として教育という手法を選び取ることになった。そうして血縁的結合としての家族とは別に発生したのが社会という共同体であった、というのが山極先生の説明です。

そうすると先に言う「家庭で学ぶ」という話も、何を学ぶのか、理解できるような気がしてきます。

私たちは未熟なものといっしょに暮らすという仕方を身につけるのです。

「未熟なもの」というのは幼い他個体という意味でもありますし、同個体(その個体自身)の未成熟な部分と理解することもできるでしょう。

そういう未熟なものというのは「不確かな」「よくわからない」ものとして私たちの前にあらわれます。

そういうものとうまく折り合いをつけて、「たぶんこんな感じかなー」ぐらいの仕方で「確かそうなこと」を選択して生きていく。それは「確かなこと」だけを選び取って生きていく仕方とはだいぶ異なる。そういうことなのだと思います。

穎才学院にも「未熟なもの」がたくさんいます。私自身の中にも未熟なものが住んでいます。

私は教務部長として毎日「よくわからないなー」「どっちやねんな」と思いながら不確かなものと対峙・共生していますが、これからもそういったことは続いていくのだと思います。

ああしなさい、こうしなさいと命じて、よくわからない何かをよくわかるようにしようとする企ても有り得るのでしょうけれど、それは嫌だし、なんか違うだろうという気がしてならないのですね。

それは人間性を損なうからだと思います。人間らしい仕方で「よくわからない」「不確かな」なものと付き合っていきたいと思います。そうして、少しずつ成熟していってほしい。それが私の願いです。

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