2014年5月14日
「何か大きなもの」のために戦うということ。
少しずつ街の空気に夏の気配がただよう頃になりました。みなさま、お変わりありませんか。さて、先日、サッカーW杯に出場する日本代表チームのメンバーが発表されました。今回のサッカー日本代表チームは、以下の2点でこれまでのチームと異なります。
1.ほぼ全ての選手が複数のポジションを担当できる。
2.多くの選手が「優勝」という目標をかかげている、。
ザッケローニ監督によって選出された選手が「ユーティリティー性」、すなわち「複数のポジションと担当できるという性質」をアピールポイントとして身に備えているということは、しばしばスポーツニュースなどでも説明されています。チーム内の多くの選手が「優勝」を目指して戦うと公言していることも、報道を通して私たちによく伝わるところです。
では、なぜ2014年ブラジルW杯のサッカー日本代表メンバーは、そのようなこれまでにない特徴を帯びるにいたったのでしょうか。
それは彼らが「個のために」でなく、「何か大きなもの」のために戦うようになったからだ、と私は思います。そして私は、これを日本のサッカー選手の「成熟」と見るのです。
1998年のフランスW杯で、サッカー日本代表は初めてW杯に出場しました。その出場権を勝ち取る予選の道程は、熾烈をきわめましたが、1997年11月16日、当時の日本代表チームはマレーシアのジョホール・バルで遂にW杯への出場権を獲得します。その後、本選に出場する選手を選抜する過程で、ちょっとした事件がおきました。それまで日本サッカー界を牽引してきたスター選手、三浦知良の代表落選です。三浦選手は、単身帰国し記者会見で「日本代表としての魂のようなもの」はチームに置いてきた、と声を絞り出すように述べました。
その後、三浦選手がどのようなサッカー選手としてのキャリアを歩まれたかは、みなさんの中でも御存知の方が多いのではないでしょうか。三浦選手は2014年現在でも現役のサッカー選手としてプロチームで活動し、2012年にはフットサル日本代表チームにW杯出場メンバーとして召集されました。サッカー選手としての技術や経験のみならず、彼の立ち居振る舞いの放つ「深み」のようなものが、若いサッカー選手に与えている影響は計り知れません。
1997年まで華やかなスポットライトを浴びる機会の多かった三浦選手は、代表落選という経験を経て、それでも自身がサッカー選手として生き続けることを引き受けました。それはもはや、三浦知良という個人のためというよりも、何かそれとは別の「大きなもの」のために生きるというものであったはずです。
三浦選手に限らず、個を越えた何か大きなもののために生きる人の姿は、すべからく周囲の人を惹きつけます。ドイツW杯で引退した中田英寿氏のラストゲームでの痛々しいほど懸命な姿勢、フランスW杯につづき、2010年の南アフリカW杯でも日本代表を率いた岡田武史監督の献身的な姿勢…、これまで何人ものサッカー選手、監督、サッカー関係者が「個人を越えた、何か大きなもの」のために闘い、身を捧げてきました。
本年のブラジルW杯を戦う日本代表選手には、そのような先人たちのメッセージを、自分自身に宛てたメッセージとしてきちんと引き受けることができるメンバーが多いのだと思います。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは、「存在するとは別の仕方で存在する」ものによって私たちは成熟へと導かれるということを説きました。
この「存在するとは別の仕方で存在する」ものというのは、ここでは「個人を越えた、何か大きなもの」に近いものであると言ってよいでしょう。
「存在するとは別の仕方で存在する」もの、例えば大久保嘉人選手にとって、それは亡くなられた御父様という存在です。大久保選手は、前回大会(南アフリカW杯)に出場した後、一時期、サッカー選手としてのモチベーションを失ったようにさえ思われましたが、敬愛する御父様の言葉をきちんと胸に刻んで、ふたたびサッカー選手としてのハートに火を灯しました。大久保選手は、もはやW杯出場メンバーに選ばれることを最大の目的にすることさえなかったのではないでしょうか。亡くなった御父様の言葉を背負って、日々サッカー選手としてコツコツ邁進する。彼が行ったことは、そのような律儀な営みの積み上げでしょう。だからこそ、彼は所属するチーム、川崎フロンターレでもきちんと実績を出すことが出来たのです。代表メンバー発表当日の彼の顔は、大変すがすがしいものでした。
もちろん、「存在するとは別の仕方で存在する」ものによって駆動するチームが、サッカーという競技において常に強力であるとは限りません。今回のサッカー日本代表チームが、ブラジルでどのような活躍をみせるかは、私たちの期待の対象となるところではありますが、その結果は誰にも予測できないものです。
しかし、ブラジルW杯での「結果」とは別に、日本のサッカーが今回のW杯出場を経て、成熟への道程を歩んでいくのは、およそ間違いないことでしょう。
子供たちを育てる、後進を育成するという仕事は、すべからく成熟した人間(あるいは成熟に向かおうとする人間)にしか担えません。
今、日本のサッカー選手は、「成熟する」という方向へ大きくドライブをかけています。そのドライブは、サッカー選手に憧れる子供たちをも、とても健やかに成熟へと向かわせるかもしれません。
2014年5月12日
進路の扉には「ドアノブ」が付いていない
本年度も株式会社大学通信より、「君たちはどの大学を選ぶべきか」という冊子が届きました。穎才学院では、毎年、お手紙文をつけて生徒たちにこの冊子を配布しています。せっかくいただいたものなので、きちんと子供たちに宛てて贈らないと…。ところで、大学は私たちが「選ぶ」ものなのでしょうか。私は「大学が私たちを選ぶ」と考えています。今年は「進路の扉には『ドアノブ』が付いていない」と題して、生徒たちにお手紙を贈りました。ここにその内容をアップロードします。※小学生や中学生のために、配布したお手紙にはルビがほどこされています。
風が快い季節になりました。みなさんは、新しい学校・学年にも少しずつ慣れてきたころでしょうか。
さて、大学通信社より『君はどの大学を選ぶべきか』という冊子が届きました。毎年、穎才学院の生徒に宛てて贈られる冊子です。今年もみなさんに一冊ずつ、お渡ししようと思います。
ところで、進路の選択について私は「進路の扉には『ドアノブ』が付いていない」と考えています。みなさんは、中学進学・高校進学・大学進学にあたって、自分自身が進学する学校・大学を選択しようとするわけですが、実はその際にみなさんはドアノブを握って進路の扉を開くことができないのです。それは、大学進学後の「就活」や「婚活」、「出産」「育児」などでも同じです。どのような会社に勤めるのか、どのような人と結婚し家庭を持つのか、どんな子供を出産するのか、どこでどのようにその子供を育てるのか…、実はそのようなことは、ほとんどの場合、私たちの思い通りにはなりません。思い通りにならない方がよいのです。
ここでは「出産」を喩えとして、考えを深めてみましょう。みなさんが子供を持つときに、みなさんはその子供の性別や容姿、才能などを選択することができるでしょうか。もちろん、できるはずがありません。確かに私たちは、「女の子が欲しいな」とか、「賢い子が生まれるといいな」とか、生まれてくる子供について、あれこれと思いをはせることはあるでしょう。しかし、いざ子供が生まれるときになると、「とにかく無事に生まれてきてほしい」、「女の子でも男の子でもかまわない」と思うようになるのが人間というものでしょう。
これと同じように、私たちの一生において「大切なこと」は、私たち自身が選びとれるものではありません。「大切なものは選べない」のです。それは、神話や古い物語が私たちに宛てて繰り返し教えてくれる真理です。
そんな私たちが出来ることは、やがてドアが開くときに備えて、自分自身をコツコツと磨きつづけることでしょう。粗忽なふるまいばかりではいけません。仲間や家族は大切にしなければなりません。本をきちんと読みましょう。「わからない」から逃げてはいけません。丁寧に調べる姿勢を大切にしましょう。
その意味では、大学は選ぶものではありません。大学側から皆さんが選ばれるのです。いろいろな大学から「ぜひ君に入学してほしい」と請われるような、魅力的な人材になってください。