2013年8月31日
今日まで、そして明日から
こんにちは、穎才学院教務です。8月の末日になって、また酷暑となっています。みなさま、お元気でしょうか。
さて、本日で2013年夏期講習が終了いたします。9月2日(月)からは、平常授業が始まります。既に2学期が始業している学校も多いようです。穎才学院の生徒は、大学受験・高校受験・中学受験など、それぞれの目標に向かっていくことになります。
中でも、夏期合宿に参加した生徒たちは、学年を越えて、たいへん仲良くなったようです。10代から20代にかけて、学問を志す若者は、仲間と共に学び、悩み、楽しみながら、青年から大人へと成熟します。それは『指輪物語』や『影との戦い』(「ゲド戦記」)の「フロド」や「ゲド」の冒険がそうであるように、困難を伴った、彩りの豊かな旅程であるはずです。
そのような道のりを行くにあたって、子どもたちに欠かせないのは、苦難を分け合い、あたたかみを共有するような、仲間です。『指輪物語』の「フロド」に「メリー(メリアドク・ブランディバック)」たちが、『影との戦い』の「ゲド」に「カラスノエンドウ(エスタリオン)」がいたように、成熟する若者には、苦楽を共にする仲間が必要である、ということを児童文学は私たちに教えています。
子どもたちが、この夏に見つけた仲間たちと共に、成熟の旅に歩みを進めるのを、私は楽しみにしています。そして、そのときは確実に近づいているような気がするのです。
「今日まで、そして明日から」という本ブログのタイトルは、昨年まで事務として穎才学院で活躍してくださった三技さんが、合宿で子どもたちと交し合った交換日記に付けられた名前でした。この余韻の豊かな、素晴らしいタイトルは、今年の穎才学院の夏の終わりにもよく似合っています。
「今日まで、そして明日から」
子どもたちは、夏の大切な経験を糧に明日からの冒険に歩みをすすめます。
夏休みのブログのしめくくりとして、合宿に参加した高校3年生が書いた作文をみなさんにお伝えしようと思います。合宿に参加した彼女の思いがきちんと込められた、とても良い文章です。全く校正を入れず、本文そのままで、みなさまにお伝えします。
「夏期合宿に参加して」
今回、この合宿に参加してみて、本当に沢山の思い出と知識を得ることが出来たと私は思う。なぜなら、私がこの合宿に参加する前に予想していた内容よりも、実際ははるかに楽しく充実した4日間を過ごすことが出来たからである。具体的には、印象に残っている2点を述べてゆきたいと思う。
まず1点目は、先生方のミーティングでの「伝承」についてのお話を聞いて、特に木元先生のお話では、当り前のことのようで、でも今まで気づけなかった勉強の楽しさを知ることができました。私も、勉強は楽しいことなのだと思って、これからは取り組みたい。
そして2点目、それは同じ目標をもった仲間が周りに居たということです。今までは面識もなかったので、勝手に敵だとばかり思っていた塾の人たちでしたが、話してみると皆私とあまり変わらない不安や焦りを感じていることを知り、すこし気が楽になりました。
これから受験直前にかけて、何度も不安やプレッシャーにおしつぶされそうになるのでしょうが、これらの経験を糧に、止まることなく前進してゆきたい。
(高3女子)
2013年8月30日
9月2日からは平常授業がはじまります。
こんにちは、穎才学院教務です。8月の終わりになって、猛暑がぶりかえしたようです。みなさま、ごきげんいかがでしょうか。
さて、穎才学院では8月31日までが夏期講習期間で、9月2日からは平常授業が行われます。月曜日から金曜日までは17時からの授業時間割に戻りますので、ご注意ください。
※時間割について不明な点がある場合は、お電話などでお問い合わせください。
夏休みが終わって、中学・高校・大学受験生はいよいよ受験が近づいてきたことを実感する時期になりました。まずは、9月・10月の間に、基礎的な学習事項について、しっかりと理解するようつとめましょう。また、夏期講習中の授業や合宿での経験を活かして、1学期よりも上手く学習に取り組めるよう意識して、生活習慣を調えましょう。
受験のない学年の方も、直近の定期考査に向けて、部活動や趣味と学習との両立をはかったり、具体的な学習目標を掲げたりして、毎日決まった時間、確実に学習する生活習慣を身に付けましょう。
大切なのはみなさんの身体の感覚です。本を読んだり、ノートに数学の問題を解答したり、毎日確実に文章や数式・図形などに触れる、つまり毎日確実に論理的思考を行う習慣を身体にたたきこんでください。
合宿に参加した方も、そうでない方も、落ち着いて真剣に学習に取り組む姿が自習室で見られます。この調子で9月以降も頑張りましょう。
2013年8月28日
フジファブリック『若者のすべて』
こんばんは、穎才学院教務です。日が沈むころになると、少しずつ秋の訪れを感じます。みなさま、お元気でしょうか。
さて、本日はフジファブリックの『若者のすべて』を紹介いたします。この作品は、2007年にリリースされたフジファブリックの10枚目のシングルです。最近、フジテレビ系列のドラマ『SUMMER NUDE』の第2話で、長澤まさみさんが演じる「一倉香澄」という女性が花火をしながら口ずさんだことが、視聴者の間で話題になりました。
劇中では、山下智久さんの演じる「三厨朝日」という男性が、かつて交際していた女性である「一倉香澄」と、この『若者のすべて』の歌詞について話します。このふたりの会話は、『SUMMER NUDE』の脚本を書いた金子茂樹さんとプロデューサーの村瀬健さんとの実際のやりとりがもとになっているそうです。
朝日くんが言うように、確かに『若者のすべて』は失恋の曲に聞こえることがあるのかもしれません。でも、香澄さんが言うように、この曲は別れた男女が再び出会う曲にも聞こえるのです。
視聴者の中には、朝日くんの意見に賛成したり、香澄さんの聴き方に同意したり、真意は『若者のすべて』の作曲者である志村正彦さんのみぞ知るものであるとしたり、さまざまな意見があるようです。このようにさまざまな意見があることは、ここでは良いことでも悪いことでもありません。ただ、20世紀のなかごろにロラン・バルトという人は『テクストの快楽』("Le Plaisir du texte"1973年)でこのように論じました。
テクストとは「織り上げられたもの」という意味だ。これまで人々はこの織物を製造されたもの、その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている作られた遮断幕のようなものだと思い込んできた。今後、私たちはこの織物は生成的なものであるという考え方を強調しようと思う。すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げていくという考え方である。この織物―このテクスチュア―のうちに呑み込まれて、主体は解体する。おのれの巣を作る分泌物の中に溶解してしまう蜘蛛のように。
ここで、バルトが「生成的」であると言ったり、「終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げていく」と言ったりするような在り方というのは、どのようなものなのでしょうか。
ちょうど、『SUMMER NUDE』の第2話で朝日くんと香澄さんがしていたようなこと、あるいはそのドラマの視聴者が『若者のすべて』という楽曲をめぐって、何かを感じて考えたり、ツイッターなどで発言したりしたことが、バルトの言う「テクストの生成」にあたるのです。
文学、映画、舞踊、宗教儀式、裁判、ファッション、自動車、モード、広告、音楽、料理、スポーツといったおよそ目に触れる限りの文化現象を「テクスト」と呼び、それを「記号」として構造的に読み解いたのがロラン・バルトです。
バルトの考え方によれば、テクストはさまざまな文化的出自を持つ多様な「エクリチュール」によって構成されています。エクリチュールとは、語り手がどのような社会集団に帰属するかによって、語り手により選択される言葉の「型」です。たとえば、おじさんたちは「おじさんのエクリチュール」を用いて呑み屋で管を巻いていますし、大学生たちは「大学生のエクリチュール」で楽しく会話します。おじさんと大学生のエクリチュールは異なります。ですから、おじさんと大学生の話はかみ合わないのです。それは彼らがお互いに彼らの属する社会に基づいた話の型を選びとっている限り、必然的で仕方のないことです。
『若者のすべて』で志村正彦さんがしてみせたのは、若者のエクリチュールをたくみに美しく紡ぎあげるような仕事でした。歌詞というテクストも、バンドサウンドというテクストも、志村さんがゼロから創成したようなものではなく、志村さんもバンドのメンバーたちも、フジファブリックの楽曲を聴く人たちも、みんなが帰属していた「若者」という集団のエクリチュールを編み上げてできたのが『若者のすべて』という楽曲だったのです。
ただ、その編み上げ方がとても繊細でロマンチックなのです。それは、『若者のすべて』というテクストが、すぐれて叙景詩的でも、抒情的でもあるからでしょう。イントロのサウンドは、フジファブリックのメンバーたちの地元である富士吉田市を走る富士急大月線の踏切の音を連想させますし、そのようなバンドサウンドにより奏でられる曲の風情や歌詞の内容は非常に抒情的です。それは、平安の時代に在原業平が「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」という歌を詠んだのと似ていて、目の前にある美しきものとそれに呼応する私たちの心情とを、巧みにテクストに織り込んだものなのです。
夏の終わりに若者たちがふと囚われてしまうような感傷的な気分を若者のエクリチュールで物語った楽曲が『若者のすべて』だと思います。ロラン・バルトはこのようにも言いました。
(エクリチュールの)多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。
バルトは、テクストの起源としての作者ではなく、テクストの宛先としての読者によって、テクストが一つのイメージへと収束していくと論じました。それは、『SUMMER NUDE』の第2話での『若者のすべて』をめぐる朝日くんと香澄さんとの対話であったり、その対話をめぐる視聴者の間での意見交換であったりするような、「読者」による主体的な読みが『若者のすべて』というテクストのイメージを構築していく、というのと同じことです。
香澄さんは自然と『若者のすべて』の歌詞を口ずさみ、朝日くんも自然とその歌詞についての自身の解釈を物語りました。その場面を見たり聴いたりした視聴者も、自然と『若者のすべて』という楽曲に心を囚われ、それについて感じたことを言葉にしたり、それについての感想を友人に伝えたりしたのです。
このように、素敵なテクストは読み手の心を動かし、その主体的な読みを促します。
読むというのはそのような魅惑的な行為なのであり、私たちにとって非常に快い営みなのです。
そのことは、バルトがこのような議論をくりひろげた著作のタイトルにもはっきりと示されています。『テクストの快楽』に人は魅惑されるのです。
2013年8月25日
2013夏期合宿は、無事終了しました。
こんばんは、穎才学院教務です。19時ごろ、合宿参加者全員元気に穎才学院に帰ってまいりました。
本合宿がこのように実施できたのは、日ごろからお子様の学習について本学院の方針にご理解とご支援をいただいている、ご家庭のみなさまのお蔭です。合宿参加者を代表して、穎才学院教務から御礼を申し上げます。
22日から25日まで3泊4日の間に、いつもと異なる環境で子どもたちはさまざまなことを経験しました。その一つ一つの経験が、子どもたちにとって宝物になっていることだと思います。
子どもたちには復路のバスの中で、「今夜はおうちの方と一緒にごはんを食べながら、合宿のことをお話しましょう。」と伝えました。
本合宿のテーマは「他者との共生」で、そのうちのひとつが「共食」でした。家族やルームメイトと共に同じ食事をとるということの幸せを、子どもたちには、これからも身体で感じてほしいと思います。
穎才学院では、27日(火)15時から夏期講習授業を再開いたします。みなさまのお越しをお待ちいたします。
バス帰着時刻について
こんにちは、穎才学院教務です。バスは、ただいま嵐山PAにて停車しています。関越自動車道では、断続的に渋滞が発生していて、バスの帰着時刻が遅れる見込みです。19時ごろの帰着が予想されます。取り急ぎみなさまにお伝えいたします。
2013夏期合宿 帰京中
こんにちは、穎才学院教務です。ただいま、全員そろって帰京しています。横川SAで休憩をとって、このあとは三芳で再度休みを設けて、板橋に戻ります。到着時刻は、18時15分から30分と予測されます。バスでは、にこやかに談笑する生徒の姿が見られます。合宿も、あともう少しです。
2013夏期合宿4日目
こんにちは、穎才学院教務です。合宿4日目、最終日の朝はをむかえました。生徒はみな健康です。本日は午前中まで宿で学習して、午後から帰京します。
2013年8月24日
水鉄砲ゲーム
こんにちは、穎才学院事務の田辺真美です。
本日合宿3日目のお昼休みに、レクリエーションを行いました。
行ったゲームは、はちまきに付けたポイと水鉄砲を使い、
2チームに分かれて、相手チームのポイをたくさん破いたチームが勝ちというものです。
このゲームは、去年事務の三技さんが考案してくれたもので、生徒からとても好評でしたので
今年も行うことにしました。
レクが始まる前は、これまでの勉強でみんな疲れている様子でしたし、自由参加ということでしたので、参加率はどうかなと思っていたのですが、さすがは穎才学院の生徒。ほとんどの生徒が元気に参加してくれました。
ゲーム開始直前は、みんな様子をうかがっていて動きが少なかったのですが、
2試合目を行うころには、学年、男女差関係なしに、みんなが一体となって本気で取り組んでいました。
一日中続く勉強スタイルから一転して、リフレッシュできたのではないでしょうか。
小学六年生から高校三年生、そして先生方も加わり、楽しい形で学年を超えた交流ができたと思います。
本日20時からは毎年恒例の花火レクも行います。
穎才学院夏期合宿のいい思い出になってくれたらうれしいです。
2013夏期合宿3日目
おはようございます。穎才学院教務です。夏期合宿は3日目になりました。気持ちの面で少し疲れた様子の生徒が出始めましたが、参加者全員、体調面では問題なく生活しています。3日目は学習の他に、レクリエーションが実施されます。みんなで楽しい思い出を作ってほしいものです。
3日目の朝食時になって、他の人といっしょに同じものを食べるということに、皆が慣れてきたようです。
「共に生きる」ことをテーマにした本合宿の具体的な目標のひとつに、「共食の大切さ・楽しさを知る」という目標があります。合宿に参加した生徒たちは、2日の共同生活で、他の人と身体の感覚を同調させる(シンクロさせる)ことができるようになりました。本人たちは、まだ自覚していませんが、日常、めいめいの食の好みを持っている生徒たちが、たった2日間生活をともにするだけで、同じようなタイミングで食事を終えたり、同じものを食べながら同じ話題で笑いあったりできるようになっているのです。このような他者との同調(シンクロ)の感覚を持つことは、私たち人間にとり生きていく上で重要なことであり、そのような感覚を持つことが快いと感じるように私たちの身体はプログラムされています。
学習においても、この同調(シンクロ)の感覚を持っている人は、持っていない人に対して、大きなアドバンテージを得ることになります。学ぶということは、すべからく「他と自己との関係について、よく理解する」ということです。他と自己の身体感覚を同調(シンクロ)させることのできる人間が、「他と自己との関係について、よく理解する」ようになるのは必然です。
内田樹先生は御自身のブログでこのようにおっしゃっています。
人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。
(共食は)共同体を立ち上げる基本の儀礼である。
それは原理的には「分割不可能なものを分かち合う」という仕方で行われる。
本合宿では、「同じ瓶に入った水」や「同じ米櫃に入った御飯」を分かち合うという仕方で、共食という儀礼が進行します。まさに「同じ釜の飯を食う」仲間になるということを子どもたちは体感しています。
共食のような儀礼を通して、子どもたちは他と身体の周波数を同期させることを行います。そして、内田先生が言うように、
共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」
なのです。現代という例外的な時代を除いて、私たち人間にとってほとんどすべての時代は、他者と共同して生活しなければ生物として生き延びることができないような過酷な時代でした。そのような時代を生き延びる上で発達したのが、私たち人間の脳であり、その脳が司る「思考・感情」や「技術を用いるという身体運用」であるのです。
そして、そのような「思考・感情」や「技術を用いるという身体運用」を身につける過程が「学び」です。「学び」という言葉の語源は「まねび(真似をする)」です。大和詞(やまとことば)で「学ぶ」というのは、学び手である子どもが、伝え手である大人の振舞いを真似する、ということです。英語では"be taught"(教わる)というのが「学ぶ」にあたっていて、それは、大人に「わからないことや隠れていることを指し示して見せる」("teach")ということを「してもらっている(されている)」という受動態で言い表されています。ちなみに、教わった結果「できるようになる・わかるようになる」というのが"learn"で、そのような過程に「情熱を持ってのぞむ」というのが"study"です。このように、日本語の語源を考えても、英語の語源を考えても、「学ぶ」ということは、生きるために必要な思考・感情や技術の運用法を、子どもが大人から受け継ぐということであるのがわかります。繰り返しますが、子どもにとってその学びに最も有効な手段の一つが、大人という他者と身体運動の周波数を同期させることなのです。
このような理屈をいちいち説明してみせるまでもなく、合宿に参加した生徒たちは、自分たちの身体でその要点を理解しはじめています。本合宿も残り半分です。子どもたちが、しっかりと成長するさまを見届けることができるのは、私たちにとっても幸せです。
2013年8月23日
2013夏期合宿2日目
こんにちは、穎才学院教務です。合宿2日目になりました。参加者は全員、元気に学習しています。
例年の合宿よりも、生徒たちは宿の人やルームメイトにしっかりと挨拶が出来ていて、素晴らしいことだと感じております。
さて、本日の内田樹先生のツイッターから、記事を引用いたします。海外との関係を租税回避のために利用する富裕層について、内田先生は以下のように論じています。
本人は賢くふるまっているつもりでしょうが、そういうライフスタイルのリスクを彼らは過小評価していると思います。「同胞」のためにはなにもしないと宣言する人は同胞からの支援も扶助も「要らない」と宣言しているのに等しい。
自分は病気になることも、破産することも、テロに遭うこともないと信じている。リスクは個人がコントロールできること、おおかた金で方がつくものだと思っている。隣人を支え、隣人に支えられ、支えられ、共同体が力を合わせないと生き延びられない危機的状況を想定していない。
危機が来たら、そのときはまた「逃げればい」と思っている。でも、ほんとうの危機的状況というのは「逃げる手段を金では買えない」というかたちで到来するものです。
他者のために生きることが自己の幸福を増大させる、という真理を深く理解し、実践している人が私たちの身の回りにはおられます。
そのような人の声に耳を傾ける機会を持ち、大切なことに気づくことができるような、「知らないことがあることに気づける」ひとに、子どもたちが成熟することを私たちは望んでいます。
合宿のテーマは「他者との共生」です。本日も頑張ってまいります。
2013年8月22日
2013年夏期合宿に出発いたします。
おはようございます。穎才学院教務です。本日8月22日より25日まで夏期合宿を長野県志賀高原にて開講いたします。塾生・講師・教務が「家族」となって生活する3泊4日です。生徒たちにとって、「共に生きる」ことの大切さを学ぶ合宿となるよう企画いたしました。学ぶことは、自分のことだけを考え自分のために生きるための手段ではなく、他の人のことを考えて他の人と共に生きるためのプロセスであるということを実感する4日間になることでしょう。
最後になりましたが、本合宿にお子様を送り出してくださったご家庭のみなさまに、あらためて感謝申し上げます。25日の夕刻、元気な姿で板橋に戻ってまいります。お土産話と少し逞しくなったお子様の姿を楽しみにしていらしてくださいませ。
2013年8月21日
AKB48『恋するフォーチュンクッキー』
こんにちは、穎才学院教務です。本日、首都圏では夕方から豪雨に見舞われました。みなさま、おかわりありませんか。
さて、本日はAKB48の『恋するフォーチュンクッキー』を紹介いたします。AKB48の商業戦略の基本は、ジェイ・エイブラハムが『ハイパワー・マーケティング』(金森重樹監訳、インデックス・コミュニケーションズ)で述べたような、「卓越の戦略」によっています。
ここで「卓越の戦略」というのは、顧客(カスタマー)やクライアントの「満足」や「幸せ」を目的として、売り手がサービスや商品を提供する、という商業戦略です。
また、売り手の「独自の売り」を発見することも、戦略上重要です。ジェイ・エイブラハムは売り手の持つ「独自の売り」をUSP(ユニーク・セーリング・プロポジション)とよびました。USPは、売り手のビジネスを、周囲のひとなみなライバルのビジネスとはっきりと差別化し、売り手に大きな利益をもたらします。『ハイパワー・マーケティング』では、このようなUSPについて、
1.広い選択肢をもつこと。
2.大幅なディスカントが可能なこと。
3.的確なアドバイスやサポートが提供されること。
4.高い利便性(店舗などのロケーションが良い、在庫が豊富である、配達が迅速であるなど)を持つこと。
5.商品やサービスが最高級であること。
6.サービスがスピーディーであること。
7.特別な各種サービスがあること。
8.長期的な保証、または広範囲にわたる保証があること。
9.ライバルには提供できない特別な点、有形・無形の利益、価値ある特典があること。
と、説明しています。AKB48では、たくさんの女性メンバーを採用して顧客やクライアントに対して「広い選択肢」を提供し、顧客やクライアントにとって利便性の高い場所に「劇場」を設け、インターネットを通してスピーディーに商品の購入が可能なサービスシステムを構築しています。「特別な各種サービス」としては、握手会などを実施してアイドルとファンとの間の「親密さ」を演出し、「ライバルには提供できない特別な価値」として、ここ数年は「総選挙」や「じゃんけん大会」と称した、プロモーターの意図を排除したオーディションを企画し、その企画自体をサービスとして顧客やクライアントに提供しています。
一連の商業戦略から、プロデューサーの秋元康氏が採用している基本戦略は、「個性の承認」という幸福感を顧客やクライアントに与えることである、と読み取れます。プロデューサあるいはプロモーターとしての秋元康氏は、商品やサービスを提供することが、顧客やクライアントの幸福感や満足感を高めることである、ということを熟知していて、そのような顧客やクライアントとの関係を売り手が継続して深めていくことが大切である、と考えているのでしょう。そして、そのような顧客やクライアントと長期的な関係を持続することができる売り手には、ブレークスルー(現状打破)を行うことと豊富な選択肢の提供することとが必要で、そのためには、特定の個人が長期間に渡って商品やサービスに関する全てを事象を統括するよりも、多くの人の手が商品やサービスに加わる方が良いとも考えているようです。
本作では、『AKB48 32ndシングル選抜総選挙』で1位となった指原莉乃さんをセンターポジションとして、80年代のディスコチューンのような、耳馴染みのあるストリングスアレアレンジやコード進行のミュージックに合わせて、AKB48からの選抜メンバーや大勢のエキストラが、ホークスタウン(福岡県福岡市)の通りで思い思いに楽しく踊る、というプロモーションビデオが作製されています。アイドルとしての指原莉乃さんのUSPは、「アイドルっぽくないこと」です。それは、彼女のヘアメイクや話し方などにきちんとあらわれています。それが彼女のありさまをチャーミングなものにしていますし、そのような「アイドルっぽくない」という自己の特徴が、商業上のアドバンテージになることをしっかりと理解しているしたたかさまでふくめて、指原莉乃という人間の魅力なのだと思います。
そんな指原莉乃さんが、プロモーションビデオの冒頭からセンターポジションで楽しそうに踊る本作は、それを見る顧客やクライアントに「あなたもきっと大丈夫、私も大丈夫なんだから!」というハートフルなメッセージを届ける作品として、作りこまれています。福岡ドームをバックにホークスタウンでAKB48の選抜メンバーやエキストラの人びとが楽しげに踊る、というプロモーションビデオの様子は、阿波踊りやサンバカーニバルのようにも見えるものです。そもそも、祭りにおける踊りやお囃子の効能は、フラストレーションの発散と、他者への予祝(前もって祝うこと)であったと言われています。自分自身の不満を発散して楽しく歌い踊りながら、他者の幸せを予祝することは、私たち人間にとり、基礎的な行為なのです。
巫女的な卓越性を持つ大島優子さん(パワフルな踊り巫女)や前田敦子さん(霊力の高い巫女)と違って、指原さんのUSPは、「アイドルっぽくない」という一般性にありますから、そのような庶民的な彼女を中心として起用し、庶民が楽しむ祭りの踊りやお囃子のような楽曲を構成するというのは、非常に理にかなった考え方だと言えるでしょう。
日本の歌謡曲は、辛いことも楽しいこともひっくるめて、ひとびとの生活を肯定し、明日のよき生活を願う、という構造を持っています。明日は今日よりも良い日になりますように。地味で普通な私にも、周りのみんなにも、あっと驚く奇跡が起こるといいなあ。そんな願いを込めて、人々はうたを歌うのです。
2013年8月13日
内田樹『修行論』(光文社新書)
みなさん、こんにちは。穎才学院教務です。お休みの方も、そうでない方も、ごきげんいかがでしょうか。
さて、本日は内田樹先生の『修行論』を紹介します。内田先生は、ご自身のブログで次のように御本の紹介をされています。
「修業」って、現代日本ではもう死語ですね。
でも、「修業」というのはそれを始めたときには自分がどこに向かっているかわからないのだけれど、気づいてみると「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりついているプロセスなんです。
「わざ」とは何か、「ブレークスルー」とは何かを考えている人たちにぜひ読んで欲しいです。
この紹介にあるとおり、「それを始めたときには自分がどこに向かっているかわからないのだけれど、気づいてみると「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりついている」という経験が青少年の成長には、すべからく欠かせません。
「それを始めたときには自分がどこに向かっているかわからないのだけれど、気づいてみると「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりついている」という経験について、よくわからないと言う方がおられるかもしれませんが、お好きな「少年漫画」のことを思い出しながら『修行論』をお読みになるといいかもしれません。
ここで「少年漫画」というのは、作中で主要な登場人物(たち)が、「それを始めたときには自分がどこに向かっているかわからないのだけれど、気づいてみると「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりついている」という経験をするという構造を持つ漫画のことを指しています。
そのような漫画のうち、30代の男性にとって一般的な作品は、鳥山明『ドラゴンボール』(集英社)、井上雄彦『スラムダンク』(集英社)、和月伸宏『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』などでしょう。『ドラゴンボール』では、孫悟空をはじめとする登場人物が修行を経て成長する、というエピソードが物語られます。『スラムダンク』の読者にとって、主人公の桜木花道が「シュート2万本」の練習をするというストーリーは忘れられません。2014年度に映画版が上映予定の『るろに剣心』でも、主人公の緋村剣心は師匠である比古清十郎のもとで修行に励み、奥義を会得します。これらの作品は1980年代後半から90年代前半の『週刊少年ジャンプ』を彩った連載作品ですが、80年代前半以前の漫画を見ても、同様の構造を持った「少年漫画」は枚挙に暇がありません。
また、同様の漫画のうち、1980年代生まれの女性にとって一般的な作品は、『ホイッスル』『のだめカンタービレ』です。『のだめカンタービレ』は、女性向け漫画雑誌に連載された作品ですが、ここでは前述した「少年漫画」に分類されます。ヒロインの「のだめ(野田恵)」のこの漫画での魅力は、個性的なキャラクターを発揮するところだけではなく、彼女が普通の女子音大生からプロのピアニストへと成長をみせる過程で見せる輝きにある、と言えるでしょう。
また、このような漫画のうち、10代から20代前半の方にとって一般的な作品としてひとつあげられるのは、『HUNTER×HUNTER』でしょうか。主人公の「ゴン」が、父親(「ジン」)の面影を追いかけて故郷を飛び出し、「キルア」をはじめとする個性豊かな仲間や「ハンター」とよばれるプロフェッショナルたちと関わりながら成長するというのが本作の筋立てです。この作品の「グリード・アイランド編」は全編が、この「それを始めたときには自分がどこに向かっているかわからないのだけれど、気づいてみると「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりついている」という経験について物語った章段ですし、それに続く「キメラアント」編の冒頭で「ゴン」と「キルア」が「ビスケ」とともに修行するところも、同様の構造となっています。
10代から20代前半の方にとって、いま最もポピュラーな漫画作品といえば『ワンピース』だと思いますが、『ワンピース』はこれまで挙げた漫画作品と同様の構造をもっているのかというと、私は『ワンピース』をほとんど読んでいないので、詳しいことは申し上げられません。しかし、物語世界の地理構造(「レッドライン」や「ブルーライン」といったもの)をめぐり、登場人物たちが冒険しながら、「来るつもりのなかった(でも、来るべきだった)ところ」にたどりき、成長するという意味では、まさに『修行論』で論じられる修行という構造を組み込んだ物語となっているように思います。読者のみなさまいかがですか?
本書では、修行という構造について、まず中島敦の『名人伝』という物語を手掛かりに、「最強」とはどののようなあり方なのか、「弱さ」と「強さ」とはどのように関わるのか、といった問題の検討を通して、丁寧に理解を深めます。
内田先生によれば、子どもは「大人である」ということがどういうことかを知らないから子どもなのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人であるのです。成熟した後にしか、自分がたどってきた行程がどんな意味をもつものなのかがわからない。それが成熟というダイナミックなモジュールなのです。
このような成熟の過程で、成熟する青少年に必要なのは「成熟する資質の有無を見抜く師」と「弟子が学びたいことについて何も教えない師」という、2人の師匠です。
中島敦の『名人伝』で、弟子である「紀昌」にとっては、「飛衛」と「甘蠅(かんよう)」がそれにあたります。「飛衛」は「紀昌」の資質を見抜いて「甘蠅(かんよう)」のところに「紀昌」を導き、「甘蠅(かんよう)」は弓も矢も使わぬ「不射之射」の至芸を以て「紀昌」の度肝を抜きます。結果、「紀昌」は9年間の修行を経て名人となるのです。
『のだめカンタービレ』では、弟子「のだめ」にとって「江藤先生」と「谷岡先生」が「成熟する資質の有無を見抜く師」で、「オクレール先生」が「弟子が学びたいことについて何も教えない師」でしょう。「オクレール先生」は「のだめ」が演奏したいようなピアノの弾き方については、彼女に何も教えません。結果、彼女は自己のシステムを変容させることが必要であることを悟り、プロのピアニストとして目覚めていきます。
子どもたちの成長には、「成熟する資質の有無を見抜く師」も「弟子が学びたいことについて何も教えない師」も、ともに必要です。子どもを自分のもとに独占せず、別の師のもとへ導く先生や、子どもに知っていることを教えるのではなく、子どもに(自分も)知らないことを教える先生が大切です。
ベルギーの首都がどこであるとか、カナダの首都がどこであるとかといったことを子どもに問い、そのような辞書で調べればわかる知識ばかりを伝えるのが先生の仕事ではありません。むしろ、そんなことは先生が長い時間をかけて子どもに伝える必要のあることではありません。そのような情報をたくさん暗記したり理解したりすることが大切であることを長い時間かけて力説して子どもたちの心を動かす、といったことも先生の本来の仕事ではありません。
子どもは、すべからく成熟しなければなりません。そのような信念をもって、自分を子どもの成長の手段として、子どもを修行という旅程へと導くことを生業とする先生が大切だ、としみじみかんじます。
教養とは、リベラルアーツと称されるような大学で誰もが身に着けるべき基礎教養的科目についての知識の深さばかりを言うのではありません。未知のものに対して自らの身体を傾け、継続的にそのような状態に身を置き続けることにより、「そんなことができると思っていなかったことができるようになる」という形で成長を経験することができる、そのような姿勢を持つ大人のことを、教養人と言うことができるのではないでしょうか。
ぼくは、ベルギーの首都がどこであるとか、カナダの首都がどこであるとかといったことは、別に知らなくてもいいと思います。知らないと気付いたときに、ちゃんと辞書で調べる心構えさえ身に付けていれば。
それよりも、今の子どもたちにとって必要なのは内田先生が本書で論じたような「ブレークスルー」の体験です。最後に改めて内田先生の御本の紹介を引用いたします。
「わざ」とは何か、「ブレークスルー」とは何かを考えている人たちに(本書『修行論』を)ぜひ読んで欲しいです。
ご自身やお子様の「成長」について、何かお悩みのある方はぜひ本書を手にとられますよう。
2013年8月10日
『サマーウォーズ』(細田守監督作品、2009年日本)
こんにちは、穎才学院教務です。猛暑日が続いています。みなさま、お体にお変わりありませんか。水分だけでなく、適度に塩分も摂取して、熱射病対策を怠らないようにしましょう。
さて、本日8月10日から夏休みという方は多いようで、東京駅は朝から混雑していました。いつもの東京駅と違って、コンコースではキャリーバックや子どもの手を引いたお父さんやお母さんが、駅弁や飲み物を買い込む姿が多く見られました。新幹線を利用して帰省したり旅行に出かけたりする方で、新幹線用改札の前は混雑していましたし、グランスタやグランスタダイニングといったエキナカ施設もたくさんのお客さんで賑やかでした。「銀の鈴」の周辺も待ち合わせをする人々で溢れていました。
細田守監督のアニメーション映画『サマーウォーズ』(2009年)では、オープニングテーマである「Overture of the Summer Wars」の冒頭のファンファーレといっしょにタイトルが立ち上がり、第一旋律の演奏に合わせて物語の舞台が東京駅構内の銀の鈴広場から長野県上田市の陣内(じんのうち)家へ移ります。
「平成22年7月31日」に人工知能「ラブマシーン」の暴走から世界を救った、陣内家の人々と主人公「小磯健二」をめぐる物語である本作は、古き良き日本の夏の風情を感じさせる秀作です。しかし、この作品の魅力は、物語のノスタルジックな雰囲気やキャラクターデザインの美しさにだけでなく、『スターウォーズ』や『ロード・オブ・ザリング』などのSFやファンタジーにも見られるような典型的な説話原型にあります。
哲学者の内田樹は「もっと矛盾と無秩序を」(内田樹・鷲田清一『大人のいない国』所収)で、「子どもが子どものままであること」は「共同体にとっての災厄を意味する」と論じました。ここで子どもとは、葛藤を知らず、真偽の判定も価値の査定も自分で行うことができると信じているような人のことです。このような子どもは、ある意味、無敵です。子どもは、どのようなものごとに対しても、自らが主体となって、意味づけ、価値判断し、取捨選択することができます。一般的に、子どもの教育とは、このような子どものイノセンス(無垢)を大人が大切に守ってやって、自己実現を果たすことができるよう助けることであるとされていますが、実際には世界を意味づけ、価値判断し、取捨選択する主体は自分ではない、ということを身をもって子どもに理解させるものであるのです。このようなイノセンスの喪失の旅程は、子どもたちにとって困難と葛藤が伴うものです。そして多くの民話やファンタジーは、子どもたちがそのような困難と葛藤を伴う冒険を経て大人になる、という過程を物語として繰り返し物語ってきました。
『韓非子』という中国の書物に、「矛盾」という話があります。楚の国の人が、盾と矛とを売っていて、盾はとても固くて貫くことができるものはなく、矛はとても鋭くて貫けないものは無い、と言っていたのです。そこに別の人が問いかけて、ではその矛を盾で貫けばどうなるのか、と聞いたところ、盾と矛とを売る人は答えることができなかった、と言うのがこの話です。内田先生は、この話について次のように述べています。
答えを留保したときに、その楚の男はどんな表情をしていたのかを、想像するのである。子どもの頃、私はその楚人は恥じ入って顔を赤らめたのではないかと思っていた。でも、今は違う。その男はおそらく「にやり」と笑ったのではないかと思う。そして、彼はこう言うのだ。
「どうなると思う?」
現代に伝わる『韓非子』では、話の終わりは「其人弗能応也(其の人応ふる能はざるなり)。」となっていて、楚人は質問に応えることができなかった、と書かれています。ですから、内田先生言う、「彼はこう言うのだ」以下の話は、『韓非子』本文には書かれなかった話、いわば番外編です。
内田先生は、ここでレヴィ=ストロースの『構造人類学』での議論を援用して、子どもには異なる2人の大人から矛盾するメッセージが示される、ということを確認します。子どもは同性の2人の年長者からそれぞれ別の生き方のモデルを提示されることを通じて成熟する、というのです。
大人から送信される「矛盾するメッセージ」を通して、あるメッセージを受信したときに、子どもは子どもでなくなります。そのメッセージとは次のようなものです。
あなたがこのメッセージを理解できないのは、メッセージの容積があなたの採用する「理解のシステム」の容量を超えているからである。あなたがあなたのままではこのメッセージは理解できない。あなたは今のあなた以上のものにならなければならない。
このようなメッセージを受信したときに、子どもはそれまで採用していた「理解のシステム」を放棄し、成熟への旅程を歩き始めます。
たくさんの民話とファンタジーは、レヴィ=ストロースが指摘するように、子どもにとって威圧的な存在と、子どもにとって融和的な存在とをめぐり、子どもが成長する過程を描きます。
『スターウォーズ』シリーズでは、ルーク・スカイウォーカーが子どもで、彼にとって威圧的な存在がダース・ベーダ―であり、融和的な存在がオビ=ワン・ケノービです。
また、子どもの成長を描く多くの民話とファンタジーでは、子どもであることをやめた子どもが、悪魔的に強大な力に対抗する、という物語が描かれます。『スターウォーズ』や『ロード・オブ・ザリング』も、「子どもであることをやめた子ども」が「最終兵器(デス・スターや指輪)」を破壊するというプロットを持っています。子どものままであり続ける人間は、世界に災厄ももたらしますが、子どもであることをやめた人間は、世界にとってヒロイック(英雄的)な存在なのです。
『サマー・ウォーズ』には4人の「子ども」が登場します。1人目は主人公の「小磯健二」、2人目はヒロインの「篠原夏希」、3人目は「キングカズマ」こと「池沢佳主馬」、4人目は「ラブマシーン」の生みの親、「陣内侘助」です。4人は、はじめ、葛藤を知らず、真偽の判定も価値の査定も自分で行うことができると信じているような子どもでしたが、物語を通して、それぞれに矛盾したメッセージに直面し、子どもであることをやめて大人への一歩を踏み出します。
『サマー・ウォーズ』の「子ども」たちが直面するメッセージというのは、「おまえは好き勝手なことをして他人に迷惑をかけてはいけない」というメッセージと「おまえならできる、どんどんやりなさい」というメッセージです。優れた数学の能力がある健二、家族思いの夏希、武術とゲームの才能がある佳主馬、高い知能の持ち主である侘助、4人に足りなかったのは、自己の能力を他者のために活かすという姿勢です。
矛盾したメッセージに直面し、子どもであることをやめた4人は、強大な力を持つ最終兵器「ラブマシーン」に対抗し、ラブマシーンを破壊して世界の人びとと家族とを守ることに成功します。健二は極限の状態で難解なパスワードをひたすら解き続け、夏希は家族(そして世界の人びと)を守るために強い心をもって花札勝負に挑みます。佳主馬は武術とゲームの才能を活かしてラブマシーンを破壊し、侘助は遠隔操作でプログラミングをディスコード(解除)して佳主馬の戦闘をサポートしました。
そして、4人の「子ども」たちに、その都度メッセージを届ける役割を担ったのが、「栄おばあちゃん」こと「陣内栄」です。彼女は、時には厳しく、時には優しく、時には薙刀をとって、時には子どもの手を握りしめて、子どもたちに大切なメッセージを届けました。彼女が亡くなってからも、そのメッセージは彼らの心のなかに残り続けます。そして、見落とされがちなのですが、彼女のメッセージが子どもたちにとって生きたものとなるためには、彼女のメッセージと矛盾するメッセージが必要だったということです。そののようなメッセージを伝える役割は、陣内家の大勢の人びとによって担われていました。健二を追放したり、夏希を叱責したり、佳主馬の邪魔をしたり、侘助を否定したりするのは、彼らの役目です。家族の意見は一枚岩でないほうが、子どもの成長には適している、というのは内田樹先生の意見です。陣内家は、なかなか一枚岩にならない、さまざまな種類の人間が集まった家族です。家族というのは、そのような多様なゴチャゴチャとしたものであることが、子どもの成長にとり望ましいのでしょう。まさに「矛盾と無秩序」。この言葉は陣内家の人びとにぴったりだと思います。
夏休みに親戚や家族が集まるという経験をされる方は、少なくないと思います。そこにあらわれる混沌とした喧噪が、子どもたちにとっての成長の場であり、大人たちにとってのふるさとであるのでしょう。
みなさまが良い夏休みをお過ごしになりますよう、お祈りいたします。
2013年8月 8日
ASIAN KUNG-FU GENERATION『ランドマーク』
みなさん、こんにちは。穎才学院教務です。本当に暑い日が続きます。外を歩くだけで体力と水分を消耗してしまいますが、みなさまくれぐれも体調にお気を付け下さい。こまめな水分を補給をなさるだけでも、だいぶ違うかと思います。夜間や室内でも、水分補給を忘れないようにしましょう。
水分補給をしたり適度な休養を取る以外に、暑い日の過ごし方は人それぞれです。お部屋にアロマを効かせる方、ノンカフェインのお茶を飲む方、朝方のうちに室内プールで汗を流す方、みなさまそれぞれにみなさまの身体にあった酷暑の過ごし方があることでしょう。私には、酷暑の日に決まって聞きたくなる音楽アルバムがあります。今年の場合は、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ランドマーク』(2012年)です。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの7枚目のアルバムである『ランドマーク』は全体を通してゆるやかに聴取することのできる、音楽的につながりをもったアルバム作品になっています。このアルバムが1枚あれば、カフェや雑貨店のBGMにはとりあえず困らないのではないかと思うような、耳障りでないやわらかく上質なロックサウンドです。
セレクトショップやカフェなどでBGMとして使うことのできるCDというのは、実は限られています。ショッピングや食事中の会話を邪魔せずに、且つショップの快適な空間演出に役立つCDというのは意外に多くありません。そのような作品の第一条件は音楽が耳障りでないことです。ここで耳障りでない音楽というのは、音質とハーモニーが美しい作品のことを言います。上質な映画のサウンドドラックのように、かかっているかかかっていないのかわからいくらいの存在感で、でも確実に演奏される空間の美しさに関わるような音楽作品でなければなりません。ここ数年、首都圏のショップでよく耳にするCDには、DJ KAWASAKIの『Beautiful』(2006年)という作品があります。気が付くと一日に2軒のショップで耳にするというくらい、BGMとしてよく使用されているCDです。実際に、友達を招いて楽しくホームパーティーをするときなんかは、このCDをかけておけば間違いない、というくらいクオリティーの高い作品だと思います。
ただ、DJ KAWASAKIの『Beautiful』はハウスミュージックやテクノサウンドを主体としたアルバムです。Introは美しいピアノカデンツァですが、全体的には電子サウンドで、いわゆるディスコやクラブなどでのDJのプレイングをイメージした作品となっています。このようなスタイルの音楽は、そもそもが演奏される空間の雰囲気を演出するために作られたものですから、ショップのBGMとして適当なのも当然です。
しかし、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのような、ロックバンドの音楽作品は基本的にはライブハウスでそのサウンドを聞かせることを目的に作られた音楽です。ですから、ロックバンドのアルバムはサウンドが粒だっていて良くも悪くも主張が強く、カフェや雑貨店のBGMには不向きなのが普通です。
1990年代にこのロックサウンドの常識を覆す作品がリリースされました。それがイギリスのロックバンド、Oasisの3枚目のアルバム『Be Here Now』(1997年)です。ロックアルバムとしては、評価がわかれることもある本作ですが、日本ではショップBGM用のCDとして約15年間にわたって使用されています。『Be Here Now』は、Oasisの前作『 (What's the Story) Morning Glory?』(1995年)よりも音が分厚く重ねられたサウンドが特徴です。ロックアルバムとしての評価は、『 (What's the Story) Morning Glory?』の方が圧倒的ですが、このアルバムはショップのBGMには向きません。日本の酷暑の日にも似つかわしいものではありません。
日本の酷暑を快適に過ごすのによいBGMとなるアルバム作品としては、Oasisのアルバム『Be Here Now』以外に、Nirvana(ニルヴァーナ)の『Nevermind』(1991年)やDream Theater(ドリームシアター)の『Falling Into Infinity』(1997年)などがあります。これらのアルバムの共通点は、音楽が耳障りでない、ということに加えて、ドラムスが非常に上手いということです。辛い暑さを上手く乗り切るためには、簡単なトランス状態に入ることがひとつの手段です。高温多湿の気候である我が国で、身体を激しく動かす踊りが特徴的な夏祭りが全国に見られるのも、これと同じ考え方によるものです。夏祭りで奏でられるお囃子も、一定のリズムを繰り返すことで人々を簡単なトランス状態に導きます。我が国で発達したお囃子は、パーカッション(打楽器)をリズムのストレス(強勢)をあらわすためだけでなく、音程・音階を表現するためにも使用します。必然的にパーカッションが笛やボーカルのサウンドと一体となってメロディーフレーズを表現するので、一体感のあるサウンドが作られます。先にあげたアルバムのドラムスは、他のパートにしっかりと溶け込み音楽を構成するか、ギターと同じように的確に音楽をリードしてみせるかするのです。ただ、ドラムセットをボカスカと叩いているだけでは、このような音楽的なドラムプレイは不可能です。しっかりとサウンドを理解した優秀なドラムスを擁するバンドだからこそ可能な音楽だと思います。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONのドラムス、伊地知潔さんのドラムプレイが秀逸なのは、バンドのアルバム作品を聴いていただくこと以外に、改めて他言を要しません。彼のプレイの素晴らしさは、楽曲に溶け込んだドラムプレイができるというところで、その技巧の高さもさることながら、音楽性を理解したスティック捌きは現在のJ-POP界の白眉です。
後藤正文さんのリードボーカルも、作品のリリースを重ねる度にしっかりと変化していいて、『ランドマーク』では、「遥か彼方」(『崩壊アンプリファー』2002年、収録)の歌い回しとは異なる表現を聴かせてくれます。私は『ランドマーク』の後藤サウンドの方が好きです。
リードボーカルが日本語のロックサウンドで、やわらかく上質な音楽を展開することのできるバンドは、そう多くはありません。ASIAN KUNG-FU GENERATIONは2013年現在そのような音楽を私たちに提供してくれる貴重なバンドの一つで、『ランドマーク』は日本の夏にぴったりな音楽の詰まったアルバムです。
The Beatlesの薫陶を受け、OasisらUKロックのサウンドを継承して、それに奥田民生(ユニコーン)の音楽性と日本の盆踊りのお囃子の風情をミックスしたのが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのサウンドである、というのが今日の私の考えなのですが、みなさまいかがでしょうか。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの他のアルバムでは、夏にぴったりなものとして、『サーフブンガクカマクラ』(2008年)をおすすめします。ほんとうは、初夏のころにぴったりなアルバムだと思うのですが、このアルバムが真夏から夏の終わりにかけても似合わないわけではありません。「七里ヶ浜スカイウォーク」を聴きながら、七里ヶ浜で冷たいコーヒーを飲むのは、とても幸せなことだと思います。