2013年7月31日
「FL」について
こんばんは、穎才学院事務の田辺真美です。天気がさえない日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今日は、「FL」について紹介します。
教室の壁に貼りだされているスケジュールには、「FL」の授業が組まれていることがあります。
「FL」とは、”フリー・レッスン”の略で、
その名の通り誰でも自由に先生に質問をすることができます。
苦手でわからないという所があれば、是非積極的に「FL」の時間を利用しましょう。
2013年7月29日
夏期講習がスタートしました。
こんばんは、穎才学院事務の田辺真美です。夏期講習が7月24日(水)からスタートしました。
個別授業はもちろんのこと、高校三年生に向けた集団授業も充実したもので、
教室は大変にぎわっております。
2013年夏期講習のテーマは「この夏、集中の時!」です。
夏休みは時間がたっぷりあります。
この夏の目標をしっかりとたて、「集中」して有意義な時間を過ごしましょう。
まだまだ夏期講習ははじまったばかりです。
是非、8月31日に後悔しないひと夏を送って下さい。
2013年7月18日
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)
みなさん、こんにちは。穎才学院教務です。じりじりと日差しの強い日になりました。みなさま、お元気でしょうか。
さて、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳、中央公論新社)と原書”The Great Gatsby”を読みました。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は、非常に魅力的でイノセントな弱さを抱えた青年「ジェイ・ギャツビー」の生きざまを「ギャツビー」の家の隣に住む「僕(ニック・キャラウェイ)」が物語る、というアメリカで最もポピュラーな青年小説の一つです。
非現実なくらいに魅力的な青年「ジェイ・ギャツビー」は、彼の抱えるある種の「弱さ」ゆえに、坂を転げ落ちるように破滅します。この「宿命的に滅びてゆく、弱く魅力的な青年」は語り手「僕」の「アルターエゴ(別人格)」である、と言われます。
文芸評論家の内田樹は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』がレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の東洋的リメイクであり、『ロング・グッドバイ』は『グレート・ギャツビー』のリメイクである、ということを指摘しています。さらに、『グレート・ギャツビー』にも先行作品があって、それはフランスのアラン・フルニエが書いた『ル・グラン・モーヌ』です。
実際に『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』を読むと、『ロング・グッドバイ』での「アイリーン」と「テリー・レノックス」との関係が、『グレート・ギャツビー』での「デイジー」と「ギャツビー」との関係とよく似ていることに気付きます。「レノックス」が「アイリーン」の犯した「殺人」の罪を着て「死ぬ」ことで空虚な恋に結末をつけるという物語の構造は、「ギャツビー」がアモラルな「デイジー」との退廃的な関係に自らの「死」を以て決着をつけるという物語構造とそっくりです。
内田先生は、青年の精神的な成熟について、「成熟というのはおのれの未成熟を愛し、受け容れ、それを自分の中に抱え込んだまま老いていけるような人格的多面性のことなのだ」と語ります。『グレート・ギャツビー』をはじめ、同系の青春小説のなかには、このような青年の精神的な成熟についての根源的なメッセージが込められている、と言うのです。
「おのれの未成熟を愛し、受け容れ、それを自分の中に抱え込んだまま老いていける」というあり方が、人間的成熟であるということは、多くの文学で繰り返し物語られています。アーシュラ・K.ル=グウィンの『影との戦い』(「ゲド戦記」)で、「ゲド(ハイタカ)」が「二つの声は一つだった」と気付いたことも、吉本ばななの「キッチン」で「私」が「雄一」や「えり子さん」との生活の中で気付くことも、これと同じことです。
「おのれの未成熟を忌み嫌い、退け、自分から切り離そうとする」ようなあり方を選びとるのは、決して賢明な選択ではありません。そのようにして、自分の「影」の部分を忌み嫌い切り離そうとしても、本来それは自分の「光」の部分と一身のようなものなのです(「二つの声は一つであった」のです)から、必ず自分のもとに帰ってきます。おのれの未成熟をめぐって「罪悪感や後悔は乗り越えた!次に進むぜ!」と言って、新しい強い自分へと成長する自己を標榜しても、乗り越えたはずの「弱さ」は必ずその人のところに戻ってきます。これは、太古から繰り返し物語られる神話的構造であり、人類学的真理です。
では、どのようにして私たちは、おのれの未成熟を愛し、受け容れるのでしょうか。内田先生によれば、「自分の(半身としての)弱さ」を同じように身にまとった青年と出会い、その人を失うということを経験して、その「死んだ青年(=自分の弱さ)」の思い出を自分の身体の中に刻み込んで生きていくことを選びとったときに、私たちは成熟への旅程を前に進んでいくのです。
『ワンピース』(集英社)という漫画で主人公の「ルフィー」は、「シャンクス」という青年が自分のために片腕を失くすという出来事を経験して、「シャンクス」との別れ際に、海賊になって「シャンクス」を越えると決意します。このエピソードを青年小説の構造を援用してテクスト分析すると、「シャンクス」は「ルフィー」のイノセントな弱さの象徴で、「シャンクス」との別れは、「ルフィー」にとって、シャンクスの疑似的な「死」です。『グレート・ギャツビー』の「ギャツビー」は「シャンクス」にあたり、語り手「僕」は「ルフィー」にあたるのです。『グレート・ギャツビー』と『ワンピース』との大きな違いは、『グレート・ギャツビー』が青年の死で物語を結ぶのに対して、『ワンピース』が青年の疑似的な死で冒険の幕が上げられるという点でが、成長の物語(ビルドゥングス・ストーリー)としては同様の構造を含んでいる、と言えるでしょう。ちなみに、私は『ワンピース』を5巻までしか読んでいないのですが、私の推論が正しければ、「シャンクス」は生きていても「ルフィー」には直接的に会っていないはずです。もし、会ってしまったら「ルフィー」の成長が停止しかねませんし、それは冒険物語の終焉を意味しますから。ご愛読の方、いかがですか?
「死んだ青年(=自分の弱さ)」の思い出を自分の身体の中に刻み込んで生きていく、という選択が成熟の条件であることを、レイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』で、村上春樹は『羊をめぐる冒険』で物語りました。『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』がアメリカで最もポピュラーな青年小説であることと、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(英題“A Wild Sheep Chase”)がアメリカで人気を博していることとは決して無関係ではありません。
また、”The Great Gatsby”の英語は、精密に織り込まれた唐綾模様のように、繊細で美しい響きを持っています。村上春樹は”The Great Gatsby”におけるフィッツジェラルドの文体について、
空気の微妙な流れにあわせて色あいや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。
と言っています。また、音読するとわかるのですが、フィッツジェラルドの英語には音楽的なリズムがあります。例えば、”The Great Gatsby”の末尾は、
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
ですが、これは読んでいてとても心地よい響きを持った英文です。私はフィッツジェラルドの肉声を聞いたことがありませんが、おそらく彼は、腕のよい楽器職人が心を込めて作ったチェロが奏でる音のような、豊かな響きをもった声をしていたのではないでしょうか。
村上春樹が、「独特のアロマやまろみや舌触り」の「デリケートなワイン」に喩えた、”The Great Gatsby”でのフィッツジェラルドの文章の美しさは、そのような音楽的な美質をぬきにしては語ることのできないものでしょう。
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ... And one fine morning -
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
先に引用した一文は、上のような文脈で物語られたものです。はっきり言って、大学受験レベルの英語学習を経験した人なら、ほとんど知らない英単語は無いはずです。でも、この英語を日本語にして深みを味わい、理解するのは、村上春樹の言うとおり「正直言ってかなりの読み手でないとむずかしい」でしょう。
村上春樹は、”The Great Gatsby”の翻訳作業について、「僕は要所要所で、小説家としての想像力を活用して翻訳をおこなった」と語りました。
もし僕が作者であればここの部分はどういう風に書くだろうと想像しながら、フィッツジェラルドの、時としてポイントがスリッパリーに(滑りやすく)なっていく文章を、ひとつひとつ掘り起こしていった。その確かな骨子と美しい枝葉を、できるだけ丹念に腑分けしていった。必要があればより長いレンジをとって文章を解釈するようにもした。そういう作業なしには、フィッツジェラルドの文章はその本来の力を発揮できないように思えたからだ。
このような想像力を活かした翻訳時の姿勢を、村上春樹は「文章世界の懐に思い切って飛び込んでいく」ような姿勢であると表現しています。村上春樹は『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」で”The Great Gatsby”の翻訳に「全力を尽くした」ことを繰り返し強調していますが、彼が「全力を尽くした」という言葉を使うというのはとても珍しいことです。いつもの村上春樹なら、文章表現に力みが入って言葉のリズムや表現の美しさが失われるのを避けて、別の表現を探すような気がする(「アボガド」とか「革靴」とかで喩えたりするのではないかと思う)のですが、『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」では、そのまま「全力を尽くした」という表現を選びとる、というくらいに魂を込めた翻訳作業だったのだろうと思います。
最後に、もう一度”The Great Gatsby”の終わりの部分と、村上春樹によるその翻訳を。
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ... And one fine morning -
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それは、あのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に―
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
私たちにとり、日本語を読むときにも、英語を読むときにも、人と関わるときにも、大切なのは「相手の懐に飛び込んでいく」ような姿勢と、それを可能にする「想像力」なのでしょう。英語を学習するときにも、綺麗な英語の発音や留学体験で身に付いた口語表現の運用だけでなく、読み手として他者と関わる「想像力」を大切にしていきたいものです。
2013年7月17日
スコット・フィッツジェラルド『グレ…⇒UP失敗
みなさま、こんばんは。穎才学院教務です。本日は突然の雷雨に驚かされました。みなさまは大丈夫だったでしょうか。さて、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読み、記事を書いてアップロードしたはずだったのですが、なぜだかアップロードが正しく行われなかったようです。記事が消滅してしまいました。
まあ、デジタル・デバイスにはこのような事故がつきものですから、仕方ありません。また明日、気を取り直して書いてみようと思います。
私にとって書くという行為は、「何かに操られるようにして、自分の身体を通して言葉をアウトプットする」というものです。ですから、本日私を操った何かと全く同じものが明日も私を操らない限り、本日と同じ内容の記事を明日も書くことはできません。たぶん、そのようなことにはならないでしょう。明日は本日と全く違うことを考えて、全く違うことを書くはずです。
せっかくなので、原書”The Great Gatsby”を今夜読んでみようと思います。原書を読んだら、間違いなく本日とは異なる記事を書くでしょう。だって、原書の英語の響きに私が操られることになりますから。
では、また明日。みなさま、おやすみなさいませ。
2013年7月16日
志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)
こんにちは、穎才学院教務です。蒸し暑い日が続きます。少し暑さは和らいできたようですが、みなさまいかがおすごしですか。
志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)を読みました。志水宏吉先生は、教育社会学者で大阪大学人間科学研究科教授です。志水先生と私との出会いは、志水先生がご子息と私が大学で同級生となったというご縁で、ご自宅での餅つき大会にご招待いただいたことでした。私が東京大学教育学部に進学した年に、大阪大学に転任されました。直接ご指導をいただく機会は、ほとんどなかったのですが、御本をいただいたり、いっしょにサッカーをさせていただいたり、たいへんお世話になりました。
2000年前後に勃発した「学力低下論争」をめぐってさまざまな議論がおこりました。「ゆとり教育」を標榜して学校での授業時間を減らそうとする諸派や、「確かな学力」の必要性を主張して教育内容の積み増しを断行する勢力など、さまざまな政治的な力学が働き、学校で学ぶ子どもたちや現場の教員が翻弄されました。
自分が「ゆとり世代」と呼ばれる世代に属すると信じる大学生の中には、他の世代の人と自分との差異というごくありふれた偏差を、「ゆとり世代」という特異性に由来する宿命的なものと捉える人たちがいます。数年前に東京大学の文化祭で、ある音楽部の発表会を聴きに行ったとき、東大生が自分たちを「ゆとり(=ゆとり世代の学生)」と称したり、「成績が悪い・学力が無い」ということを僭称するような名乗りをしていたのを見て、私は寒気がしました。彼らがしていたことは、大学生が身内で「俺、バカだから」と遜るような姿勢とは全く異なります。彼らがしたのは、発表会という、聴き手へ良い音楽を贈るための集まりで、音楽と関係のない自身の素性を語り始める、というような不躾な振る舞いです。さらに、東京大学の学生しか構成員になれない音楽部の発表会で、そのような名乗りを臆面もなく披露するというのは、「ゆとりの東大生です」「東大生だけど成績が悪い・学力が無い」と言っているのであって、「国立大学で世間のお金を使って学んだからには、社会に貢献しよう」という道義的義務の免除をこっそりと申し出るような卑しいあり方だ、と思います。1968年の駒場祭で橋本治の「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」というキャッチコピーが象徴した、背中に仁義を背負った東大生の姿はどこへやら。「音楽サークルでの青春を謳歌したいなら、どうぞご勝手に、でも品の無い発表会を垂れ流すはやめてね」と息巻いてしまいました。
もちろん、「ゆとり世代」と呼ばれる世代に属する若者たちの中には、大学にいっていようがいっていなかろうが関係なく、立派に学んだり、働いたりしている方たちがいます。2000年代に、文教政策の混乱から、学校で生徒や教員が翻弄されたのは事実ですが、歴史を見れば、学校が翻弄された時代は他にもたくさんありますし、翻弄されようがされまいが関係なく、まっとうに成熟していく若者たちがきちんといることは忘れてはいけません。
志水宏吉先生の『学力を育てる』では、そもそも「学力」をどう捉えるべきか、「学力」を育てるために学校や地域はどのような役割を果たすべきか、といったテーマについて社会学的アプローチを使って切り込み、子育ての共同性を回復する方法を模索します。
子どもの育ちや若者の成熟は、「共同的」な場の中で起きるものだと言われます。「共同的」でない家庭では子どもは育ちにくいし、「共同的」でない社会で暮らす若者はなかなか成熟しない。ここで「共同的」という言葉は、「世の中でみんなでまとめて面倒をみよう」と言うようなブリコロールな生活の仕方を指すものです。「おなかをすかせているなら、こっちにおいで、いっしょにごはんを食べよう」とか、「わかんないなら、仕方ないよ、できるようになるまで、うちでしっかり修行しな」とか言うような、「お節介なおばちゃん」のするようなアプローチの仕方が、子育てと教育には欠かせません。
志水先生は「学力」を「樹」に喩えました。樹は大地に根付き、お日様の光を浴びて、地に根を張って水や栄養を吸収しながら、いろいろなバクテリアや動物たちと暮らします。「学力」の高い子どもや若者、つまり人間的に豊かな子どもや若者を「樹」に喩えることもできるでしょう。彼らは、学校・大学(あるいは会社)や地域に根付き、社会に伝承された良き文化に包まれながら、周りの人の愛情や叱責を受けながら、いろいろな生き物や人間と暮らします。志水先生は「学力」を育むことのできる「力のある学校」を「社会関係資本が高度に蓄積された学校」、「信頼関係のネットワークが重層的にはりめぐらされた学校」と呼びました。樹が豊かに育つように、人間的に豊かに成熟した人は、やがて家庭や地域や職場で、人々と「世の中みんなでまとめて面倒をみよう」という関わり方を選択するようになります。自分の力をみんなのために使うということが当り前のようにできるような、優れた公的感覚を持ち合わせた人に、条件が整えば、子どもや若者は育ちます。その条件とは、私たちが子どもや若者のために「世の中みんなでまとめて面倒をみよう」という在り方を選び取っていること、これにつきるのではないでしょうか。
2013年7月15日
サン=テグジュペリ『星の王子さま』(河野万里子訳)
こんにちは、穎才学院教務です。蒸し暑いですが、先週の今ごろに比べると、少しすごしやすく感じます。とはいえ、くれぐれも体調には気を付けて。みなさま、お元気でお過ごしください。
さて、サン=テグジュペリ『星の王子さま』(河野万里子訳、新潮文庫)を読みなおしました。サン=テグジュペリの挿絵に可愛らしい金字を施した、とても綺麗な装丁の文庫本です。
LORSQUE j'avais six ans j'ai vu, une fois, une magnifique image, dans un livre sur la Forêt Vierge qui s'appelait << Histoires Vécues >>. Ça représentait un serpent boa qui avalait un fauve. Voilà la copie du dessin.
という、”Le Petit Prince”(『星の王子さま』)の冒頭を、河野万里子先生は、
僕が六歳のときのことだった。『ほんとうにあった話』という原生林のことを書いた本で、すごい絵を見た。猛獣を飲みこもうとしている、大蛇ボアの絵だった。再現してみるなら、こんなふうだ。
と訳しました。『星の王子さま』の新訳は、いくつか出版されていて、訳者ごとにテクストの趣きが異なります。本書(河野万里子先生)は、「子どもに読みやすく訳された『星の王子さま』」であると言えるでしょう。
そもそも原題”Le Petit Prince”は、逐語訳では「小さな王子さま」といったところです。その題名が、『星の王子さま』という優しく豊かな響きのタイトルとなったのは、内藤濯(あろう)氏の素晴らしい名付けによるものです(岩波少年文庫、1953年初出)。
”Le Petit Prince”という原題を、『星の王子さま』と読んだときから、私たちと物語との繊細で美しい関係がはじまりました。ある訳者の邦訳だけで『星の王子さま』を読む人も、さまざまな邦訳を比較して『星の王子さま』を読む人も、フランス語で”Le Petit Prince”を読む人もいるでしょう。どのような読み方をしても、私たちにとって、『星の王子さま』という物語は、邦訳の向こう側にある原書”Le Petit Prince”のさらに向こう側にある「何か」として現われるのです。
「キツネ」が「小さな王子さま」にプレゼントした「いちばんたいせつなことは、目に見えない」という言葉は、”Le plus important est invisible.”を翻訳したものです。私たちは、「その向こう側に何かがあるもの」と「その向こう側には何もないもの」とを見分ける力を持っています。そして「その向こう側に何かがあるもの」に強く魅かれるのです。ここで「その向こう側にある何か」が「見える」必要はありません(まさに、「いちばんたいせつなことは、目に見えない」のです)。たとえ「その向こう側にある何か」が見えなくても、たくさんの修行を積んだお坊さんの居住まいは美しいものですし、血のにじむような努力を積んだ料理人の料理は美味しいですし、たくさんの本を読んでいる人の言葉には奥行きがあるものです。
「キツネ」に言われて、「バラたち」に会いにいった「王子さま」は、外見は美しいけれど中身はからっぽな「バラたち」を見て、「ぼくのバラ」がこの世に一輪のバラであった、ということに気付きます。
「きみたちは美しい。でも外見だけで、中身はからっぽだね」王子さまはさらに言った。「きみたちのためには死ねない。もちろんぼくのバラだって、通りすがりの人が見れば、きみたちと同じだと思うだろう。でもあのバラだけ、彼女だけが、きみたちぜんぶよりもたいせつだ。ぼくが水をやったのは、あのバラだもの。ガラスのおおいをかけてやったのも、あのバラだもの。ついたてで守ってやったのも、毛虫を(蝶々になるのを待つために二、三匹残した以外)やっつけてやったのも。文句を言ったり自慢したり、ときどきは黙りこんだりするのにまで、耳をかたむけてやったのも。だって彼女は、ぼくのバラだもの」
「キツネ」は「王子さま」に言います。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ。」
そして、さらに言うのです。
「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……」
物語のなかで「王子さま」は、砂漠の砂の上に頽れる直前まで、今は遠く離れたところにいる「ぼくのバラ」への責任を感じ続けます。
「ね……ぼくの花……ぼくはあの花に責任があるんだ!それにあの花、ほんとうに弱いんだもの!ものも知らないし。世界から身を守るのに、なんの役にも立たない四つのトゲしかもってないし……」
小さな王子さまは、自分の身を投げ出して、共にたくさんの時間をすごして絆を結んだ弱きものを守ろうと思うような、私たちにとり大切なことをきちんとわきまえた存在でした。
「王子さま」にとっての「ぼくのバラ」や、語り手「僕」にとっての「王子さま」のように、相手のために自分の身を投げ出し、共にたくさんの時間をすごして絆を結んだ「弱きもの」が、政治やトラップのブリッジや、ゴルフやネクタイや、権威や称賛や、酒や資産のようなものよりも、私たちにとり本当はかけがえのないものであるのだ、ということを物語は私たちにやさしく語ってくれるのです。たとえ、その「弱きもの」が、今はすぐ側にいないとしても。
2013年7月13日
森見登美彦『四畳半王国見聞録』読了
こんにちは、穎才学院教務です。蒸し暑い日になりました。みなさま、おかわりありませんか。さて、森見登美彦先生の『四畳半王国見聞録』(新潮文庫)を読みました。『四畳半王国見聞録』は、京都東山のふもとにあるという「法然院学生ハイツ」に住む奇妙奇天烈な愛すべき人間たちをめぐった物語です。
僕の小説を読んで、「これを書いてる人はどういう人だろう」と思う人も多いかもしれませんが、多くの人が思っているほど、僕は小説そのままの世界観を生きているわけではないんです。そこに到達したいと思い小説を書いているとき、僕の「内なる虎」が目覚めているときにそこに迫るんだけれども、書き終わってその虎が眠ってしまうと、もうわりと普通に戻るというか。
森見登美彦先生は、小説を書くことについて、インタビューに対してこのように答えました。森見登美彦先生が言う「内なる虎」が目覚めている状態というのは、作家が書いているうちに「筆の運びが乗ってくる」というような状態のことでしょう。
「まあ、わかるまい」とカーネル・サンダースは言った。
「わかるわけはないと思ったけど、礼儀としていちおう訊いてみたんだ」
「ありがとさん」
村上春樹『海辺のカフカ』下巻 128ページ
文芸評論家の内田樹は、新潮文庫の100冊「ワタシの一行」キャンペーンで、村上春樹の『海辺のカフカ』の紹介を担当し、この部分を引用しました。
『海辺のカフカ』の中では星野青年とカーネル・サンダースの対話がとにかくグルーブ感最高で、どの行を引用してもよかったんですが、とりあえず目に付いたので、これを。
内田先生が「グルーブ感」とよんだテクストのリズムは、物語の息遣いのようなもので、よい物語が必ず持っているのは、この読み手に取って心地よい息遣い(=「グルーブ感」)です。2003年に『太陽の塔』(新潮社)で森見登美彦先生がデビューされて以来、森見文学のファンが愛するのは、森見登美彦という作家の「文体」です。
それにしても、いったいいつまでカンカン叩いているつもりであろう……。
やけっぱちか。戦友によびかけているのか。それとも、どこか遠くで暮らす幻想の乙女へ、果たされざる逢引を約束するモールス信号でも送っているのか。そういった腰の据わらない輩は、幻の秘薬、樋屋奇応丸を服用するがよい。
このような「グルーブ感」のある文章は、凡人にはなかなか書けません。このような文章は、頭で書くものではなく、身体で書くものだと思います。身体が、何かと共鳴するように、動き出していて、その身体の運動に筆の運びを任せて、どんどん書いていくのでしょう。そのようなときの身体の感覚を、森見登美彦先生は「内なる虎が目覚めている」状態だと言ったのだと思います。
森見登美彦先生の本は、そのような「グルーブ感」のある文章、すなわち読み手の身体に響く文章の集合体です。お店の中に色々な良い雑貨が置かれていて、お店の中を歩いていると、歩く人の心を捉えてしまうような名品珍品に必ず出会える。そのようなお店と似ていて、森見登美彦先生の本を読むと、読み手の身体に響くエピソードに必ず出くわします。
そして、森見登美彦の「文体」は、読み手にとり読みやすいものです。「常に余計なものを発生させる」という人間の生活を「熱力学第二法則」との戦いと喩えても、「白川通り」や「百万遍交差点北東角」といった京都市街の通りや交差点の名前を使って物語世界を説明しても、熱力学を知らない人間にも読みやすく、京都の地理に明るくないひとにとっても読みやすいのは、森見登美彦の「文体」の魅力のひとつです。
『夜は短し歩けよ乙女』(2006年、角川書店)でも『聖なる怠け者の冒険』(2013年、朝日新聞出版社)でも、存分に京都市街をめぐる物語を描きながら、京都に馴染みがあまりない人にも読みやい文体で物語はすすみます。『四畳半王国見聞録』でも、物語の舞台は京都大学の近辺であることは間違いないのですが、それは実際の百万遍、白川通りの風景とは異なる趣きをもつ世界です。『夜は短し歩けよ乙女』を読むと、そのことがよくわかりますが、森見登美彦の「文体」によって描き出される京都市街は、実際の京都市街とは異なる、読みやすく物語られた「異世界(パラレルワールド)」なのです。『夜は短し歩けよ乙女』に出てくるバーのモデルとなったというバーがあります。もちろん、そのお店はそのお店としてよいバーなのですが、森見登美彦の「文体」を通して「異世界」を読んだ人には趣きの異なるものである、と言われます。それは仕方のないことです。むしろ、私たちは実際に存在するバーと、森見登美彦のリーダブルな「文体」によって描かれた「異世界」のバーと、二つのよいバーを楽しむことができるのですから、しあわせです。森見登美彦の「文体」は、読みやすい(リーダブル)な文体によって、読み手によき世界を届けることができるのです。
物語の持つ「グルーブ感」と「リーダブルな文体」、森見文学のエクリチュールが多くの読み手を引きつけてやまないのは、やはり必然でしょう。
ところで、私の『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)は、「行方不明」になりました(泣)。帰ってこないかなあ。良い本は、いつでも手元において読みたいものです。
2013年7月12日
堀辰雄「風立ちぬ」再読
こんにちは、穎才学院教務です。みなさま、暑い中、お体を悪くしていらっしゃいませんか。ご自愛ください。さて、堀辰雄の「風立ちぬ」(新潮文庫『風立ちぬ・美しい村』)を読みました。堀辰雄の日本語は、ショパンの夜想曲のように、静かで抒情味豊かです。読んでいて、身体がすーっと物語世界が展開する信濃追分に引き込まれるような感覚を得てしまいます。
優れた本は、読むたびに、読み手がきちんと成熟し、読むための技術を持っていれば、読み手のあり方にあわせて違った表情をみせてくれます。堀辰雄の「風立ちぬ」は、そんな優れた本のひとつだと思います。
私はなんだか急に心細そうに雪を分けながら、それでも構わずにずんずん自分の小屋のありそうな方へ林を突切って来たが、そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような気がし出していた。それはしかし殆どあるかないか位の足音だった……
物語には、大切な人をなくした人が、事あるごとになくした大切な人の存在を感じてしまう、という話があります。『長恨歌』の「漢皇」や『冬のソナタ』の「ユジン」のように、失われた大切な人を想い続ける人は、時雨の日に落葉を見たり、雪の日に人ごみを眺めたりするような些細なときに、不意にいなくなった大切な人への想いにとらわれます。
「風立ちぬ」の語り手「私」も、失われた人への想いにとらわれた人物です。
おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。
語り手「私」によれば、失われた人への想いにとらわれた人は、人並み以上に幸福でもなければ、不幸でもない、と言うのです。エマニュエル・レヴィナスは、失われた他者に対する「有責性」にとらわれることを、「人間の成熟」の要件としました("Difficile liberté"による。邦訳は法政大学出版局『困難な自由』)。
内田樹先生は、そのような人間の成熟について、「『私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている』ということをとりあえず受け容れ、それでは、というのでそのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである」と説明します。
「『私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている』としたら、自分なんか無くなってしまうじゃないか。」という人がおられるかもしれません。
おっしゃるとおりなんです。「面倒な表現をせずに」、「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス大先生は「同一者」と呼びました。例えば、「〇〇士を目指す」とか、「〇〇語をマスターする」とか、「強くて素敵な大人になる」とかいうような人生の目標を掲げることは、ここでは良いことでも悪いことでもありません。しかし、「〇〇士を目指している自分」とか、「〇〇語をマスターしようとしている自分」とか、「強くて素敵な大人になろうとしている自分」とかいう「同一名称」で自分を括りこみ、そこに私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉を導き入れないことは、レヴィナス大先生によれば人間的な怠惰ですし、生きる上でとても勿体ないことであると私は思います。
「私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉」を持たない人のあり方を、レヴィナス大先生は「光の孤独」と呼びました。それは、一見明るく生きやすいように見えて、とてもさみしい生き方である、と言うのです。
「風立ちぬ」の語り手「私」にとっての「私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉」は「節子」です。
こんな風におれがいかにも何気なさそうにいきていられるのも、それはおれがこうやって、なるたけ世間なんぞとは交じわらずに、たった一人で暮らしている所為かも知れないけれど、そんなことがこの意気地なしのおれに出来ていられるのは、本当にみんなお前のお蔭だ。それだのに、節子、おれはこれまで一度だっても、自分がこうして孤独に生きているのを、お前のためだなんぞとは思った事がない。それはどのみち自分一人のために好き勝手なことをしているのだとしか自分には思えない。
語り手「私」は、亡くなった「節子」に語りかけます。このように「私」は、信濃追分の林道を歩きながら、山小屋でひとり過ごしながら、さまざまなことを考え心に思い浮かべます。それは、「私」が都合よく考え思い浮かべているというよりも、思い浮かぶことに導かれるまま「私」が身を委ねているというあり方です。堀辰雄の美しい日本語を通して、そのような語り手「私」のあり方に私たちがノスタルジックな美しさを覚えるのは、レヴィナスが論じたような、倫理的な人間性と無関係ではありません。
「私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉」を持つ人のあり様は美しい。この倫理的なテーゼを美しい日本語で繰り返し味わうことできる私たちは、しあわせです。
荒井由実(松任谷由実)「ひこうき雲」を聴く
本日、7月12日の『金曜ロードSHOW!』(日本テレビ系列)は『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年制作・日本)を放送するそうです。来週7月19日は『猫の恩返し』(2002年制作・日本)を放送するそうで、7月20日の宮崎駿監督作品『風立ちぬ』公開に向けた記念キャンペーンだそうです。さて、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の主題歌は、荒井由実さんの「ひこうき雲」です。
この曲は、松任谷(旧制荒井)由実さんが、高校3年生のときに作った楽曲です。はじめ彼女の2枚目のシングル『きっと言える』のB面曲として発表され、後にファースト・アルバム『ひこうき雲』のリードナンバーとなりました。
この曲には、松任谷由実さんのパートナーである、松任谷正隆さんが「この曲のコード使いの意外性に驚き、結婚を決めた」というエピソードがあります。
「彼女のここが凄かったって具体的に言えますよ。
”ひこうき雲”のサビで、B♭7を使うところ。
その頃の日本でそんなことする人いなかったもの。」
松任谷正隆さんは、このように、サビの2フレーズ目に出てくるB♭7コードの響きに驚いた、というエピソードを物語っています。「ひこうき雲」は、オリジナルコードがE♭の楽曲です。E♭(変ホ長調)で、B♭7のコードを使うということは、五度の7thコードを使うということです。五度の7thコードというのは、「ドミソ」にとっての「シファソ」の和音(正確に言うと「シレファソ」)のこと。この和音自体は珍しい和音ではありません。しかし、五度の7thコードをサビに使う日本のポピュラー音楽は、ほとんどないと言うのです。
荒井由実さんは日ごろから教会音楽を聞いていたのだろう、と私は思います。荒井由実さんが憧れていたバンドであるプロコル・ハルムの代表曲『青い影』(1967年)もJ.S.バッハの「G線上のアリア」に和声進行が似ています。教会音楽やバロック音楽では、五度の7thコードをよく使います。少女だった荒井由実さんは、キリスト教系の女子学校に通っていましたから、教会音楽を聴く機会があったでしょう。
彼女がバッハをはじめとしたクラシック音楽に親しんでいただろうこと、プロコル・ハルムの『青い影』に出会ってその音楽に強く憧れたこと、高校生になったころに友達を病気で亡くしたこと、高校3年生のときに高校生同士が心中するという事件を知ったこと、そういったさまざまなことがひとつにつながって、空から降ってくるように、何かが降りてくるようにして、「ひこうき雲」という音楽ができたのだろう、と私は思います。荒井由実さんは、そうやって彼女の生き方、彼女のあり方そのものから音楽を歌う人だっらから、「その頃の日本でそんなことする人いなかった」と言われるような素晴らしい音楽が生まれ得たのだと思います。既にある何かになろうとするのではなくて、世界を体いっぱいで感じて自分の人生を生きることのできる少女だったから歌い得た音楽、それが「ひこうき雲」であったような気がします。
もちろん、これはほとんどが私の憶測です。でも、私がそんな物語を思い描くのは、「ひこうき雲」という音楽が私たちの「身体に響く」よい音楽であるからです。
よいものは身体に響く。これはまぎれもない事実です。
よいものに触れて身体が震えると、私たちは自然といろいろなことを考え、いろいろなことを感じ取り、いろいろなことを思い出します。
荒井由実さんの「ひこうき雲」がよい音楽であるのと同じように、宮崎駿監督の『風立ちぬ』がよい映画であるのだろう、ということを私は感じています。この映画を通じて、多くのひとに素晴らしい物語が届けられますように。
2013年7月11日
吉本ばなな『キッチン』(角川文庫)再読
こんにちは、穎才学院です。じりじりと暑い日が続きます。お水やスポーツドリンクなど、水分をたくさんとって、熱射病に注意しましょう。みなさま、お体にお気を付けて。さて、吉本ばなな先生の『キッチン』を読みました。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
世の中の「料理好き」には、「料理のできる自分が好き」な人と「生きるために食べる料理をつくるのが好き」な人とがいる、と私は思っています。では、あなたの身のまわりにいる「料理好き」な人がどちらのタイプか見分けるためにはどうすればよいのか、と言うと、「台所」でのその人の様子を見れば良いでしょう。どのように食材を買うか、ということから始まって、どのように洗い物をしたり生ゴミを処理したりするか、ということまで、その人が「どのように料理をしていているか」を見ると、その人のことがよくわかります。「料理のできる自分が好き」な人は、出来上がった料理がどれくらい見栄えよく美味しいものだと思われるか、料理を作った自分がどれくらい魅力的な人間だと思われるか、ということに執心するので、台所は雑然としています。汚いというよりは、使い方が下手くそという感じです。そのような人は、料理をするときに、可愛らしいワンピースを着たり、不自然に肌の露出の多い恰好の上からエプロンを身に付けたり、料理をするという行為とそれに臨む姿勢とがチグハグなことも多いです。「MOCO'Sキッチン」のもこみち君は、あえてそういうキャラクターを演じているのだと思います。彼は、俳優ですからね。一方、「生きるために食べる料理をつくるのが好き」な人の料理の仕方には、無駄がありません。買い物からごみ処理に至るまで、無駄なくテキパキと進めていきます。だから、時間も節約されますし、出るゴミの量もすごく少ないのです。料理をする姿も見ていて凛として美しく、食べる前から出来上がる料理がおいしいことが伝わってくるようです。これは、男性にも女性にも、料理の作り手にはすべからくあてはまることだと思います。
「キッチン」および「満月―キッチン2」の語り手「私」は、まぎれもなく「生きるために食べる料理をつくるのが好き」な人です。2つの物語では、「生きるために食べる料理」によって人が癒されるということが丁寧に物語られます。「キッチン」なら夜中の台所で作る「ジュース」と「ラーメン」がそれにあたり、「満月―キッチン2」なら「カツ丼」がそれにあたります。
料理を作ることも食べることも、私たちの身体の感覚と深く関係のあることです。「生きるために食べる料理をつくるのが好き」な人と「生きるために料理を食べるのが好き」な人は、料理を作ることや食べること以外についても、身体の感覚を大切にすることが多いです。おそらく、吉本ばなな先生もそのような身体の感覚の鋭い方なのだ、と思われます。そのような作家は説明が上手く、部屋のありさまを描写しても、登場人物の様子を表現しても、読み手にとり読みやすい文章を書くことができます。一流の料理人の作る料理は、総じて客にとり食べやすいものである、と言われますが、このような点でよい料理とよい文章とは似ているところがあるように思います。
「本当にひとり立ちしたい人は、なにかを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからがはじまりなのよ。」
「えり子」さんが「私」に語った言葉です。
「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大きくなっちゃうと思うの。」
(中略)いやなことはくさるほどあり、道は目をそむけたいくらい険しい……と思う日のなんと多いことでしょう。愛すら、すべてを救ってはくれない。それでも黄昏の西日に包まれて、この人は細い手で草木に水をやっている。透明な水の流れに、虹の輪ができそうな輝く甘い光の中で。
「虹の輪ができそうな輝く甘い光の中」に包まれて、子供や植物などと、共に生きる。よく生きるということについて、あるいは楽しく暮らすということについて物語るのに、このテクストを補う言葉は必要無いように思います。
よく生きるとはどういうことか、功利主義経済学的に演算してテスティファイするのではなく、このようなテクストを読んで
「わかる気がする」
と思える身体の感覚。
そんな感覚を持つ人と暮らすことは、私たちにとり、とても癒されることだろうと思います。
2013年7月10日
機本伸司『神様のパズル』(ハルキ文庫)読了
こんにちは、穎才学院教務です。東京都心では4日連続で猛暑日を記録したようです。暑い日が続きます。みなさま、おげんきですか。「宇宙は”無”から生まれた」と、彼は言った。「すると人間にも作れるんですか?無なら、そこら中にある―」
機本伸司先生の『神様のパズル』は、ごく普通の大学生「綿貫基一(わたぬきもとかず)」が、不登校で16歳の現役女子大生天才理論物理学者「穂瑞沙羅華(ほみずさらか)」と宇宙創成に挑戦するというサイエンス・フィクションです。
ん?
16歳で現役女子大生とは、どういうことだ?
「穂瑞沙羅華」は、優秀な理論物理学者として「むげん」という超巨大加速装置の開発に関わり、「跳び入学」で「K大学」に入学しました。しかし、「むげん」での粒子の観測が思うように進まないため、メディアは批判の矛先を、開発に採用された理論の発案者である「穂瑞沙羅華」に向けました。また、彼女は大学に入学して女子大生になったと言っても、周りの同級生はみんな実際には年上の人間です。物理学を修めていても、人間的に成熟する前の段階である「穂瑞沙羅華」は、大学で適切な人間関係を築くことができず、不登校になってしまったのです。しかも、容姿が人並み以上に美しかったことと、出生にやや特別な事情を持っていたこととが、世間の好奇心を駆り立ててしまい、下劣な人間の欲望の対象となってしまいます。
物語には、「超ひも理論」や「重ヒッグス粒子」といった理論物理学のテクニカル・タームが散りばめられていて、「穂瑞沙羅華」と「綿貫基一」が「宇宙づくり」に挑戦する過程を読み手がハラハラしながらともに楽しむ、というSFならではの醍醐味があります。「穂瑞沙羅華」は「ホームズ」、「綿貫基一」は「ワトソン」の名前をもじっているのでしょう。アーサー・C・ドイルの「シャーロックホームズ」シリーズにおいて、天才的な推理力を持つ「ホームズ」と読者と同程度の推理力の「ワトソン」とのやりとりによって、読者に推理の過程が解りやすく示されるのと同じように、「穂瑞沙羅華」と「綿貫基一」のやりとりを読むと、理論物理学的なテーマが読者によく解かるように書かれています。
また『神様のパズル』は、理論物理学をめぐるサイエンス・フィクションであると同時に、未熟な少女としての「穂瑞沙羅華」が、「綿貫基一」に支えられながら、自分の弱さを受け止める、というビルドゥングス・ストーリー(成長の物語)でもあります。『影との戦い―ゲド戦記〈1〉』(アーシュラ・K.ル=グウィン作、清水真砂子訳、岩波少年文庫)で、才能豊かだけれども未熟な「ゲド(ハイタカ)」が献身的な友人「エスタリオン(カラスノエンドウ)」に支えられながら、自分の強さと弱さが共にあることを受け入れることが出来るようになったように、ビルドゥングス・ストーリーにおいて主人公の成長には、自分の全てを投げ打って友人を助ける他者の存在が欠かせません。『神様のパズル』の「綿貫基一」も、自分の卒論や就職活動をほったらかしにして、「穂瑞沙羅華」を助ける献身的な人間です。そして、本人がその素晴らしさに気付いていないところが、また「綿貫基一」の「いいやつ」たる理由です。他の人間には全く心を開いていなかった「穂瑞沙羅華」が、「綿貫基一」のことを「綿さん」と呼び、行動をともにします。この物語の続編(『パズルの軌跡』など)でも「綿さん」は「沙羅華」の良きパートナーです。
そして、物語の最後で、語り手である「綿さん」は「沙羅華」の将来を心配しながら、このように語ります。
それは彼女自身が考えて決めることだし、やはりそっとしておいてやる方がいいのだろう。
親しい間柄にある人のことを心配しながら、その人のことを「そっとしておいてやる」ことのできる奥ゆかしさ。
これがまた「綿さん」の「いいやつ」たる理由なんですよね。
2013年7月 9日
有川浩『キケン』(新潮文庫)再読
こんにちは、穎才学院教務です。酷暑が続きます。水分補給を細目に行ってください。体調にはくれぐれもお気を付けて。勝たんまでも負けん!
有川浩先生の『キケン』は、「成南電機工科大学、機械制御研究部」、略称【キケン】をめぐった物語です。「成南のユナ・ボマー(※ユナ・ボマーは『世界一有名な爆弾魔』)」こと、部長の「上野直也」と、「名字を一文字隠した」と恐れられる、副部長の「大神宏明」(※隠された文字は「魔」→大魔神、大神)を中心に、主人公の「元山高彦」(※ハイ・スペック型「お店の子」)やその友人の「池谷悟」(※ここ一番で頼りになる冷静沈着人間)といった個性豊かな新入生たちによって構成される【キケン】は、新入生歓迎イベントで、文化祭で、ロボット・コンテストでさまざまな伝説を残します。
先に引用したのは、格闘型ロボット・コンテストに臨んだときに「上野直也」が掲げた【キケン】の「モットー」です。ごく普通の私立大学の機械系サークルである【キケン】は、ごく普通の予算と資材しか持ち合わせません。しかし、その手持ちの素材を最大限に活かして、ごく普通の理系学生が個々の能力を存分に発揮して、潤沢な予算と材料によって圧倒的なスペックのロボットを作成するチームに対抗します。
『図書館戦争』シリーズでも、『空飛ぶ広報室』でも、有川浩先生の作品には、ごく普通の人びとが、その個性を存分に発揮して、限られた条件の中で、最高の仕事をなしとげる、というエピソードが多く見られます。『機動戦士ガンダム』の時代から、男の子は、この「限られた条件の中で、最高の仕事をなしとげる」という構造の物語に、胸を躍らせてきました。クロード・レヴィストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで「ブリコラージュ(Bricolage)」という言葉を鍵語として、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」ことの人類学的な大切さを説明しました。
これ金に飽かせて相当いい部品つかってますね。力比べになったら高校や高専レベルの予算で作る機体が勝てるわけがない。出力が違います。モーターだけでいくらかけているんだか。
敵チームのロボットの出力を見て後輩が唸る一方で、部長「上野直也」は敵チームの「大人げなさ」を鋭く批判してみせます。
かーっ、大人のくせに大人げねーおっさんどもだな!そこまでかねかけた機体ならもうちっと魅せる試合をしてみろっての!
そう、金に飽かせて目的を果たす(ここでは「勝つ」)ためだけの仕事をするような人間は、大人気ないのです。【キケン】のメンバーにとって大切なのは、限られた条件・予算の中で、最大限に魅せる仕事をすることです。
だから、「勝たんまでも、負けん!」
目的を果たすことだけを目的とするのでは無くて、見ている人々がワクワクする仕事をする。それでいて勝てないなら、勝てないとしても「負けない」!
ワクワク感は、功利主義的経済学では財と見なされません。しかし、私たちが感動し、心奪われ、声を上げて応援したくなるのは、例えば大学にあるものを寄せ集めて器用に大学レベル以上のものをつくってしまうような、魅力的な仕事なのです。
物語の最後で、主人公「元山高彦」は社会人となって結婚相手を伴い、かつて自分たちの世代が苦心して編み出した、「奇跡の味」と称される文化祭のラーメン屋台を訪れます。そして、変わらないラーメンの味を懐かしみながら、屋台の運営に奔走する現役部員の後輩たちを見て、思うのです。
殺人的な慌ただしさ中、こいつらは何て―何て楽しそうなんだろう。
なあ、気付いているか、お前ら、今は必死で楽しいなんて考える余裕もないだろうけど。店まわすのが楽しくてしかたがないってビシビシ伝わってくる。
今は店をやり遂げた達成感や打ち上げの解放感のほうが楽しく思えるだろうけど。
楽しかったのは正にその厨房の中で、シフトが終わるなり植え込みに突っ込んで寝るほど極限まで働いている正にその瞬間なんだ。
それに気がつくのは、自分がもう厨房の店員にも出前の司令塔にもなれなくなってからなんだ。部外者になってからじゃないと分からないんだ。
だから―限界までやっとけよ。祭りの主役でいられるうちに。
学生時代の青春の醍醐味は、限界までやる、学生レベルを超えたクオリティーの仕事を成し遂げる、という「オーバーアチーブ」の体験をすることでしょう。社会や組織がうまく機能するためには、その5分の1の人間が「オーバーアチーブ」する、すなわち「自分のためではなく周囲のために報酬以上の働きをする」ということが必要です。本当に社会に出る前に「オーバーアチーブ」を疑似体験する、そして「オーバーアチーブ」する「楽しさ」を覚える。それが、学生が成熟する上で社会的に大切な構造ででしょう。
きっと、社会人となり人生の伴侶を設けた元山青年も、社会のどこかで「オーバーアチーブ」しているのです。だから、彼は魅力的であり、奥さんに愛されているのです。
「俺、【機研】が好きだったんだ。ホントに」
高ぶった感情のまま喋ろうとした元山の唇を妻が人差し指でふさいだ。
「その気持ちは明日存分に味わってきて。あんまり聞くと男の友情に嫉妬しそう」
大学時代のサークルの同窓会の前日に、妻にこのように言われるなんて、魅力的な夫じゃないとできることではありません。
「オーバーアチーブ」している人間は、性別年齢を問わず、かっこういいのです。ほんとうに。
2013年7月 8日
柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)読了
こんにちは。穎才学院教務です。ほんとうに暑い日が続きますが、みなさま、お体は大丈夫でしょうか。さて、柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)を読了しました。柴田先生は、東京大学文学部教授(アメリカ文学専攻)で、翻訳家でいらっしゃいます。
私と柴田先生との出会いは、90年代後半に先生が佐藤良明先生たちと編集された、『The Universe of English〈2〉』(東京大学出版)でした。他にも駒場時代には、『The Parallel Universe of English』(東京大学出版)を読んで楽しみました。駒場の英語の授業で柴田先生のクラスにあたることはついに無く、しばらくの時間が経つのですが、10年程を経て、今度は私淑する内田樹先生の本の中で、私は柴田先生と再会します。そして、今回ヘミングウェイの短編を読みたいと思って、邦訳を探すと先生の翻訳書『こころ朗らかなれ』にあたりました。これで、3度目。同じ人との出会いが3度つづいたら、テクストを通しての出会いであっても、それは運命でしょう。柴田先生の本を読め、先生を通してその向こう側にあるものを学べ、と私が呼ばれている、そんな気がするのです。
『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)では、「名前」「食べる」「幽霊の正体」など、10項目にわたってアメリカ文学の構造についての講義が行われます。例えば、「名前」であれば「私たちの名前がどのように呼ばれるかよって私たちの在り方は決まる(だから、名前は大切だ)」ということが、「食べる」であれば「正しい理屈よりも温かいパンによって私たちは救われる(だから、生きるために温かい食事は欠かせない)」ということが、論じられます。
そして、「エピローグ アメリカ文学のレッスン」では、「私たちが世界を解読する」という、いわば「生きる」ことそのものについて、先生の専門領域「翻訳」を鍵語として、このように語られます。
世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。
(中略)
すべては、「翻訳」だ。いうまでもなく、あらゆる翻訳は誤訳である。だが、その誤訳が、DNAについていえば世代間の変異を生じさせ進化を生み出し、バッハでいえばドシラソというわずか四つの音から、三十の変奏曲からなる豊かな宇宙を生み出すのだ。
「生きる」というのは「世界を読む」ということだ、と私は思っています。しかし、世界を読むためには「世界を読んだ気になってはいけない」のです。「あなたのことはもうわかったの」という言葉が、男女関係の終わりを告げる言葉にはなっても、男女の出会いのとびらを開く言葉にはなり得ないのと同じで、「読めた」と思った瞬間に私たちと世界の関係は閉じたものとなってしまうのです。柴田先生が言うように、世界と自分の両方を「豊かに更新する」ことが求められるのです。
「解読に正解はない」、「翻訳は誤訳である」と言われるように、私たちはメッセージを(世界を)誤読します。その誤読が私たちと世界とを架橋するのです。誤解を恐れぬ勇気と言いますが、それは厚顔無恥な人間の在り方ではなく、『耳をすませば』でバイオリン作りを志す聖司少年に憧れる雫ちゃんのような、世界への敬意と愛情に満ちた姿勢です。
アメリカの小説家、リチャード・パワーズ(1957〜)は『黄金虫変奏曲』(原題”The Gold Bug Variations”)で、このように物語ります。
シェークスピアをパントゥー語に、インディアナをブルックリンに、レスラー博士を韻文に、欲望を生物学用語に。世界は翻訳でしかない、翻訳以外の何物でもない。だが、逆説的なことに、言い表しがたいことに、それはまさにほかでもない、ここという場所の翻訳なのだ。
ここでパワーズが苦心して述べていることは、ジャック・ラカンによれば、「言語活動において、私たちのメッセージは『他者』から私たちのもとに到来する」と言われたものと向き合うことににあたると思います。それは、チャレンジグで楽しい営みである、と私は思うのです。
これからも、読めたつもりにならずに読むことを続けていきたいものです。
熱中症の対策について
こんにちは、穎才学院教務です。7月8日は、首都圏で熱中症対策が呼びかけられています。今後も、本日のように、非常に暑い日が続くことが予想されます。通学中の熱中症には充分に注意しましょう。
熱中症は、暑さによって引き起こされる症状の総称で、「熱失神・熱疲労・熱けいれん・熱射病」の4つに分けられます。
このうち、熱失神と熱疲労は、涼しい場所に患者を運び、衣服をゆるめて休めるように寝かせ、水分を補給すれば通常は回復します。また、足を高くし、手足を末端から中心部に向けてマッサージするのも有効です。しかし、吐き気やおう吐などで水分補給ができない場合には病院に運び、点滴を受ける必要があります。
熱けいれんは、激しい運動中に起こりやすいといわれ、水分補給に対して塩分などの補給が充分でない場合に、手足などの筋肉に痛みをともなった痙攣がおこります。このような場合には、生理食塩水を補給すると通常は回復します。
熱射病は、意識障害(応答が鈍い、言動がおかしい、意識がない)を伴うことが特徴で、体温の上昇のために身体の中枢機能に異常をきたしている状態です。血流が滞り、臓器障害を引き起こす可能性があって、生死に関わる緊急事態である、と認識してください。その場で応急処置を行って患者の身体を冷やし、医療機関に搬送することが最優先されます。大きい血管が通っているところに冷やしたタオルなどをあてて風を送るなどして、身体の冷却をはかります。場合によっては、全身に水をかける、という方法も有効とされています。電車内や屋外など、近くに十分な水が見つからない場合には、水筒やペットボトルの水分を患者の身体にまんべんなく吹きかけることが応急処置となります。このときの水分は冷たい必要はありません。気化熱を利用して、患者の身体を冷却することが目的です。熱射病は、このような応急処置をとりながら、医療機関へ素早く搬送することが大切ですから、初動が適切であるように日ごろから知識を持つことも重要です。
穎才学院では、教室で冷たいお茶や氷などを常備しています。体調が悪い時には無理をせず、講師・スタッフに申し出てください。
2013年7月 6日
宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社文庫)読了
みなさん、こんにちは。東京では梅雨があけたとか。早速、蒸し暑い日になっています。ごきげんいかがでしょうか。昨夜から読み始めた宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社文庫)を読了しました。宮下先生の本を読むのははじめてです。『太陽のパスタ、豆のスープ』は、今夏の集英社文庫キャンペーン「ナツイチ」にラインアップされています。私にとって夏の各出版社キャンペーンの楽しみのひとつは、それまでであったことのなかった本にであえる、ということです。良き本との出会いは、学生時代の良い先生との出会いと似て、ワクワクした気持ちになる、とても幸せな経験です。
さて、『太陽のパスタ、豆のスープ』は、結婚式直前に突然婚約を解消されてしまった女性「明日羽(あすわ)」の物語です。物語は、「明日羽」が語り手「私」となって、ゆっくりと、ときにあわただしく、物語られます。
なんだろう。今、口に入っている、このぱさぱさしたものは。何か食べ物であることは間違いないはずなのに、味気がなくて、ほとんど汁気もない。惰性で咀嚼するけれど、いつまで噛み続ければいいのかわからない。とても飲み込むどころじゃない。冷や汗が出てきた。ティッシュにくるんで出してしまってもいいだろうか。
パートナーから突然別れを切り出されたときの、「私」の語りです。食べることは、私たちにとって生命を維持するためだけの行為ではなく、人や世界と関わるために欠かせない大切な営みです。大好きな友達との食事は、とてもおいしく、絶望的な気持ちのするときの食事は、とてもひどいものです。「明日羽」のように、パートナーから別れを切り出されたときの食事は、まずいというよりも、味がしない。ほんとうに、味がしないものでしょう。
そんな「ひどい」状態から、「明日羽」が毎日をいろどり豊かに生きていく物語がはじまります。ここで言ういろどりとは、暖かい色も冷たい色も、美しい色も醜い色も、明るい色も暗い色も含んだ、マーブルのような色あいです。暖かい色や美しい色や明るい色ばかりを求めてもダメなのです。
心が傷ついているときには、身体の感度が落ちています。正確に言うと、身体の感度が落ちているときに、人は傷ついたり、傷つけられたりすることが多いのです。物語では、「ロッカさん」や「京」に励まされながら、「明日羽」が身体の感覚を取り戻していく様子がえがかれます。おいしいものを食べて、エステに通って、お仕事を休んで、日曜日にしっかり活動して、身体の感度を上げていく過程で、「明日羽」はさまざまなことに気が付きます。
良い色ばかりを求めていた女性が、良いところも悪いところもあるマーブルのような毎日を大切にすることができるような奥ゆかしい女性に成熟する。『太陽のパスタ、豆のスープ』はそのような物語だと思います。物語を通して、実ははじめから自分の状態は「ひどい」ものではなかった、いやむしろパートナーと交際していたときには良い色ばかりを求めるうすっぺらな自分だった、いつもまわりにいてくれた家族や仲間たちに自分は支えられていた、ということに「明日羽」は気づきます。
どうもありがとう。ほんとうにありがとう。
大切なものは、自分では選べない。大切なものは、いつも他から差し出される。共に生きるちょっと変な仲間や個性豊かな家族を大切に、第一志望ではなかった、何気なく就いた今の仕事を大切に、これから出会うであろう人々を大切に、そのように思えたとき、私たちは成熟した大人になるのでしょう。
2013年7月 5日
恩田陸『夜のピクニック』(新潮文庫)再読
こんにちは。東京では朝から雨が降ったり、激しい風が吹いたり、不安定な天気です。みなさま、おかわりありませんか。穎才学院教務です。本日は、恩田陸の『夜のピクニック』(新潮文庫)についてお話しいたします。主人公の「西脇融(とおる)」と「甲田貴子」が通う「北高」の名物行事「歩行祭」は、全校生徒が夜を徹して80キロを歩きとおす(走ってもよい)という、北高生にとって大切なイベントです。物語は、この「歩行祭」のはじまりから、おわりまでを、お互いに複雑な運命を背負った「融」と「貴子」のそれぞれの視点から描き、その脇を固める個性豊かな彼らの友人たちがお話をいろどります。
今回、私は物語世界の時間に合わせて、ちょうど一晩をかけて『夜のピクニック』を読みました。文庫本にして450ページほどの分量で、活字でびっしりと埋まったページも少なくありませんが、登場人物の心情に寄りそいながら、ひといきに読むことができました。『夜のピクニック』は、2006年に映画化されましたが、このような物語と現実の時間をリンクさせるような読みができるのは、読書ならではの楽しみだと思います。
物語は、10代の終わりから30代のはじめごろまでの、私たちの人生を一日に圧縮した、ドラマのようなつくりになっています。私たちには、多かれ少なかれ、自分たちの力ではどうにもならない運命や宿命のようなものがあって、性格のしっかりしたところもいいかげんなところもあって、うまくいっていることもうまくいっていないこともあって、私たちのまわりには、いいやつもいやなやつもいて、そばにいてくれているひともいなくなってしまったひともいて…。そのような私たちの人生を、物語は卒業を間近に控えた高校生の視点から描きます。
私たちの人生に印象に残る言葉があるように、物語にも読み手の心をうつ言葉が溢れています。
みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。
どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね。
(榊杏奈 スタンフォード大学に進学予定の貴子の友人。「歩行会」には参加していない。)
なぜあの機会を使わなかったのだろう。
そう思いつくと、ますます惜しくなってきた。
願ってもないチャンスだったのに。
(甲田貴子)
おまえのそういうところ、俺は尊敬してる。
だけどさ、雑音だって、おまえを作ってるんだよ。
雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。
(戸田忍 融の親友。)
もちろん、彼のことは素敵だと思ったし、いいところがいっぱいあってそこに惹かれたんだけど、あたしたち、いいところがある素敵な相手とつりあう自分を自画自賛してただけだったの。あたしたちって素敵よねって、一緒に自己満足しあってただけだったの。
(遊佐美和子 貴子の親友。)
考えてみたこともなかったな。どうだろう。そっちは、まだ駄目じゃないかな――
うん。まだずっと先だ。ずっと。
ずっと。 …。
でも、いつかは。
いつかはきっと。
(西脇融)
カラフルな登場人物たちの言葉は、「歩行会」の過酷さの描写の鮮烈さと、ときおり挿入される食事をとる場面のあたたかさとともに、読むたびに印象をかえて、読み手の前に姿をあらわすでしょう。
そして、「歩行会」の最終盤、夜明けをむかえながら、貴子と融が語り合う場面での、語り手の言葉。
彼の中で、世界はますます広くなっていった。みるみるうちに地平線が遠ざかり、海を超え、遠い世界がうっすらと見えてくる。
不思議な感覚だった。
融は、世界に包まれているような気がした。
「早く大学へ。早く就職して社会へ。早く独立して自分だけの世界へ。」というように、「いつも先を望んでいた」西脇融少年は、「歩行会」の一晩を通して、仲間たちと語り合い、親友たちに助けられ、これまでひたすらに隠してきた自分のもっとも醜い部分を親友たちの前にさしだすという経験を通して、「世界に包まれている」という感覚を得ました。そして、彼は親友たちに、仲間たちに、世界に感謝するのです。
物語の最後で、語り手は言います。
融はその「いつか」を坂の上に見る。ずっと先にある、必ず来るその日を、上りきった坂の上に確かに見る。
坂の上にいつかあらわれるであろう何かを見る、というのは映画や小説で使いつくされたメタファーであると思われるかもしれません。『夜のピクニック』という物語に、私たちが文学を通して繰り返し触れる、この種のレトリックが存在するのは、この物語が「少年(少女)の成長」という神話的な主題を語る物語であるからです。「使いつくされた」のではなく、「繰り返し物語られる」大切なストーリー。それが、『夜のピクニック』の持つ神話的な構造です。
少年(少女)は、「夜」を経て、大人になる。そして、その「夜」は孤独な夜ではなく、「歩行会」のような協同的な賑やかな祭礼である。まさに『夜のピクニック』。彼らはいっしょにピクニックに出かけ、足を本当に棒にするような疲労の極致を体験して、思わぬ出来事に直面しながら、自分たちの力でピクニックから帰りつき、「朝」をむかえるのです。
ところで、『夜のピクニック』の「歩行会」は、恩田陸先生の母校である茨城県立水戸第一高等学校の行事をモデルにしているそうです。水戸一高出身の方に、『夜ピク』の話をすると、とても喜んでくださります。みなさんひとりひとりに行事での思い出があって、いくつになってもその思い出を大切になさっているのだな、と感じます。
その意味では、私たち一人一人が「西脇融」であり「甲田貴子」なのかもしれません。これから大人になる子どもたちにも、「歩行会」のような素敵なイニシエーションがさしだされますように。七夕の笹飾りに、お願いしてみようかな、と思います。
2013年7月 4日
森絵都『カラフル』(文春文庫)読了
こんにちは、みなさまいかがおすごしでしょうか。穎才学院教務です。今年の夏は平年よりも暑くなるそうですが、東京はまだまだ梅雨空が続き、ジリジリと焼けるような暑さを感じるほどではありません。とはいえ、街の様子は少しずつ夏色を濃くしています。ターミナル駅にビアガーデンや花火大会のポスターが掲示されたり、鉄道で遊園地のプールの広告が掲出されたり、各出版社の夏の文庫本キャンペーンが始まったり、学生たちには夏休みの季節が近づいているのだなあ、と感じます。
さて、本日は森絵都先生の『カラフル』(文春文庫)を読了しました。森絵都先生は、児童文学作家であり、『DIVE!!』という作品などで知られています。
『カラフル』は、生前の罪により輪廻のサイクルから外されたという「ぼく」の魂が、「万物の父」たる存在がつかさどる「抽選」に当選し、輪廻のサイクルに戻る再挑戦のチャンスを与えられて、自殺した「小林真(こばやしまこと)」という少年の身体に宿り、「小林真」として生活しながら「ぼく」自身のおかした罪を想い出す「修行」をすることになる、という物語です。
「ぼく」の魂の宿る先として選ばれた中学生、「小林真」とその家族は、一見ふつうの家族のように見えるのですが、どこかがおかしい。通学する中学校での「小林真」の立場も、なんだか微妙です。「小林真」に学校の友達はいないようで、家では兄に苛められる、父親はちょっとズレている人で、母親はお稽古で通うフラメンコ教室の先生と不倫中だし、おまけにあこがれの女の子は中年オヤジと「愛人契約」を結んでホテル通いの交際中…、という不運のかたまりのような「小林真」の人生を、一定の期間、生きることになった「ぼく」は、自身のおかした罪を思い出して、うまく修行を終えることができるのか、というのが物語のすじです。
この物語は、登場人物への色付けが絶妙で、とても物語世界がイメージしやすく、読んでいてとても楽しくなりました。物語にひきこまれて、あっという間に読み切ってしまう、というタイプの読書になりました。また、語り口が軽妙でおもしろく、はじめの1ページで思わず笑ってしまうほど。児童文学作家は、やっぱり、すごいですね。
物語の佳境にさしかかり、「ぼく」が小林家の人びととの関わり方をみなおすきっかけとなる、重要な体験を経たあとの場面で、このような部分があります。
ぼくのなかにあった小林家のイメージが少しずつ色合いを変えていく。
それは、黒だと思っていたものが白だった、なんて単純なことではなく、たった一色だと思っていたものがよく見るとじつにいろんな色を秘めていた、という感じに近いかもしれない。
黒もあれば白もある。
赤も青も黄色もある。
明るい色も暗い色も。
きれいな色もみにくい色も。
角度次第ではどんな色だって見えてくる。
私たちは、身近な仲間や家族を、あいつは「いいやつ」、あいつは「いやなやつ」、というように一面的に意味づけてしまいがちです。しかし、本当はそんな人にもさまざまな「色あい」があって、見る角度によってその人は、どんな色にだって見えてくる、というのです。
愛情のない両親にも、ろくでもない教師にも、バカで利己的な同級生にも、欲望と自己愛に充満した恋人にも、愚劣で卑怯な上司にも、ほんとうはさまざまな色あいがあるのです。それは、よいことでもわるいことでもありません。人間はそのようなものである、というシンプルな叡智を児童文学は私たちに気付かせてくれます。とてもやさしく、おもしろいかたちで。
2013年7月 3日
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)再読
こんにちは。みなさまご機嫌いかがでしょうか。穎才学院教務です。本日は、三島由紀夫『金閣寺』を再読しました。昨夜、時計がてっぺんを超えてから帰宅して、どうしても本が読みたくなり、本棚の前に立ったら、ちょうど私の目の高さに『豊饒の海1 春の雪』と『金閣寺』が並んでいるのが見えました。これは、今夜は三島を読めという天啓であろう。ならば、どちらを読むか。よし、こっちだ、と思ったかどうかは定かではありませんが、私が手に取ったのは『金閣寺』。『豊饒の海1 春の雪』も大好きなのですが、なぜか読むべきはそちらではない気がしたのです。なぜでしょう。それはきっと後になってからわかるのだと思います。
さて、三島由紀夫の日本語は、サクサクかつしっとりとしていて、私は好きなのです。毎日読むものではない、でも決まったときには必ず読みたくなる。それが私にとっての三島由紀夫の日本語です。
京都、清水寺の近くに「天」というカフェがあります。私は京都に行くと、必ずそこのコーヒーか抹茶オレが飲みたくなります。コンペイトウといただくコーヒーは芳醇で、抹茶オレはその日の気分でケーキをあわせていただきます。
古典というのは、その作品について自分で触れたり人から聞いたりしてよく知っているつもりになっていながら、実際に読んでみると予想を上まわる、今までに誰も書いたことのない作品だと思える、そんな書物のことである、と言った人がいます。
三島由紀夫の『金閣寺』も、そのような古典のひとつです。読むたびに、読み手の技術と成熟とにあわせて、異なる表情を見せてくれるのです。
語り手である「私」が、放火した金閣の様子を眺める場面に、このような表現があります。
身を起こして、はるか谷間の金閣のほうを眺め下ろした。異様な音がそこからひびいて来た。爆竹のような音でもある。無数の人間の関節が一せいに鳴るような音でもある。
作家の浅田次郎は、三島のレトリックを「小説の域をこえた詩人のものである」と評していますが、燃え上がる金閣の発する「音」を、このように物語るこの箇所は読んでいて、優美で、不気味な感じがします。静かに美しいために背筋が冷たくなる、と言ってもいいでしょう。『金閣寺』は、そのような不気味なほど美しい文章の群体です。それは、ミケランジェロの大天井画のように、壮大なスケールの芸術を構築しているようにも見え、無性生殖によって増殖した多数の細胞が一つの固体として、うぞうぞと蠢いているようにも見えます。このような文体を持つ作家は、他に多くはいないでしょう。この文体が、私にとっては「クセになる」のだと思います。
ところで、『金閣寺』は今年の「新潮文庫の100冊」に選ばれたようです。キャンペーンのサブタイトルは「あなたの一行に出会おう」です。『金閣寺』では、浅田次郎が「ワタシの一行」を選んでいます。果たして、どこを選んだのか…、興味のある方は新潮社のHPへどうぞ。
そして、それよりも『金閣寺』をお読みでない方で、『金閣寺』ってどんな話かな、三島由紀夫の日本語って言うけど、実際どんなものよ、と少しでも関心をかきたてられた方は、ぜひ本を手に取ってみてください。
2013年7月 2日
『夢の守り人』(新潮文庫)再読。
こんにちは。東京は今日も心地よい天気です。みなさまお元気ですか。ここのところ、上橋菜穂子先生の『夢の守り人』を持ち歩き、ちびりちびりとよんでいます。これまでに5回ほど通読し、日ごろから少しずつ好きな場面を読んでは味わっているので、文庫の表紙が擦り切れてしまいました。修理して、これからも読み続けたいと思っています。
『夢の守り人』(ゆめのもりびと)は、上橋菜穂子先生の『精霊の守り人』シリーズの第三作目の物語です。過酷な運命を背負い生きる女用心棒の「バルサ」や、数奇な運命に翻弄されつつも賢く成長す新ヨゴ国の皇子(『夢の守り人』では皇太子)「チャグム」らを中心とする物語である『精霊の守り人』(せいれいのもりびと)シリーズですが、『夢の守り人』ではバルサの幼馴染で呪術師の「タンダ」の奮闘が描かれます。
新ヨゴ皇国で、人々が眠りにつき目覚めないという奇病が発生します。「タンダ」とその師「トロガイ」は、その原因が人の夢を餌にして咲く、異界の「花」にあることを確かめますが、病におかされた少女を助けようとした「タンダ」は「花」に囚われ、その意思により操られる「人鬼」と化してしまいます。女用心棒の「バルサ」は幼馴染を救うため、自分の腕と手持ちの武器、そして信頼できる仲間を頼りとしながら、命をかけて戦います。「バルサ」や「タンダ」たちの心の絆は、生きたいという人間の意思は、果たして「花」の魔力に打ち勝てるのか、というのが物語の大筋です。
物語の終わりで、「タンダ」は師である「トロガイ」の言葉を思い出します。
呪術師になるような者はね、一度は、自分の<魂>にふりまわされ、ぎりぎりの縁まで、行っちまった経験があるもんさ。
(中略)
だけどね、そのとき死んでしまわずに、わしのような師に出会って、いったん呪術師の仲間入りをした者は、こんどはなかなか死なないもんさ。生と死の狭間の針のようにほそい縁を踊って歩いて見せるようなしたたかさを、いつのまにか身につけてしまうからね。
タンダ、よくおぼえておおき。おまえのような呪術師見習いはね、呪術にのめりこんで行けば行くほど、闇しか見えなくなっていく。普通の人には見えない、その世界こそが、真実の力ある世界なんだと思い込む。……そして、ふつうの人びとを、軽くみるようになる。
だがね、ほんとうの呪術師なら知っているもんさ。夜の力と昼の力が、たがいに補いあっていることを。……いつか、おまえも知るだろう。魂の見えない、普通の人びとのしたたかさを。――あたりまえの日々を生きていける人びとの、強さをさ。
ここで、トロガイ師が語っているのは、私たちの生には「夜の力」と「昼の力」との均衡がある、ということです。二つの力が均衡しているときには、正の電気と負の電気が互いを打ち消し合うように、特別な力の無い、ありふれた日常のように見える、と言うのです。そして、そのありふれた日常を生きる人びとはしたたかで強い、と言われています。
これはとても大切なことだと思います。ありふれた日常を、喜んだり怒ったり、愚痴をいったり心躍ったりしながら暮らすことができる、というのは「ふつうの人びと」の持つ「したたかな強さ」です。強さというのは、何も特別な技能や資格を有することではありません。感情をコントロールし、精神的にタフになることではありません。喜怒哀楽に溢れた、悲喜こもごもの日常を生きていることが、強さであると言うのです。トロガイ師が言うように、私たちはこの強さを軽く見てはいけません。
また、トロガイ師は、タンダに対して、次のようにも言いました。
そんなしたたかな人びとでも、ふっと迷うときがある。昼の力ではおさえておけない夢をかかえることがある。――呪術師はね、そんな人たちが、思いっきり飛ばしてしまった魂を、死の縁ぎりぎりのところから、連れ帰らねばならない。
夜の力と昼の力の境目に立っている、わしらはね、夢の守り人なのさ……。
師が言うように、私たちは時に迷い、心ここにあらざるフワフワとした不安な状態に陥ることがあります。日常を放り捨てて別の土地に行ってしまいたくなったり、心地よい「夢」に誘われて現実に戻りたくないような気分になったり、そのような経験は、多かれ少なかれ、私たちが日常的に経験するところです。そのようなときに私たちは「魂」を飛ばしてしまっているのだ、とトロガイ師は物語ります。不安な状態というのは、必ずしも苦痛に溢れたものではなくて、甘く優美な夢のような浮揚感を伴うものである、ということがあるのです。ホームドラマで描かれる、親の制止を振り切って、若者が欲望する青春というのは、たいていはこのような甘美な不安です。精神医学的には、夢を見ている人と、覚醒して現実を生きている人との間には、あまり大きな違いはありません。『夢の守り人』(新潮文庫)の解説で、脳科学者の養老孟司は、夢を見ているときの脳は、脳波でみるかぎり、起きているときと区別がつかない、と説明しています。ですから、私たちは起きているようで夢の世界にさまようように迷ってしまうことがあるのです。このように、現実というのは、実は結構おそろしい、不気味なものである、ということを物語は私たちに教えてくれます。
私たちが不気味な夢に引っ張られてしまうときに、私たちを日常に引っ張り戻してくれるのは、一度は闇の縁まで行くような苛烈な体験を経た、術者です。術者は異能者でもありますから、私たちとは異なる世界に住んでいます。そのような術者=異能者の存在が、私たちの生にとり必要であることは、多くの物語が繰り返し物語っていることです。
物語を読むときに、そのような人類学的な構造に注目して読んでみるのも、とてもおもしろいことだと思います。
2013年7月 1日
「うまくでぎねぇ子は、決して連れて来てはなんねぇ」:川崎八重の「やさしさ」
こんにちは。梅雨の中休みか、今日も空は青く澄んでいます。みなさま、お元気ですか。昨日(6月30日)で、2013年上半期が終わりました。早いもので、もう7月です。
本年のNHK大河ドラマ『八重の桜』は、昨日放送分の「八重、決戦のとき」(第26回)で前半のクライマックスを迎えました。会津若松戦争の悲劇を描くこの放送回は見る方の心を強くうったでしょう。
これまで『八重の桜』を通して、主に描かれてきたのは、生まれながらの過酷な運命や突如として現れる残酷な宿命に翻弄されながらも、それと向き合い、自分のためでなく、「他の何か」のために生きる人々の姿です。ここでいう「他の何か」とは、エマニュエル・レヴィナスの言葉によれば、「存在するとは別の仕方で(autrement qu'être)」私たちの前に「現われる」、「存在とは別のもの(l'autre de lêtre)」のことで、「八重、決戦のとき」(第26回)のときの川崎八重にとっては、弟の三郎であり鳥羽・伏見の戦いで損なわれた会津の人々のことです。八重は、亡くなった三郎や会津の仲間たちを自分が生きるために都合よく思い出し利用するのではなく、残響する彼らの叫び声や思いに耳を傾けて、会津のために生きる責任が自分にはあると主張します。私には、『八重の桜』というフィクショナルな話が、そのようなストーリーとして物語られているように見えます。
物語では、さまざまな会津の人々の、さまざまな生き方が描かれます。その中で、八重の生き方は、「無駄に死んではなんね」という言葉で表されていました。
「八重、決戦のとき」(第26回)では、八重が会津城で戦争に動員された少年兵たちを率いて、鉄砲隊を指揮し、戦う、という物語が描かれます。そのときに八重は、敵が目前に迫る中でも少年兵たちに小銃の扱い方を教えます。そして、いざ実戦に及ぶ段になると、味方に対して「うまくでぎねぇ子は、決して連れて来てはなんねぇ」と釘をさすのです。この言葉は、カメラが八重役の綾瀬はるかさんの表情をアップで捉えながら、見るものにしっかりと印象を残すように語られます。八重が、(弾込めなどの小銃の扱いが)うまくできない子は、決して連れて来てはならない、といったのは、窮地においても少年兵の命を大切にしているからだ、と私には思えます。
前線で、敵の激しい砲撃を受けながら、鉄砲隊を率いて戦う際には、「さすけね(大丈夫だ)、わだすがいっしょだ(私がいっしょだ)」と少年たちに語りかけます。ここでいう「わだす」とは、会津藩随一の砲術家、山本覚馬(やまもとかくま。物語の時点では、京都で病にたおれています。)の妹で、砲術の専門家としての「私」です。怯えて腰がひけてしまっては、助かる命もたすからない。そのように考えた八重は、砲術のカリスマとして隊を率いる自己の役割を活かして、子どもたちを鼓舞しました。それもまた、ひとりでも多くの命を死から遠ざけるための知恵であった、と私には見えるのです。
また八重は、戦いの最中、少年兵たちに対して握り飯と味噌汁を食べさせる、ということも忘れません。握り飯と味噌汁をうまそうにかきこむ子どもたちに対して、次の戦いに備えるよう諭したあと、八重は「あわてなくていいから、のどつまらせっから」と母のような気づかいを見せるのです。
子どもたちの命を思いやり、飯の世話をする。そのようなフェミニン(女性的)な在り方が、『八重の桜』の川崎八重には見て取れるように、私には思えます。いま20代から30代の女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である、そうです。女性が異性としての男性を結婚相手、生涯のパートナーとして意識するとき、料理ができて子育てに積極的に参加してくれる、ということが必須の条件としてあげられる、というのはよくわかります。家族や仲間のために飯の支度を整え、弱いものを慈しみ育もうとする、ようなパートナーを若者は求めています。
知性について、学歴の高さや優れた資格を有するというような指標でなく、他者に対する姿勢・心構えの美しさという視点が大切なのではないか、という考えをみなさまにお伝えしたことがありました。『八重の桜』の川崎八重(新島八重)のような、どんなときでも、子どもたちの命を思いやり、お腹を空かせてはいけないと飯の世話も欠かさない、というようなフェミニンな(あるいは「おばちゃん的な」)やさしさを持った人が、たくさんいればいいなあ、と思わずにはいられません。冷徹なエリートよりも、心やさしきおばちゃん。そのような人こそ、私たちが幸せに生きるために、世の中で必要な人間です。
そして、最後に。
白虎隊や少年鉄砲隊のやむない従軍のような、残酷な宿命に子どもたちが晒されることがありませんように。
私たち大人は、平和について、何を積み増していけばいいのか、丁寧に考えていく必要があるのかもしれません。