2013年6月28日
「五七五七七」と「心のぜい肉」
こんにちは、穎才学院教務です。みなさま、いかがおすごしですか。先日、俵万智さんのツイッターについての記事を書きました。その後、アマゾンで俵万智さんの本を三冊注文し、やはりそれらを読んでとても優しい気持ちになることができました。
読んだのは、『サラダ記念日』(河出文庫)、『プーさんの鼻』(文春文庫)、『あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)です。
恋の歌、家族の歌、子どもの歌…。詠まれているのは、満たされた幸せな時間だけではなく、辛く妬ましく不安で苦しい時間であったりもする。
でも、どの歌を詠んでも、心や身体の中で引っ掛かっていたものが真下にストンと落下するように、執念く心に憑りついていたモノが落ちていく気がします。
それは、『サラダ記念日』や『プーさんの鼻』の俵万智の歌も、『あなたと読む恋の歌百首』の松実啓子の歌も、大西民子の歌も、岡野弘彦の歌も、同じように思います。
「自分のなかの無駄なごちゃごちゃを切り捨て、表現のぜい肉をそぎおとしてゆく。そして、最後に残った何かを、定型という網でつかまえるのだ。」
これは、俵万智さんが、『サラダ記念日』のあとがきで、短歌を読むことについて語った一節です。確かに何を切り捨てそぎおとすかは人によるのだけれど、歌人の感性により選りぬかれた何かは、たいていの場合、美しい姿で私たちの心を打ちます。そして、ついでに私たちの心についたごちゃごちゃやぜい肉も取りのぞいてしまうのでしょう。
身体のぜい肉もそぎおとした方が、全身の感覚が鋭くなるように、心のぜい肉もそぎおとした方がスッキリきもちよくなるのかもしれません。
ランナーといっしょにジョギングすると、とても気持ちよく走ることができるそうです。それと同じように、歌人の心身の震えにシンクロすると、心を覆っているくぐもったヴェールが取れるのかもしれません。これは、私の憶測ですが。
2013年6月27日
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』読書中
こんにちは。穎才学院教務です。今日は、空のてっぺんまで透き通るようなきれいな青空になりました。みなさまは、ごきげんいかがですか。『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』読書中。もったいないので、心が落ち着いて、身体が『多崎つくる』を読みたいと言うときにだけ、本を開いています。
結果、私が『多崎つくる』を手に取り本を開いたのは一度だけ。5月8日夜から9日未明にかけてだけです。たぶん、私はこの『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』という物語をひたすらゆっくりと読んでいくのだと思います。
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』の冒頭では、名前の中に「色」をあらわす字を持たない主人公「多崎つくる」と、彼の4人の友人とのエピソードが物語られます。「多崎つくる」の4人の友人は、名前に「色」をあらわす字(赤・青・白・黒)を持っていて、「多崎つくる」が大学生になってしばらくして、彼の前から突如として姿を消してしまいます。正確に言うと、彼との交友関係を彼らは一方的に断絶してしまうのです。
そして、物語の冒頭には、「木元沙羅」という「多崎つくる」の2歳年上の恋人があらわれます。彼と彼女の関係は、多かれ少なかれ順調であり停滞しています。ちょうど、私たちの身のまわりの、たいていの関係がそうであるように。
私が5月8日夜から9日未明にかけて読んだのは、「多崎つくる」が4人の友人との理不尽な絶交を経験したことが物語られ、「木元沙羅」と「多崎つくる」との関係が描写される、というところまでです。
ここまで、私は物語に引き込まれながら、いっきに読み進めていきました。でも、私はそこで本を閉じました。それは私の身体が、そこから先に読み進めていくことに対して、ブレークダウンを設けることを求めたからです。
「多崎つくる」の友人との絶縁ような、「身近な人間の喪失」の物語は、多かれ少なかれ私たちにとって、切実で大きな物語です。いつまでも一緒にいるだろう、と信じていた仲間が、突然、去っていったり、心のよりどころとしていた人が急にいなくなったりする、というような理不尽な出来事に直面し、とまどい、身も心も深く傷つき、そのことが後の人生に小さな、でもはっきりとした、陰を落とす、ということが私たちにはあるものです。
「多崎つくる」の物語は、「木元沙羅」の言葉をきっかけに、訳のわからない絶交(絶縁)という形で彼にさしむけられた出来事を、「多崎つくる」が「聖地」(おそらくは各地に散らばった4人の旧友のもと)を訪れることで、物語りなおす、というものになるのだろう、と私は思っています。
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』は、「理不尽な別れ」に傷ついた人間が、時間を経て、自分の人生を物語りなおすことによって、その傷を癒す、という物語なのだと思います。
最後に、あまり読書が得意でない、という方へ。
本を読むということは、とても楽しいことです。文学に親しむことは、私たちにとり、とても大切なことだと言われています。中国の歴史家である王沈によれば、魏の時代の人、曹操は昼は国家経営に励み、夜は本を読んで倫理・道徳を学び、一方で、文学に親しむことを部下にも奨励し、景色の良いところに赴けば詩を作り、音楽に乗せてそれを歌い上げたそうです。実際に彼の遺した漢詩を読むと、力強さと憂いの同居した、人間的な奥ゆかしさを感じずにはいられません。武人であり、且つたくさんの文学を愛し、それを身に付けていた人だからこそ、詠い得た詩である、と思います。
村上春樹ほどのポピュラーな作家になると、彼の本を持っている、彼の本のタイトルを知っているというだけで、本を読み味わうことの代わりにするような人々がいるだろう、と思います。でも、それはあまりに勿体ないことです。これまで文学にあまり親しみがなかったという方には、一生懸命に仕事をしたあとの時間に、たくさん勉強したあとの時間に、少しずつの時間、本を手にとって、自分自身の身体を通してそれを丁寧に味わい、文学に親しまれることをおすすめいたします。ぜひ、ともに物語を読む楽しみを味わいましょう。
2013年6月26日
「ツイッター」と「毒」と「資糧(かて)」
こんにちは。穎才学院教務です。梅雨空が続きますが、みなさまお身体にお変わりはないでしょうか。
本日、歌人の俵万智さんがツイッター・アカウントをお持ちであることを知り、早速拝見しました。
正直に申し上げて、読んでいて幸せになるツイッターを初めて見ました。さらに正直に申し上げると、そのように強く感動したのは、私がこのところツイッターやフェイスブックにアップされる記事などに傷つくという経験をしていたことと関係があります。ですが、そのことを差し引いても、俵万智さんがツイッターには、私たちの心を安らげ、ささくれのような心の細かい傷を労わってくれる、素敵な言葉があふれてる、と私は感じました。
歌人である俵万智さんは、日ごろから、さまざまな助詞や名詞や形容詞に揉まれて暮らしておられるのだと思います。そのような歌人の、丁寧に紡がれた言葉は、その言葉を読む者にしっかりと伝わり、読む者の心を動かします。ツイッターにアップされた、フォロワーへのちょっとした返信や顔文字を交えた柔らかい表現を見て、私はとても心が洗われました。
あらためて、思うことは言葉には「毒性を帯びたもの」と「人の心を癒すもの」とがある、ということです。それは、言葉を発する人の考えや思想の正統性に由来するのではなく、紡がれた言葉自体の姿の美しさによるのだ、と思います。
私たちの身のまわりには、毒を帯びた言葉がたくさん溢れています。そのような毒を撒き散らす人たちは、自分が毒性をおびた言葉を発しているということに、たいていは無自覚です。だからこそ、邪悪であるとも言えるでしょう。私たちは、私たち自身や子どもたちを、そのような毒性を帯びた言葉から守り、心を癒す言葉のあるところへ送り出してやらなければなりません。いえ、送り出してあげたいのです。
本日、思ったことをみなさまにお伝えいたします。みなさまの心身が健やかでありますように。
2013年6月25日
2013年夏期講習広告、完成のお知らせ
こんちには、穎才学院事務の田辺真美です。
2013年夏期講習の広告が完成しました。
板橋区内を中心に新聞折り込み広告として配布いたします。
下記にリンクを貼っておきますので、ご確認ください。
大切なのは、学歴や知識の量ではありません。他者に対する「姿勢・心構え」です。
2013年夏期広告に掲載したごあいさつをご紹介します。 四月、穎才学院からは、今年もたくさんの卒業生が巣立ちました。本校の卒業生であり、東洋大学を経て、大手旅行代理店に就職した三技諒さんは、「決意したら行動すること」「感謝の心を忘れないこと」「一生懸命取り組むこと」という3つのメッセージを後輩たちに残してくれました。ここで、彼が後輩たちに示したのは、高い学歴や高度な資格を所有することの大切さでも、たくさんの知識を持つことの必要さでもありません。三技さんが示してくれたのは、物事に取り組んだり、他者に対したりするときの「姿勢」「心構え」です。私は、この春からジャック・ラカンとエマニュエル・レヴィナスという偉大な哲学者の残したテクストについて学んできました。私の師とともにテクストを読みすすめた私には、そこに書かれていることが、三技さんが残したメッセージと一致するように思えてならない時が何度もありました。一人ひとりの子どもたちと丁寧に向き合い、スタッフ・講師全員への敬意を忘れなかった三技少年は、いつのまにか、人として大切な「姿勢」「心構え」を備えた立派な新社会人となりました。
人間の知性を、学歴や資格といった「社会的評価の高さ」や「知識の多さ」によって表現しようとする人がいます。そのような人たちは、学歴や所有する資格やペーパーテストのスコアなどで表現するような「知性」しか知らないのかもしれません。言うまでもなく、人間の知性とは、そのようなものではありません。友達との約束を裏切らない誠実さ、どうしても弱いものを助けずにはいられない優しさ、傷ついた人の痛みに思いをよせることができる心の豊かさ、そのような人として大切な「姿勢・心構え」です。
友を裏切らない誠実さや、弱いものを助ける優しさ、傷つき辛い思いをする人を思いやる心の豊かさが人間として大切である、ということは私たちの世界で繰り返し物語られてきました。このような知性を持つ人が、師につき対話しながら、丁寧に学ぶ姿勢を身につければ、その人は、人の弱さも強さもひっくるめて受け止めることのできる、大人になることができるでしょう。子どものころは、自分の弱さを知らなかったり、知っていても、それを受け入れることができなかったりするものです。ひとくちに、弱さも強さも受け入れる、といっても、その過程には痛みがともない、そのためには長い時間をかけることが必要です。してはいけないのは、自分の弱さを自分から切断するようにして捨ててしまうことです。失敗したときには、失敗した弱い自分もしっかりと受け止めてあげなければなりません。新しい環境で、新しい目標を見つけることも、新しい仲間を作ることも結構ですが、自分といつもともにいる弱い自分を受け止めて、手持ちの道具を大切に使い、身近な古い仲間と手を取り合って、丘の向こう側へと歩みをすすめる、ということがまずは大切です。
三技さんをはじめとして、穎才学院の卒業生は、そのような人間として大切な「姿勢・心構え」をしっかりと身に付け、巣立たれたのだと思います。それは、彼らを支えてくださった保護者の方たちの愛情、毎回の授業で熱心に指導をしてくれた東大生講師たちの心配りがあったからこそ、できたことです。卒業生の将来が幸せなものであり、在学している後輩諸君が彼らと同じように立派な人間になられることを願ってやみません。
穎才学院教務