2010年6月22日
【土佐日記 現代語訳】門出
男がすると言う日記というものを、女もしようと思ってするのである。ある年の陰暦一二月の午後八時頃に、出発をする。その時のことを、少し書きつける。ある人が、地方勤務の四・五年の任期を終えて、決まった雑務などの事務もすべてし終わって、解由状なども取って、住んでいた邸からも出て、船に乗ることになっている場所に移る。あの人や、この人、知っている人知らない人が見送りをする。長年の間、親しくつきあっていた人々が、別れをつらく思って、一日中、あれやこれやして、騒いでいるうちに夜も暮れてしまった。
二十二日日に、和泉の国までと、旅の無事を祈って、神に願を立てる。藤原のときざねが、船旅ではあるが、馬のはなむけをしてくれる。身分の上中下すべての者が、すっかり酔って、たいそう不思議なことに、(腐りにくい)海のほとりで(腐るというのではないが)ふざけあっている。
2010年6月19日
【蜻蛉日記 現代語訳】うつろひたる菊
9月ごろになって、(兼家が)出て行った時に、文箱が置いてあるのを、手なぐさみに開けて見ると、よその女のもとに送ろうとした手紙がある。おどろきあきれて、「見」たとだけでも(兼家に)知られようと思って、書きつける。うたがわしい、あなたがよその女に渡した手紙を見ると ここへあなたが来るのは途絶えようとするのだろうか
などと思っているうちに、どうしようもなく(なるほど案の定)、十月末ごろに、三晩たびかさなって姿を見せないときがあった。何事もなくて、「ちょっとあなたの気持ちを試してみる」などと思っていると(時間が過ぎてしまって)思わせぶりである。
ここから、夕方ごろに、「宮中に行かざるをえないのだった。」と(兼家が)言って出ると、(私は)納得できないで、人にあとをつけて調べさせると、「町小路であるどこそこに、泊まりなさる。」と来た。思った通りだと、とてもなさけなくつらいと思うけれども、言う手段も分からないでいるうちに、二、三日ばかりあって、明け方に、門をたたくときがある。来たのであるようだと思うけれど、つらくて開けさせないので、(兼家は)例の女の家らしきところに行ってしまった。
早朝に、ただではすまされないと思って、
嘆きながらひとりで寝る夜が明ける間はどれほど長いか知っているでしょうか、知らないでしょうね
と、いつもよりは注意をはらって書いて、盛りのすぎている菊にさし結んだ。返事は、「夜明けまでも試みようとしたけれど、急ぎの召し使いが来合わせたので(行かねばならなかった)。もっともなことだよ。
なるほどそのとおりだ、冬の夜ではないまきの門をなかなか開けてくれないのはつらいことだったな」
それにしても、まったく不審に思うほどに、しらばっくれている。しばしば、こっそりしている様子で、「内裏に。」などと言いつづけているのが当然なのに、ますます不愉快に思うことは、限りないことよ。
2010年6月15日
【宇治拾遺物語 現代語訳】絵仏師良秀
これも今は昔のことであるが、絵仏師良秀という者がいたそうだ。隣の家から火が出てきて、風が強くに吹いて火が迫ってきたので、(良秀は)逃げ出して、大通りへ出てきた。人が良秀に注文して書かせている仏の絵も(家の中に)いらっしゃった。また、衣を着ない妻子なども、そのまま家の中にいた。家の中に残っていることにも関心を持たないで、ただ逃げだしたことをよいことにして、家の向こう側に立っていた。見ると、すでに家に移って、煙・炎がくすぶりだしたころまで、そのまま向こう側に立って、良秀はぼんやりと眺めていたので「たいへんひどいことだ。」と言って、人々が来て見舞ったが、(良秀は)さわがない。「どうしたのか。」と人が言ったので、向こう側に立って、家が焼けるのを見て、うなづいて、時々笑った。「ああ、大変なもうけものをしたことよ。長年の間まずく書いてきたものだなあ。」と言うときに、見舞いに来ていた者たちが、「これはどうしたことだ。このような状態で立っていらっしゃるのか。あきれたことだ。怪しげな霊がつきなさったのか。」と言ったので、「どうして怪しげな霊が取り憑くはずがあろうか。長年の間、不動明王の炎を悪く書いてきたものだ。今見ると、このように燃えるものであったと、悟ったのだ。これこそもうけものだ。この道を専門として世間を渡ろうとするからには、無理にでも仏様だけでもうまく書き申し上げるならば、百千の家も建つにちがいない。おまえさんたちこそ、これといった才能もお持ち合わせにならないのでものを惜しみなさるのだ。」と言って、あざ笑って立っていた。 そのあとであろうか、「良秀のよじり不動」といって、今に至るまで人々が褒め合っている。
2010年6月14日
【徒然草 現代語訳】奥山に猫またといふもの(八九段)
「奥山に猫またというものがいて、人を食うそうだよ。」とある人が言ったところが、「山ではないけれども、この辺りにも、猫が年を取って変化して猫またになって、人を取って食うことがあるそうだよ。」と言う者があったのを、何とか阿弥陀仏という連歌を仕事とした法師で行願寺の近所に住んでいた者が聞いて、一人歩きをするような者は気をつけなければいけないと思っていた、ちょうどそのころ、あるところで、夜が更けるまで連歌をして、ただ一人で帰ってきたところが小川の縁で、うわさに聞いていた猫またが、ねらいすまして足下へふと寄ってきて、いきなり飛び付くが早いか首のあたりを食いつこうとする。正気も失って、防ごうとしても力も出ず、足も立たないで、小川へ転げ込んで、「助けてくれ。猫まただ!猫まただ!!」と叫べば、家々から、たいまつをいくつもともして、走り寄ってみるとこの辺りで見知っている僧である。「これはまあ、どうしてことか。」と言って、川の中から抱き起こしたところが、連歌の賞品で取った扇や小箱などを懐に持っていたのも、水の中に入ってしまっている。不思議にも助かったという様子で、はうようにして家の中で入ったのであった。飼っていた犬が、暗いけれども主人だと分かって、飛び付いてのであったということだ。
2010年6月10日
【徒然草 現代語訳】これも仁和寺の法師
これも仁和寺の法師であるが、寺にいた稚児が法師になろうとするお別れだというので、みんなで座興をすることがあったが、酔っておもしろがりすぎて、そばにあった足鼎をとって、頭にかぶったが、つかえるようになるのを、鼻をおして平らにして、顔をさし入れて(宴席に)舞ひ出ると、一座の者が面白がることこの上ない。しばし舞った後、抜こうとするが、全く抜けない。酒宴は興覚めして、どうしようかととまどった。あれこれしていると、首の回りが切れて、血がしたたり、ただ腫れに腫れてしまい、息もつまってしまうので、(鼎を)打ち割ろうとするが、簡単には割れない。(中に)響いて堪えられないので、どうしようもなくて、三本足が角の様に見える、その上に、帷子を掛けて、手を引き杖をつかせて、京の医師のもとへ、連れて行く道中は、人が怪しみ見ることこの上ない。医師の家に入って、(医者とこの者が)向かい会って座っている様子は、さぞかし異様だったであろう。ものを言うのも、こもった声で響くため聞こえない。「こんなことは書物にも見えず、口伝えの教えもない。」と言うので、また仁和寺へ帰って、親しい者や、老いた母など、枕元に集まり座って泣き悲しむが、(本人は)聞いているだろうとも思われない。
こうしているうちに、ある者が言うには、「たとえ耳鼻が切れ亡くなるとしても、命だけはどうして生きないことがあろうか。ただ力を入れて引きましょう。」と、藁しべを顔の回りにさし入れ、鼎の金を隔てて、首もちぎれるほどに引いたところ、耳と鼻が欠けて穴だけになりながら抜けた。危うい命を拾って、長くわずらいついていたそうだ。
2010年6月 7日
【ほんまに成績が伸びるシリーズ】現代文編
こんにちは。穎才学院教務主任の森本新芽(洛南高校卒 東京大学99年合格)です。
本日は、現代文の勉強法についてお話ししたいと思います。
先日、高校で現代文の勉強法について質問を受けることがありました。
質問をしてくれたのは高校1年生の生徒だったのですが、話をしているうちに彼は、
高校受験のときに国語で「どうしても解けない問題」にぶつかった、
とうちあけてくれました。
せっかくですから、その問題をもってきてもらい、私が見てみると、
なんとビックリ!!
設問の解答が問題文(文章)から発見できない問題じゃあないですか!!
問1の設問文が、文章の冒頭付近に引いた傍線部に対して
「文章全体を読んで、この傍線部で言いたいことは、どういうことか。」
といった主旨の問題…。
おいおい!それなら、傍線がその場所である必要は無いだろう!
とツッコミまずにはいられない、なんとも不親切な問題でした。
これでは、多くの高校生が、
現代文で何を勉強すればよいか、分からなくなってしまっても無理はありません。
現代文も、他の科目と同じで、
授業で勉強した法則や方法を用いて、テストで出題される文章を読み問題に答える、
という形式の科目でなければ、決して勉強をする気になどならないはずです。
別の高校で学年主任の先生が、
「現代文は勉強しても仕方がない科目だと思うのですが、実際はどうなんでしょうか」
という主旨の質問をしてくださったことがありました。
(その先生の名誉のために申し上げると、彼は優秀な数学の教員です。
ただ学生時代に国語が苦手であったそうで…。)
大人だって、勉強の仕方がわからない、と思うのですから、
高校生なら何をかいわんや、なおさらわからないでしょう。
では、現代文は勉強しても仕方がない科目なのか、
そんなことは絶対にありません。
現代文において、何を勉強すればよい(したほうがよい)のか、
次回の日記でお伝えしたいと思います!