小石川中等教育学校対策の塾

小石川中等教育学校「合格」に必要なもの

日本語運用能力と数理処理能力

穎才学院の塾生には小石川中等教育学校の生徒さんが複数名おられます。その方たちは共通して同年齢の方たちと比べて日本語運用能力が高く、数理の処理に長けています。要はロジカルな言語思考ができるということです。

「日本語運用能力」とは

日本語運用能力というのは日本語を運用する力に違いありません。当然ですね。ですから、日本語運用能力について考えるためには「日本語」そのものについて考えることになりそうです。そうだとして、話をすすめていきますね。

「日本語」とは

岩波書店の『広辞苑 第六版』では「日本語」という見出し語に「日本民族の言語。語彙や文字の点で中国語の影響を受ける。系統に関しては、モンゴル語などと同様のアルタイ語族の一つ、オーストロネシア語族の一つ、インドのドラヴィダ語族の一つなど諸説がある。特徴として、開音節、膠着形態、動詞文末語順、敬語の使用などが挙げられる。」という語釈がつけられています。三省堂の『新明解国語辞典 第七判』では「日本人が互いにコミュニケーションの手段として使っている言語。」という語釈があり、小学館の『現代国語例解辞典 第五版』では「日本国の国語。にっぽんご。」という語釈の後に言語系統に関する説明が付けられています。

「民族」とは?「言語」とは?

「広辞苑」の語釈について深く理解するには「民族」や「言語」といった概念についての理解がやはり必要です。もちろん言語の「系統」や「音節」といった言語学上の理解も要るといえば要るでしょう。「新明解」の語釈を理解するには「日本人」と「コミュニケーション」という概念について本質的な理解が要りそうですすね。「現国例」の語釈理解には「日本国」の定義と「国語」という概念についての理解とが必要。つまりは言語と人間との関係についてそれなりに理解が求められるというわけです。

「言葉」が先か、「いいたいこと」が先か。

「いいたいこと」がまずあって、それが「言葉」になって出てくるといった考え方が学校教育の場では共有されているようです。ですが、構造主義言語学以後(つまり100年前から)言語とはそのようなものではないことが知られています。先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である、そのようにさえ言うことができます。

「自由に書け」と言われても…。

「書きたいことを自由に書きなさい」とか「言いたいことを何でもいいから言いなさい」とか言われても困ってしまう、そういう経験がみなさんにもありませんか?言葉として書かれる前に書きたいことなどなく、言葉にして話される前に言いたいことなどない。だから困ってしまうんです。

何を書くか、書くまではわからない

いま私が書いているこの文章だって、そうです。私は「こういうことを書こう」「こんなことをまとめよう」と予め最後まで文章の見通しを立てて、この文章を書いているのではありません。お子様の小石川中等教育学校の適性試験受検を検討している方たちに宛てて、何かしらのメッセージを贈り届ける、そういったことはもちろん前もって決まっています。でも、私が実際にどんな文章を書くのか、それはいまこの文章を書いている私自身にもよくわからない。いや、わからないからこそ、それを楽しみながら私はこの文章を書くことができるし、ここまでこの文章を読んでくださったみなさんには、頭から終いまで見通しのきいた文章より、そういう先の見えないスリリングな仕方で書かれた文章の方がおもしろく感じられるはず。そのように考えています。

言葉は思考を表現するだけの「道具」ではない

私たちは言語表現を通して私たちの感情や思考をかたちづくっていきます。私たちが口にしたり書いたりする言語表現自体が私たちの「感情」であり「思考」であるのです。だから、乱暴な言語表現に馴染んでいる人はその感情や思考も乱暴なものになっていきます。何か言ったり書いたりした後で「誤解があったかもしれない」とか「言いたいことが上手く言えなかった」とかおっしゃる方がいます。もちろん、そういった方がおられても構わないのですが、そういった言い方はやはり詭弁です。口にしたことがあなたの「見解」であり、書いてしまったことがあなたが「言いたかったこと」なのです。後になってから、言ったことや書いたことを顧みて悔い改めるということはできるかもしれませんが、言ってしまったこと、書いてしまったことを指して「それはそういう意味ではなかった」と強弁するのは無理です。

「想像の共同体」としての「民族」「国民」

言葉はそれほど私たちにとって大切なものです。言葉の重要性は「民族」とか「国民」とかいった概念について考えてみてもわかります。例えば「日本人」というのは、どこからどこまでのことを言うのでしょうか。少し考えてみると、こういった問いが実はかなり厄介で重要な問いであることがわかります。20世紀の終わりごろ、アメリカの政治学者であったベネディクト・アンダーソンという人が『想像の共同体』という本を著しました。ナショナリズムという私たちにとっても身近な現象について研究していたアンダーソンは、私たちが「同じ言語」を使用している人たちに親和性を感じ、同時にその人たちの構成するグループに帰属していると安心するのを、まさに「想像の共同体」という言葉を使って巧みに説明してみせました。

「トロントラプターズ」ファンはアメリカ人?

私たちは何気なく「アメリカ人」とか「中国人」とかいった言い方をするようです。もっとざっくりと「外人」という言い方が選び取られるという場合があるかもしれません。でも日本語話者の中にはカナダのトロントに住んでいる人とアメリカ合衆国のボストンに住んでいる人との区別が一見してつかないという人は多いと思います。トロントにはブルージェイズというMLBチームがあり、ラプターズというNBAチームがあります。ボストンにはレッドソックスというMLBチームとセルティックスというNBAチームとがありますね。ラプターズのホームである「エア・カナダ・センター」でNBAの試合が行われるとき、アリーナにはカナダ国旗と星条旗とがかかげられます。実際、客席にはカナダの人もアメリカ合衆国の人もおられるはずですが、テレビ中継でその試合を見る私たちはなんとなくそこにいるのは「アメリカ人」であると理解するかもしれません。

「ボストンの英語」と「ニューヨークの英語」

それはボストンの「ファンウェイパーク」でボストンレッドソックスの試合を見ているファンについても同じです。実際、ファンウェイパークに訪れる人の中には観光客もいますし、アメリカ合衆国市民であるレッドソックスファンの中にも実にいろいろな出自の方がおられるでしょう。英語にもいろいろな訛り(accent)があります。ボストンのアクセントはニューヨークのアクセントと違います。ボストンはニューイングランド地方というくらいですから、文化的にイギリスの風味が強いです。それは言語についても同じで、ボストンのアクセントはイギリス英語っぽいという方もおられます。ニューヨークヤンキースのファンの中にはライバルチームであるボストンレッドソックスのことを悪く言いたいあまり、そういったボストンアクセントのことを揶揄する方もいるそうです。その意味では「ボストン人」と「ニューヨーク人」とは異なる、そういったことになるのでしょう。

言葉が人間を「区別」する

私たちがカナダ人もアメリカ合衆国市民もまとめて「アメリカ人」と呼ぶのは、彼らがみんな「英語を話しそうだから」でしょう。一方でニューヨークの人がボストンの人と自分たちとを区別するのは、ニューヨークの英語とボストンのそれとが異なるからです。やはり言語がそういった区別に影響しているということがわかります。別に「ボストン人」と「ニューヨーク人」とで何か遺伝的形質がことなるというのではありません。

「フランスの伝統」「ドイツの伝統」

実は「フランス人」とか「ドイツ人」とかいった区別もそれとほとんど同じです。両者に何か決定的な遺伝的形質の相違があって、それが人格やものの考え方に直結している、というわけではないのです。(そういった考え方をする人たちは多いようですが)むしろ、フランスもドイツも「移民」国家です。1998年にフランスで開催されたサッカーワールドッカップで優勝したフランス代表チームが、アルジェリアにルーツを持つジダン選手をはじめ、多様な出自の選手により構成されていたことは、フランスがその後20年間に経験する「多様化」と「排斥」の歴史を前もって示唆していたかのように思えます。ドイツのサッカー代表チームも「トルコ系」「ガーナ系」など、さまざまなルーツを持つ選手たちで構成されるようになりました。2017年6月現在、ドイツ代表チームを率いるのはレーヴ監督。彼に率いられたドイツナショナルチームは実に規律的で強いサッカーを展開します。そういったチームのプレイスタイルはずっと以前からドイツ代表の「伝統」とされてきたものです。そういった「ゲルマン魂」はトルコ系の選手にもアフリカ系の選手にもきちんと受け継がれている。フランスのナショナルチームは「シャンパンサッカー」という言葉でそのプレイスタイルを形容されることがあります。そういった形容をいまでもフランス代表のサッカースタイルに施す人がどれくらいいるのかはわかりませんが、その華麗なパスサッカーの伝統を受け継いでいるのはやはり多様なルーツを持つ選手たちであるのです。

言葉と「伝統」

でもやはりフランス代表チームでの共通語はフランス語、ドイツ代表チームでの共通語はドイツ語です。フランスのデシャン監督も、ドイツのレーヴ監督もそれぞれフランス語とドイツ語で話します。それはこれからも変わらないでしょう。サッカーというスポーツにおいてさえ、ナショナルチームの伝統というのはその言語に拠っている。いわんや、言語を通して世界を理解する私たちの日常においてはなおさらです。私たちの母語が日本語であるとしましょう。私たちは何気なく「日本の伝統」とか「日本人らしい考え方」といったことを口にするかもしれませんが、そういったものがあるとしたら、それは私たちが運用している日本語表現そのものによって下支えされているのです。日本人だから日本語が上手く使えるのではなく、日本語表現の理解や運用を通して私たちの思考や感情が育まれていく。それを「日本人らしい考え方」とか「日本の心」とか言ったりするのも自由ですが、そういった表現自体にも漢字・漢語という外国由来のシステムが組み込まれている。そういった仕組みになっているのであります。

私たちの母語と外国語

およそ言語の中で、外国語の影響を全く受けていない「純粋」な言語などあり得ません。どの言語も多かれ少なかれ外国語の影響を受けています。(私たちにとって未知の「未開部族」に言語や古代言語があるとしても、それは同じです。交易やそれに類するものを行わない人類というのはあり得ないからです。そういったことをするのがサルとヒトとの違いなのだから)日本語だってもちろん例外ではありません。私たちが日本語で会話をするときに熟語(「日本語」「会話」といった漢語)を使わないということはなく、そもそも最初は日本の神話だって漢字ばかりで書かれていました。

知里幸恵という女性

小学館の小学生向け国語辞典に『例解学習国語辞典』があります。その辞書の表紙には編集者として金田一京助先生のお名前を見ることができます。金田一京助先生はアイヌ語の研究者です。金田一京助先生はアイヌの神の神話(カムイユーカラ)を知里幸恵という女性の名で出版しました。その本は『アイヌ神謡集』という名で上梓されました。満足な辞書すらないときに金田一京助先生はアイヌの土地をその足で歩き、アイヌ語の研究を一からはじめます。しかし、アイヌ語にはわからないことばかり。主語が複数形であるとき複数形をとれる動詞が述語で複数形にならない。金田一先生がどれだけ考えてもわからないこの問いに対し、アイヌ人であり日本語が堪能な知里はあっという間に答えを示して見せます。「馬から落馬する」とか「頭痛が痛い」とかいうように、2つ同じことを続けるのは変でしょう。それと同じで主語で複数であるのを示しているなら、述語で複数であるのを再び示す必要はない。知里幸恵はそのような説明を金田一先生にして見せたそうです。

「日本語の研究なんて一文にもならない」

金田一京助先生の奥様は生活が貧しいとき、そのように息子に愚痴ったそうです。そうです、金田一春彦先生です。金田一春彦先生は高校生のころ音楽に凝っていました。でも春彦先生はピアノが上手に弾けませんでした。作曲家を志そうともした春彦先生が行ったのは、日本語のアクセントの研究でした。父上の京助先生は岩手出身で、随分と時間がたっても東京の日本語の発音が上手ではなかったのです。その点、春彦先生は耳が良かった。大学生のころから、春彦先生は優れた研究成果を残します。春彦先生のアクセント研究は戦争でいったん頓挫しますが、戦後ふたたび春彦先生の研究は進みます。春彦先生が戦後に日本語アクセント研究を再開する一方、京助先生は国語審議会で常用漢字の策定、現代仮名づかいの制定といった重要な事業をつみあげます。京助先生がアイヌ語を研究したのは日本語を研究するため。でもその先生が若いときに憧れたのは文学としての短歌でした。春彦先生が日本語のアクセントを研究したきっかけは、高校時代に歌を作曲するため。おふたりとも日本語研究や国語研究から始められたのではないのです。

「ライター」「ロシア語」「言語学」

春彦先生には娘さんがひとり、息子さんがふたりいらっしゃいます。長女の真奈美さんは子供たちの中でひとりだけ春彦先生から日本語の書き方を教わったそうです。その真奈美さんはライターや原作者として、日本語の文章を書くことをお仕事にしていらっしゃる。長男の真澄さんは半導体の研究をする理系学生でした。でも今は慶應義塾教授としてロシア語の研究をされています。次男の秀穂先生は言語学者です。ときどきテレビにも出ていらっしゃいますね。みなさん、言葉に関するお仕事をされている。でも、どなたも父上である春彦先生やおじいさまである京助先生からそういうことをしろ、と言われたわけではないそうです。

自分が何をするかなんて、わからない

その道できちんとした仕事をしていくためには、相当のエネルギーが必要です。そのエネルギーの源は何でしょう。それはもちろん人によって違うと思います。でも、誰かに命じられるなり、金のためにするなり、そういった仕方というのは何かに打ち込むのに欠かせない膨大なエネルギーをたたきだすには余りに貧弱です。秀穂先生は東大を卒業してから、3年間ずっと働くでも学ぶでもなく、本ばかり読んでくらしていたそうです。いや、違いますね、本を読むかパチンコをするか、それだけで暮らしていらしたそうです。そんな秀穂さんは東大の近く、菊坂を上がった右手にあるパチンコ屋さんで遊びに耽っていたときに、何か身体の中からグラグラと湧き上がるものを感じたそうです。人間について調べたい、言葉について研究したい、そういった欲求と言うか衝動と言うか、そういったものが秀穂先生を衝き動かしたのだと思います。そのとき、春彦は初めて秀穂さんにアドバイスをしました。文化人類学の研究で世界中をとびまわるなら、その生活費を稼ぐために世界で日本語の教師をすればよい。ちょうどそのころ、世界中で日本語の勉強をする若者の数が増えていました。秀穂先生は世界中をフィールドワークで渡りあるくかたわら、そこで日本語を地元の人たちに教えます。そうして帰国した秀穂先生は日本語の研究者になっていました。

子供たちへの願い

金田一ファミリーの教育が特別に優れているわけでも、そのご家族のみなさんの人格が際立ってすばらしいわけでもありません。(ゴメンナサイ)でも、金田一春彦先生のお子様であるみなさんにそろって備わっているのは、ただ金のためではなく、ただ個人の名誉のためでもなく、それぞれが心惹かれるものに打ち込むというパワーです。私たちは、人が好きなものを自分が好きなものだと誤解します。生活を豊かにしてくれるものを、やはり好きなものだと誤解します。でも、そうではないのです。みなさん自身がおわかりのとおり、私たちが好きな物について私たちは実に遠回りをしたあとにようやくそこにたどり着くということがある。もちろん、いまの世の中、生きていくのにお金は必要です。でも、生きていくために勉強するというのは、ちょっと違う。勉強できない人だって、生きていてよいからです。勉強って、そういうことのためにするものではない。私はそのようにさえ思います。

私はこの文章の冒頭で、小石川中等教育学校の「合格」に必要なのは日本語能力と数理処理能力だと言いました。それは「将来、食っていく」ために必要なのではありません。人間について、世界について、本質的に研究し理解を深めるために必要な能力として挙げたのです。(日本語以外の言語が母語、あるいは母語のようなものである方は、その言語の運用能力と数理能力であるとしてお読み替えください)小学生だって、人間について、世界について、いろいろと思いを巡らせることがあります。学校にいって、ずっとそんなことばかり考えているという方もおられるでしょう。そういった方こそ、どんどんその考えを深めていってほしい。そういったことのために母語言語運用能力と数理処理能力とを培ってほしい。小石川中等教育学校の適性検査を作成する先生たちはそういった願いをお持ちでしょうし、私もそういった願いをもってやみません。

塾での指導内容が的中!

穎才学院では、塾内に「図書館」を設置し、生徒に本を積極的に貸し出しています。そこに置かれている本は児童文学やジュニア新書といったものから、純文学や古典まで様々で、私たちは日ごろから、生徒に本を読むことのおもしろさと大切さを伝えるように努めています。平成28年度小石川中等教育学校「適性検査1」は、本を読むことの大切さと面白さを子供たちに宛てて伝えようとする文章が本文として採用されました。
 平成28年度小石川中等教育学校「適性検査1」は、文章1が菊田まりこ先生の「本は心の友だち」という文章によるもの、文章2は茂木健一郎先生の『ある時脳ははばたく』によるものです。菊田まりこ先生は『いつでも会える』や『君のためにできること』などの作品で知られる絵本作家、茂木健一郎先生はテレビなどメディアでの活躍が有名な脳科学者です。菊田先生の『君のためにできること』は、15年くらい前に書店で立ち読みして、号泣したことがあります。もちろん買って帰りました(笑)
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平成28年度小石川中等教育学校「適性検査1」解答速報

文章1 菊田まりこ「本は心の友だち」による
文章2 茂木健一郎「ある時脳ははばたく」による

(解答例)
問題1

勝手に想像をふくらましてしまうような読書のしかた。(25字)

文字をちゅう実に追って、本の世界に身を委ねて楽しむような読書のしかた。(35字)

問題2 たくさん本を読み、先人の知識を得て、広い視野で世界を見ることができるということ。(40字)

問題3 
 文章1はお話や絵本もふくめて文学に接して豊かな想像力を育むことの大切さを、文章2は本に夢中になることの楽しさと本を読んでものを考える土台となる力を培うことの大切さを子供に伝えようとしている。
 読書が与えてくれるもの。私にとってそれはいやしだ。力と言ってもいい。辛いことがあったとき、悲しくて仕方がないとき、私は本を読む。『山賊のむすめローニャ』に出てくるローニャたちの生き方や『モモ』でくり広げられるモモたちの冒険は傷ついた私の心と身体をいやし、力を与えてくれた。ある時、父が夜中に本を読んでいる私を見つけてどうしたのかとたずねるものだから事情を話したら、私と同じ様に辛い時に本を読む人は大人の中にもいるのだと教えてくれた。その時に父に渡された内田樹という人の本には、確かに「辛いときに本を読む」と書いてあった。
 これからも、私は辛いときや悲しいときに本を読むだろう。最近、江國香織さんの本を読んだ。その本はとても素敵な本で、きっとこれからの私をいやしてくれる気がしている。

平成25年度小石川中等教育学校「適性検査1」解答速報

文章1 柳澤桂子「本を書く」

文章2 福岡伸一「鈴木少年の大発見」

(解答例)
問題1(1)文章の全体像をつかむために、その元となるものを心の中で大切に育み続けること。
問題1(2)準備された心

問題2
与謝野晶子が文学の歴史に足跡を残したように、自分自身も、フタバスズキリュウの化石の発見に関われたことで、日本の古生物学の歴史に足跡を残せたようだと改めて実感する気持ち。

問題3
私は文学が好きなので、作家になりたいと思っている。本を読んでいると、とてもわくわくして楽しいし、本には日本の物も西洋の物も、古い物も新しい物もあり、どれも私にたくさんの物語の楽しさを伝えてくれる。

私は作家になるために、私の心の中にある気がするもやもやした感覚を言葉にするのにきちんと時間をかけたい。確かに、現代社会では仕事の速さや効率が重視されることもある。しかし、私は心のなかにある文学の種のようなもやもやをきちんと時間をかけて形にしたい。文章1で言う「宝」のようなものが「固まる」時が私にも来るはずだ。また、文章2の与謝野晶子さんの和歌で言うように、文学の「殿堂」に、私も「黄金の釘」を一つでいいから打ち付けてみたい。

そうすれば、『ゲド戦記』のル=グウィン先生や『魔女の宅急便』の角野栄子先生のように素敵な物語を読者に贈り届けることができるかもしれない。素敵な物語たちが私に大切な力を与えてくれたように、私の物語が読者に力を届けられるなら、私も少しは文学の殿堂に足跡を残したころになるはずだ。

平成25年度「適性検査1」のテーマは、「形を成す前のもやもやした状態」でした。

歌手の松任谷由実さんの名曲に『やさしさに包まれたなら』があります。宮崎アニメの『魔女の宅急便』の主題歌としても有名ですね。今のお子様も一度は聴いたことがある曲でしょう。この曲は、さきにメロディーが完成していたそうです。松任谷由実(荒井由実)さんは歌詞をずっと考えていて、あるとき「目にうつる 全てのものはメッセージ」という、あの歌詞がおりてきたそうです(NHK『松任谷由実 デビュー40周年 はてない夢の旅』2012年による)。

平成25年度小石川中等教育学校「適性検査1」の文章1で出題された柳澤桂子さんの「本を書く」は、これと同じような感覚を述べた文章だと思います。文章を書くときにその全体像がつかめるまでの「もやもやとしている」状態について、わかりやすい言葉で説明されています。

私たちは言葉を用いて生活すると言われていますが、その言葉で言いたいことが上手く言えなかったり、思いもかけず上手く言えたりすることがありますよね。どうして、そんなことが起きるのでしょう。

「肩がこる」のは、日本人だけ!?

「肩がこる」という表現がありますね。実際に私たち日本語話者は、デスクワークや家事で身体に疲労がたまると自分の手を肩にあてて揉みほぐすようにしたり、肩甲骨のあたりから肩をぐるぐるまわして血のめぐりをよくしようとしたりします。しかし、このように「肩がこる」のは私たち日本語話者だけである、というおもしろい研究がありあます。『病いの視座―メディカル・ヒューマニティーズに向けて』という本にのっている小林昌広さんの論文では、肩がこるという現象は日本語を使う人の身体にしか生じないということが論じられています。例えば、英語には日本語の「肩」にあたる英語も「こる」にあたる英語もあるのですが、日本人が「肩がこる」と表現するのとほぼ同じ痛みを「背中が痛む」(I have a pain on the back.)と表現します。このように、私たち日本語話者は、「肩がこる」という言葉を発するので、肩のあたりの筋肉などがこりかたまっているように感じるのです。身体の特定の部位に痛みがあって、言葉を発するのではありません。言葉を発した結果、身体の特定の部位に痛みがあるように感じるのですね。

「言いたいこと」は「言葉」のあとからついてくるもの。

20世紀の初頭にソシュールという言語学者が、このような言葉と現象の関係を「言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ」と説明しました(『一般言語学講義』)。100年ほど前のスイスのある大学でのおはなしです。ソシュールは言語で表現される以前の状態を「星雲」のうような輪郭のない状態に例えています。私たちは夜空を見上げます。そこには星が瞬いていて星座を形作っているはずなのですが、「これがオリオン座だ」と名前をつけるまでは何がそこにあるのか全くわかりません。

私たちは、言葉で気持ちや考えを表現していると考えがちです。気持ちや考えが先にあって、それにいかに上手い言葉をあてるか、ということが問題とされることがありますね。しかし、ソシュールらによれば、それは順番が逆なのです。言葉になってはじめて、意味をなすのです。日常生活で、言葉にしてみたら思いもしないことを自分が言ってしまったという経験をすることがありますね。これは「言葉にすることで意味が生じる」、「私たちは気持ちや考えを言葉で表現しているのではない」ということの一例でしょう。ここでは、「どうして私の思っていることは上手く言葉で伝えられないのだろう」と悩むよりも、「私の言っていることは他の人にどう聞こえたのだろう」と考える方が適当であるということになります。

日本の学校教育などでは、「思っていることを上手く言葉にする」訓練を行おうとしますね。ですから、気持ちや考えが先にあって言葉が後にあると、私たちは思いがちなのです。だとしたら、良い子の作文は良い作文で、悪い子の作文は悪い作文であるということになるでしょう。でも、そうではないことは私たちのよく知っているところですね。心が清らかでも腕の悪いピアニストもいれば、嫌な奴だけどおいしいラーメンを作る人もいるのです。作家の石田衣良は「東口ラーメンライン」(文藝春秋社『池袋ウエストゲートパーク(4)』所収)という話でこのことを上手く説明しています。

小石川中等の受験には、言語以前の「星雲」のような状態を説明した文章がよくでる。

ソシュールの言う「星雲」のような状態を、柳澤桂子さんは「ふわふわとした霧のようなもの」と名付け、「宝」とも呼びました。平成25年度適性試験1の〔問題1〕は、「私の宝もそのようにして固まる」という箇所に傍線をほどこして、「このように、ものごとが実を結ぶためには、何が欠かせないでしょうか」と問うものでした。これは、平成24年度適性試験1の〔問題1〕と同じように、言葉以前の状態を説明させる問題です。東京都から公表されている解答例は「暗闇の中を、手探りではいまわっているようなものであった」というものです。このような表現をお子様が理解するためには、ソシュール的な言語理解に基づいた言語経験が必要です。もっとわかりやすく申し上げますと、自分の身体に響く文章を読み、書き写し、暗唱するような言語経験が必要であるということです。

豊かな言語経験を身に付けるには、どうすればいいのだろう。

20世紀の偉大な賢人、レヴィ=ストロースによれば人間のコミュニケーション(交換)には3つのレベルがあります。それはすなわち、「人間の交換」(親族形成)、「記号の交換」(言語活動)、「財貨・サービスの交換」(経済活動)です。ユダヤの賢人、レヴィナス老師によればこれにさらにもう1つのコミュニケーション・レベルを加えることができます。それは、「死者との交換」(葬礼)です。

葬礼というのは、「正しい礼を尽くせば死者は鎮魂されるが、誤った礼を行うと死者は鎮魂されず災いを為す」という信憑のことです。いわゆる「タタリ」の理論ですね。レヴィナス老師によれば、この信憑を持たない民族・社会は存在しません。このように、私たち人間は、「死者」すなわち「存在しないもの」とコミュニケーションする能力を大切にしてきました。葬儀において、死者の親族は弔問客の言葉を聴いて、「故人もきっと喜んでおります」と言ったり「おじいちゃんもよろこんでいるわ」と言ったりすることがありますね。これは、「故人も」、「親族も」喜んでいるわけですから、死者とこの世に生きる親族との感覚の共有です。もちろん、私たちは生きているものとも感覚を共有することができます。チーム・スポーツでは、チームメートとプレーの感覚を共有することが大切であるとされますし、器楽演奏ではパートナーとなる演奏者との感覚の共有が大切です。この様な感覚を内田樹先生は、「共‐身体」感覚と名付けました。そして、古伝のすべての「人間的教養」はすべて「共‐身体形成能力」を育むことを目的としてきたと説明されます。

「六芸」‐礼・楽・射・御・書・数 の重要性

古来、儒学では「六芸」とよんで礼・楽・射・御・書・数を教養として大切にしてきました。「礼」とは儒教においては「葬礼」のことで、「存在しない」他者とのコミュニケーションのシステムです。「楽」は音楽のことで、「もう聞こえなくなった音が聞こえ」たり「まだ聞こえない音が聞こえ」たりする能力を育みます。現代でいう「絶対音感」などが、これに近い能力ですね。「射」は弓道で「御」は馬術のことです。いわゆる「弓馬の道」すなわち「武術」のことですね。武術においては、弓や馬を異物とするのではなく、それと身体を一体化させて共に動作することが大切です。「柔道」の「柔能く剛を制す」の極意や、「合気道」の極意もこれと通ずるものだと言われます。「書」・「数」は先述した3つのコミュニケーションの中の「記号の交換」のための訓練です。いわゆる「読み書きそろばん」にあたります。

儒学の祖である孔子が、人間的教養として重視したのはこれらの「自分ではないもの(他者)と共‐身体感覚を形成する能力」でした。「六芸」のうち、現在の学校教育のなかで教えられているのは、楽と書と数だけです。それも書や数においては、論理的思考力や100マス計算法といった思考形式・訓練様式を教えるものが、はばをきかせています。その前に、共‐身体形成能力を大切に育むことを、ご家族・教職員のみなさまにはお願いいたします。

小石川中等教育学校「適性検査」受検に役立つ本

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板橋から「きちんと学べる子供たち」を育てます。

1期生(2010年卒)の第一志望中学校合格から、穎才学院の中学受験プロジェクトが始まりました。 大学受験・高校受験に関して定評のある本校の学習・指導メソッドを中学受験生にも伝えます。2013年度生で4期生を迎えた本プロジェクトは、有名中学受験塾で中学受験を経験した教務主任を中心に、気鋭の東大生講師が担当しています。


教務主任略歴

大阪市生まれ。4年生から「浜学園」に通塾。入塾時は下から4番目のクラス、最初のクラス分けテストで最上位クラスに編入され、5年生からは西宮本部教室の最上位クラス(現在のV0・V1クラス)に所属。5年生の夏季から「公開学力テスト」では、上位者掲示の常連となる。6年生進級時に「希学園」からDMで入塾の勧誘を受けるが、家族や先生・仲間と相談した上で浜学園に残留。当時、新進気鋭の講師たちと一緒に、最難関中学受験コースを完走。洛南高等学校附属中学校に入学。中学・高校の担任の指導方針を守り、中高6年間、塾・予備校には入塾せず、学校で個性豊かな仲間たちと勉学・部活動に励む青春時代を過ごす。高校2年生からの「古典」担当教諭に影響されて、古文・漢文の予習復習の面白さに気付く。その後は、古典が模擬試験での得点源となり、入学試験でも大学入試センター試験(99年度)の古文・漢文は満点(合計100点)を修めることに成功する。担任でもあった「現代文」担当教諭からは、在学中は気が付かなかったものの、人生において大きな影響を受ける。授業中に教諭の述べることを一言一句書き落とさずノートを取るということを続けたため、国語力は上昇・安定した。大学入試センター試験(99年度)の現代文パートは92点(1問ミス)で、東京大学の入学試験では国語は120点満点中100点を越える成績をおさめることができた。1999年3月、東京大学文科三類に現役合格。東京大学進学に併せて上京後は、大手中学受験塾にアルバイト講師として勤務。1年目途中から難関中学受験コースの国語を担当。同僚と中学受験生向けの自習支援プログラムを開発。初年度クラスからは麻布中学・女子学院中学・武蔵中学・雙葉中学に生徒が合格。本郷キャンパス進学に併せて、塾講師アルバイトを辞め、公立中学校・公立小学校でボランティアの学習支援活動を行う。2008年、東京大学教育学研究科で「教育学修士号」(Bachelor of Education)を取得。当時の研究テーマは「教育に功利的成果主義の導入が不可能であることの理論的証明」と「子供のために活動する教師をサポートする制度の開発のための基礎研究」。現在の課題は、板橋で地域の子供が安心て学び育つ塾を仲間のサポートを得ながら作り上げること。目標は「限られた持ち物を使い、今いる仲間と協力して、最大のパフォーマンスを発揮する」ことです。


 

大手学習塾と穎才学院はなぜ成績の伸びがこんなに違うのか?

「成績UPのために大手学習塾と個人経営の学習塾では、どちらがいいでしょう?」

そんな質問を私たちもよくいただきます。

もちろんご家庭のみなさま、生徒個人の価値観やレベルなどを考えると「人による」ということになります。

ただ、基本的に大手学習塾、特に上場していたり、多店舗展開している塾の場合「利益を出すこと」が最大の目的であるということは理解しておく必要があると思います。

金儲け主義はだめだというのではありません。

利益を追求している会社ということであれば、子供たちの何十年も夢を与えつづけている東京ディズニーランドもそれと同じです。

利益を追求するということは効率を最大にすることです。

つまり、いかに安い人件費で、多くの生徒を抱え、高い合格率を出すか?これにつきます。

そうなると、画一的な動画教材で、一般的な大学生アルバイト講師を採用し、多くの生徒に一人の講師をあてがい、その中で有名校に合格できそうな生徒さんに集中的にケアしていくというスタイルの運営になります。

これが悪いことだとは思いません。

ただ、生徒一人ひとりの手助けをしたいと思っている私たちとは考え方が違うということなのです。

選択されるのは生徒さん、ご家庭のみなさまご自身です。

その材料として穎才学院と大手個別学習塾の違いをまとめさせていただきました。

 

指導方法完全にマンツーマンでの授業です。お子様の学習に丁寧に寄り添います。

また、毎週決まったコマ数のレギュラー授業の他に、自習室を利用しつつ、不明な点についてはいつでも質問することができます。巡回式の個別授業や映像授業が中心です。
先生が「いない」時間が発生します。

穎才学院 大手塾
講師のレベル プロ講師・東大生・東大院生

都立中高一貫校の入学試験問題で満点をとれる能力を入学後・卒業後も維持している講師陣です。

プロ講師は、内田樹氏・汐見稔幸氏などを師として学んだ学習指導のプロフェッショナルです。

アルバイトの学生・大卒者
講師の特徴 指導に対する思いが強い。普段から丁寧な言葉遣いを心掛けています。大学院生の場合は日常的に論文を執筆しています。作文指導・記述式の答案作成指導において、プロの目線から正しく指導します。
東大生なら得られる時給より少なくても穎才学院での勤務を希望しているような講師たちです。
一般的な大学生のアルバイトとして従事している先生の割合が多いのではないかと思います。募集広告を見れば、それは伺えます。
講師採用の基準 ・東大生または東大卒でであること。

・教えるということへの志しを重視して面談しています。
*東大生(および卒業生)と東大卒のプロ講師だけで運営している個別塾というのは、私どもが知る限り穎才学院以外に聞いたことがありません。

基本的には、学生アルバイトは社会的に不適合でない限りは採用されます。
一般的なアルバイトと同様、学力よりも、社会性が一定程度あるかどうか、というのが採用の基準です。
教材 生徒それぞれ個別に選定

学習の得意な方から、苦手な方まで、どんな方にもぴったりな教材を作ります。必要な場合には、図書をいっしょに購入してお子様とともに読み切ります。

学校教材・市販教材など、さまざまな教材の中から本人に適当な教材を選択します。

画一的な講座キット
生徒と先生の割合 授業時は完全に1対1です。全生徒数に対して、講師数はその3分の1程度です。 全生徒数に対して、講師は30~50分の1程度だと思います。
対象とする生徒 受験対策はもちろん、学校のテスト対策・内部進学対策・推薦受験を目的とした生徒さんにも指導しています。 塾で使われる教材に沿った指導です。

中学生になっても、高校生になっても通いたい!子供が勉強好きになる塾。

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穎才学院で学んだ生徒は、中学生になっても高校生になっても通いたい、ということがとても多いです。卒業生は、何年経っても遊びに来てくれますし、ほどんどの生徒が長く穎才学院の塾生として通塾し、大きくなっていきます。小学生に優しいお兄さん・お姉さんのような中学生・高校生がいる塾があるといいと思いませんか?先輩たちに見守られながら、子供たちはしっかりと成長していきます。