中学受験の偏差値表について

「小石川中等教育学校受験」と「偏差値」と「適性試験」

怪しげな「偏差値ランキング」が跳梁跋扈していることについて

世間には以下のような怪しげな「偏差値ランキング」がはびこっています。


<~70>
筑波大学附属駒場中学校78
開成中学校78
麻布中学校76
早稲田大学高等学院中学部75
桜蔭中学校75
駒場東邦中学校75
女子学院中学校75
筑波大学附属中学校75
慶応義塾中等部[女]74
豊島岡女子学園中学校74
慶応義塾中等部[男]73
隻葉学園隻葉中学校73
早稲田実業学校中等部73
早稲田中学校72
武蔵中学校72
青山学院中等部[女]71
青山学院中等部[男]71
海城中学校71
白百合学園中学校71
中央大学附属中学校71
東京都市大学付属中学校[2類]71
お茶の水女子大附中学校[女]70
桐朋中学校70
芝中学校70
渋谷教育学園渋谷中学校70
鴎友学園女子中学校70
立教池袋中学校70
<69~60>
学習院中等科69
吉祥女子中学校69
晃華学園中学校69
城北中学校69
巣鴨中学校69
東京学芸大附世田谷中学校69
明治大学附属明治中学校69
暁星中学校69
桜修館中等教育学校68
小石川中等教育学校68
東京都市大学付属中学校[1類]68
東京学芸大学附属竹早中学校68
東洋英和女学院中学部68
法政大学中学校68
本郷中学校68
立教女学院中学校68
穎明館中学校68
学習院女子中等科67
國學院大學久我山中学校[ST]67
攻玉社中学校[普通]67
光塩女子学院中等科67
東京学芸大学附属小金井中学校67
武蔵高等学校附属中学校67
大妻中学校67
頌栄女子学院中学校67
世田谷学園中学校66
立川国際中等教育学校66
東京学芸大附国際中等教育学校66
広尾学園中学校[本科]66
広尾学園中学校[インター]66
両国高等学校附属中学校66
九段中等教育学校65
攻玉社中学校[国際]65
創価中学校65
高輪中学校65
東京女学館中学校[一般]65
東京農業大学第一高校中等部65
富士高等学校附属中学校65
普連土学園中学校65
三鷹中等教育学校65
明治大学付属中野中学校65
明治大学付属中野八王子中学校65
江戸川女子中学校64
大妻中野中学校[アドバン]64
大妻多摩中学校64
大泉高等学校附属中学校64
共立女子中学校64
香蘭女学校中等科64
國學院大學久我山中学校[一般]64
品川女子学院中等部64
成城学園中学校64
成践中学校[一般]64
田園調布学園中等部64
帝京大学中学校64
東京女学館中学校[国際]64
白鴎高等学校附属中学校64
富士見中学校64
南多摩中等教育学校64
成城中学校63
東京都市大学等々力中学校[特選]63
山脇学園中学校63
実践女子学園中学校[スタンダード]62
芝浦工業大学中学校62
獨協中学校62
明治学院中学校62
日本大学第二中学校61
跡見学園中学校61
大妻中野中学校[一般]61
十文字中学校[スーパー選]61
東京大教育学部附中等教育学校61
東京都市大学等々力中学校[特進]61
恵泉女学園中学校61
三輪田学園中学校61
実践女子学園中学校[グローバル]60
青稜中学校60
八雲学園中学校60
<59~50>
桜美林中学校59
お茶の水女子大学附属中学校[男]59
工学院大学附属中学校59
順天中学校59
東京純心女子中学校59
郁文館中学校[特進]59
昭和女子大学附属昭和中学校58
東京電機大学中学校58
日本大学豊山中学校58
十文字中学校[進学]57
多摩大学目黒中学校[特進]57
明法中学校57
多摩大学附属聖ヶ丘中学校56
日本大学第三中学校56
八王子学園八王子中学校56
安田学園中学校[先進]56
かえつ有明中学校55
女子聖学院中学校55
東海大付高輪台高校中等部55
日本大学第一中学校55
日本大学豊山女子中学校55
宝仙学園中学校[共学部]55
足立学園中学校54
女子美術大学付属中学校54
聖学院中学校[特別]54
玉川聖学院中学校54
目黒星美学園中学校54
淑徳中学校[S特進]53
東京家政大附女子中学校[躍進]53
東京成徳大学中学校53
共立女子第二中学校52
京華中学校[特選・男]52
駒込中学校[Sアドバンス]52
佼成学園中学校52
城西大学附属城西中学校52
白梅学園清修中学校52
聖ドミニコ学園中学校52
星美学園中学校52
玉川学園中学校[国際]52
東京家政学院中学校[特別進学]52
桐朋女子中学校52
日本工業大学駒場中学校52
和光中学校52
郁文館中学校[一般]51
神田女学園中学校[特進]51
共栄学園中学校[特進]51
玉川学園中学校[一般]51
東京家政大附女子中学校[創造]51
トキワ松学園中学校51
富士見丘中学校51
文京学院大学女子中学校[特進]51
目白研心中学校[特進]51
川村中学校50
啓明学園中学校50
成立学園中学校50
多摩大学目黒中学校[進学]50
中村中学校50
文教大学付属中学校50
目黒学院中学校50
明星中学校50
安田学園中学校[総合]50
<49~40>
京華中学校[中高一貫・男]49
国立音楽大学附属中学校49
麹町学園女子中学校[普通]49
国士舘中学校49
駒込中学校[アドバンス]49
淑徳巣鴨中学校[特進]49
修徳中学校[特進]49
帝京中学校49
戸板中学校49
東京家政学院中学校[総合進学]49
東京女子学園中学校49
聖学院中学校[一般]49
文化学園大学杉並中学校49
文京学院大学女子中学校[文理]49
明星学園中学校49
和洋九段女子中学校49
共栄学園中学校[進学]48
北豊島中学校48
桜丘中学校48
聖徳学園中学校48
瀧野川女子学園中学校[特進]48
日本橋女学館中学校[難関大]48
武蔵野女子学院中学校48
立正大学付属立正中学校48
実践学園中学校48
小野学園女子中学校47
サレジオ中学校47
淑徳巣鴨中学校[進学]47
松蔭中学校47
自由学園中等科[女子部]47
自由学園中等科[男子部]47
帝京八王寺中学校47
武蔵野東中学校47
京華女子中学校46
国本女子中学校46
京北中学校46
駒沢学園女子中学校46
佼成学園女子中学校46
杉並学院中学校46
千代田女学園中学校46
東京女子学院中学校46
日本学園中学校46
目白研心中学校[選抜]46
桜華女学院中学校45
淑徳SC中等部45
駿台学園中学校45
八王子実践中学校45
文華女子中学校45
藤村女子中学校[普通]45
神田女学園中学校[総進]44
村田女子中学校44
成女学園中学校44
清明学園中学校44
貞静学園中学校44
新渡戸文化中学校44
上野学園中学校[音楽]43
上野学園中学校[普通]43
修徳中学校[普通]43
瀧野川女子学園中学校[進学]43
東京立正中学校43
東邦音楽大学附属東邦中学校43
東海大学菅生高校中等部43
日本橋女学館中学校[進学]43
日出中学校43
武蔵野中学校43
愛国中学校42
東星学園中学校42
※複数の中学受験サイトを参考に作成


 まず、このような偏差値表は誰の利益のために作られたものか、と考えてみると、どう考えても「中学校で一生懸命勉強する子供たちの利益のため」あるいは「まだ見ぬ中学校生活・高等学校生活を楽しみにしながら、丁寧に学習に取り組む中学受験生の利益のため」とは思えません。

 開成中学校と麻布中学校は、「76」という偏差値であるとこの偏差値表は言うけれども、では開成中学生と麻布中学生はどれほどにも違わないというのか。愛国中学校と東星学園中学校は、「42」という偏差値であるとこの偏差値表は言うけれども、ではそれぞれの中学で学ぶ生徒たちは、日々どのような表情をしているのか。

 そのようなことは、世にはびこる怪しげな「偏差値表」とやらからは、微塵も読み取れません。そのような「偏差値表」というものは、いったい誰のために、どんな人のために作られているのでしょう。少し考えを深めてみることしましょう。

カロリー計算表・カロリー消費表は何のために存在するか。

 「偏差値表」とよく似たものに、カロリー計算表・カロリー消費表というものがあります。どのような食品を摂取すると、どの程度のカロリーを摂取することになり、どのような運動を一定の時間行うと、どれくらいのカロリーを消費するようになるのか、という目安となる表です。

 では、私たちがカロリー計算表やカロリー消費表を使うのはどのようなときでしょう。それは、ダイエットをするとき、何らかの理由から栄養の管理を行う必要があるときなどでしょうね。食事や運動を楽しむために、私たちがカロリー計算表・カロリー消費表を使うということは、まずありえません。また、カロリー計算表・カロリー消費表を利用することで、私たちが食事や運動の大切さを理解するということも、ありえないことでしょう。

 では、何のためにダイエットや栄養管理の際に私たちが、カロリー計算表・カロリー消費表を利用するのかと言えば、それは「何をすればどのような結果になるのか、行為と結果の関係をわかりやすく理解したい」という私たちのニーズを満たすためです。「昼食をチキンカレーにすると、いったいどの程度のカロリーを摂取することになるのか」とか、「平均時速8キロで1時間ランニングしたら、いったいどの程度のカロリーが消費されるのか」とかいった問いに答えるときに、カロリー計算表・カロリー消費表はとても便利です。このように、カロリー計算表・カロリー消費表は、私たちの「行為」と「結果」の関係をわかりやすく理解するために使われるわけです。

「『コスト』を支払うなら、『プラス収支』で終わるようにしたい」と考える人々

 ダイエットをするのは辛いことだ、と考える人がいるでしょう。栄養管理には、それに見合った成果が伴うべきだ、と言う人もいるでしょう。このような考え方は、自分自身が支払った「コスト」に対して、将来の自分自身に宛てて「支払ったコスト以上の対価」が贈られることを期待する、というものです。この考え方は、私たち人間が「貨幣」というものを手にしてから、ずっと貨幣経済社会の「常識」であると考えられています。「貨幣で支払う」、つまり「コストを支払う」なら、その後で「少なくとも支払った貨幣に見合う利益や成果」、つまり「支払ったコスト以上の対価」が得られるべきだというのは、貨幣経済の常識として疑いようがありません。

 しかし、私たちは「お金で買えないものがある」ということも知っています。困ったことがあったときに相談に乗ってくれる友人はかけがえがありませんし、少年少女時代の思い出というのは決して後から取り戻したり、塗り替えたりすることができるものではありません。ですから、「私たちにとって大切なもののいくらか」は確実に、貨幣という計数的な単位に置き換えることのできないものなのです。

「子供(あるいは人間)の成長を金で買えない」のは、どうしてか。

 私たちが「貨幣による支払いの対価として成長する・成熟する」ということは、ありえません。なぜなのか。このことについて考えるきっかけとして、「成長した人・成熟した人」のありさまについて検討することにしましょう。

 「成長した人・成熟した人」とは、どのような人間なのか。この問いに対する解答はさまざまでしょう。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、「存在するとは別の仕方で存在する」ものによって私たちは成熟へと導かれるということを説きました。このような場合、私たちの行為は私たちでない存在に宛てて贈られることになります。すなわち、私たちの努力は将来の私たち自身に宛てて対価として返還されるものではないわけです。

 このことについて、レヴィナスの『困難な自由』などを翻訳した哲学者の内田樹は、私たち人間が働くということについて、「報酬はつねに集団によって共有される。個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的な努力は集団を構成するほかの人々と利益を分かち合うというかたちで報われる。」と述べています(内田樹「「無人島ルール」を知っていますか?」による)。

 また、内田先生はこのようにも述べています。


 労働はほんらい「贈りもの」である。すでに受けとった「贈りもの」に対する反対給付の債務履行なのである。労働はその初発のあり方においてl’un pour l’autreなのである。(中略)pourというフランス語の前置詞にはいろいろな意味がある。「……のために」「……の代わりに」「……宛の」「……だったことに対して」「……に賛成して」「……として」などなど。l’unは英語で言えばthe one。l’autreはthe otherである。私はこのl’autreを「なんだかよくわからないけれど、私より時間的に先行しているもの」と解く。



 内田先生によれば、働くということは「なんだかよくわからないけれど、私より時間的に先行しているもののために/代わりに/に対して/の返礼のとして/に賛成して」行われれるものである、ということになるわけです。人間は、「自己利益の追求を後回しにして、共同体全体のパフォーマンスを向上させることに快楽を感じる」という能力によって、他の生物を圧倒する「強さ」を獲得した生き物である、と言われています。つまり、私たちが、人間としての「強さ」を発揮するためには、「自分自身の努力の対価が、将来の自分自身に宛てて支払われる」ということを期待してはいけないのです。

「あるテストの偏差値を参考にする」ことと「偏差値表を参考にする」こととの違い

 そもそも偏差値とは、テストの得点などの検査結果が集団の平均からどの程度ずれているかを示す数値です。一般的には、ある得点の偏差を「標準偏差」で割って10倍し、50を加算した数値を偏差値と言います。このような偏差値の数学的性質を理解している人は、あるテストにおいて自分自身の偏差値を利用して、自分自身の得点とそのテストでの母集団の平均得点とのずれを把握する、ということを行うことができるでしょう。
 しかし、偏差値の数学的(あるいは統計学的)意味から言って、異なるテストの偏差値を比較することには、全く統計学的な意味はありません。同じように考えて、ある試験で示された偏差値を用いて、その偏差値を示した得点を取った受験者が、別の試験でどのような結果(得点あるいは偏差値)を取るかを予測することは、論理的にできません。なぜなら、全く同じ試験が実施されるということはあり得ないわけで、そうすると全ての試験において「標準偏差」は異なるからです。標準偏差が変われば、同じ得点を取っても、偏差値は変わります。ある受験者の偏差値から、その受験生が今後受験する予定の、つまり「まだ行われていない試験の結果」を予測することは、論理的に不可能なのです。

 それでも、ある試験の偏差値から「まだ行われていない試験の結果」を予測したい、と考える人は後を絶ちません。もちろん、気持ちとしてはわかるのです。私たちは、やはりどこかで、自分自身が支払った「コスト」に対して、将来の自分自身に宛てて「支払ったコスト以上の対価」が贈られることを期待してしまうのです。「偏差値表」というのは、そのような考え方から逃れられない私たちのニーズが作り出した、幻影です。「まだ行われていない試験の結果」を予測することは、論理的に不可能であるにも関わらず、私たちは偏差値表を使って、「まだ行われていない試験の結果」を予測しようとします。模擬試験では「A判定」とか「80%判定」とかいうものがあります。このような判定は、確実でないにしても、高い確率で「まだ行われていない試験」に合格することができるだろうというのです。

 でも、それはあくまでも、自分自身が支払った「コスト」に対して将来の自分自身に宛てて「支払ったコスト以上の対価」が贈られることを期待するという貨幣経済の原則に支配された私たちの幻想です。そもそも、貨幣というのは「記号」であって、私たちが貨幣に価値を見出すのは、その記号を他者が価値のあるものとして受け取ってくれる、と私たちが思い込んでいるからです。(実際、他者が貨幣を価値のあるものとして受け取ってくれなくなると、貨幣という記号は価値を失います。ハイパーインフレーションとよばれる経済現象がそれです。)その意味で、貨幣は「幻想」なのです。

 先に確認したように、私たち人間が他の動物を圧倒したのは、私たちが貨幣経済を発展させたからではありません。私たちの身体は、自己利益の追求を後回しにして、共同体全体のパフォーマンスを向上させることに快楽を感じることができる。だから、私たち人間は他の動物を圧倒して、豊かなで幸せな生活をおくれるようになったのです。

「偏差値表」に縛られていると、人間としての「強さ」を発揮できない。

 敢えて繰り返しますが、貨幣経済は人間の「強さ」によって現象したものではありません。自己利益の追求を後回しにして、共同体全体のパフォーマンスを向上させることに快楽を感じる私たち人間が、他の動物を圧倒して豊かな生活を獲得したあと、私たちの社会で作られた制度です。そして、そのような貨幣経済の原則に支配されていると、私たち人間が身に備えていた「力強さ」や「賢さ」を身につけることは、なかなか出来ないのです。

 実際に穎才学院から難関中学に合格した生徒さんは、ほとんどの方が「偏差値表」や「偏差値ランキング」を気にしていませんでした。私が小学生時代に通っていた塾でも、きちんと志望中学に合格する生徒は、偏差値ランキングをほとんど気にしていなかったように記憶しています。彼らは、毎日毎日、目前の学習に熱心に取り組むので、偏差値を用いて「まだ行われない試験の結果」を予測することにあまり関心を持たないのでしょう。

小石川中等教育学校の伝統 ~ 「立志」「開拓」「創作」の精神

 小石川中等教育学校は東京府立第五中学校として創立以来、 「立志」「開拓」「創作」の精神を伝統的に教育理念として掲げています。現校長、奈良本先生によれば、「自ら志を立て(立志)、自分が進む道を自ら切り拓き(開拓)、新しい文化を創り出す(創作)」ことのできる人材の育成が小石川中等教育学校の目標です。また、小石川中等教育学校は、社会で「リーダー」として活躍する「パイオニア」を育成する学校に適性のある生徒を適性検査で選抜するとも述べています(小石川中等教育学校入学適性検査の「出題の基本方針」による)。

 先ほど、私たちは、人間が「自己利益の追求を後回しにして、共同体全体のパフォーマンスを向上させることに快楽を感じる」という能力によって、他の生物を圧倒する「強さ」を獲得した生き物であるということを確認しました。だとすると、小石川中等教育学校が掲げる「立志」「開拓」「創作」の教育理念の体現者は、「自ら志を立て、自分が進む道を自ら切り拓き、新しい文化を創り出して、共同体全体のパフォーマンスを向上させる」ような人物であるはずです。

 内田樹先生は、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫)で、「現代社会の危機に対する処方は要するに「常識ある大人」の頭数をもう少し上積みすること、ただそれだけです。」と述べました。ここで「常識ある大人」というのは、「社会」あるいは「社会のシステム」が崩壊したときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々のことです。

 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生した時、私たちの社会(社会システム)は、一部ではあるけれども確実に瓦解しました。その時、私たちを励まし、私たちの社会を支えたのは、被災現場から逃げず、何とかギリギリのところで踏みとどまって、少しずつ、きちんと筋を通して、身体を張って手間をかけて、人々の暮らしをカオスの瀬戸際で防衛した大人たちであったはずです。

小石川中等教育学校に「適性」のある人材とは、どのような人材か。

 小石川中等教育学校の奈良本俊夫校長先生が言う、「自ら志を立て(立志)、自分が進む道を自ら切り拓き(開拓)、新しい文化を創り出す(創作)」ことのできる人材というのは、自身の才能を自己利益の増大のために費やすような人のことではないではずです。社会、すなわち自分も含めた「他者」のために新しい何かを創り出す人材というのが、小石川中等教育学校の教育理念を体現した人材なのではないでしょうか。

 社会と才能との関係について、ここでも内田樹先生の言葉が私たちに考える手がかりを与えます。


 今の世の中で「才能」と呼ばれているものは、一言で言ってしまえば「この世界のシステムを熟知し、それを巧みに活用することで自己利益を増大させる能力」のことである。「才能ある人」たちはこの世の中の仕組みを理解し、その知識を利用して、「いい思い」をしている。彼らは、なぜこの世の中はこのような構造になっているのか、どのような与件によってこの構造はかたちづくられ、どのような条件が失われたときに瓦解するのかといったことには知的資源を用いない。この世の中の今の仕組みが崩れるというのは、「富貴の人」にとっては「最も考えたくないこと」だからである。考えたくないことは、考えない。フランス革命の前の王侯たちはそうだったし、ソ連崩壊前の「ノーメンクラトゥーラ」もそうだった。そして、「考えたくないことは考えない」でいるうちに、しばしば「最も考えたくないこと」が起き、それについて何の備えもしていなかった人たちは大伽藍の瓦礫とともに、大地の裂け目に呑み込まれて行った。

 この世のシステムはいずれ崩壊する。これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。

 私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。


 いつ起こるかわからないときに、きちんと備える人材。そのような心身の鍛錬された人材のことを、内田先生は「真の才能」と呼んでいます。不意に私たちの社会が大きく変化する時、世の中で大きな異変が発生した時、私たち自身と私たちの社会を支えるのは、そのような「真の才能」であると内田先生は言うのです。

 では、大きな社会変化が起こった時、大災害が発生して社会が緊急事態に陥った時、私たちはどこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのでしょうか。社会がカオス(混沌)の状態に陥った時、私たちに必要なのは「司法」「治癒(医療)」「教育」「宗教」であると言われます。カオス化した社会で私たちが生きるためには、そこに暮らす人々の争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み、神の加護と慈悲を祈るための霊的な場が必要なのです。これは戦時下の記録、難民キャンプでの記録、被災地でのルポルタージュから確認される事実だそうです。確かに、2011年の東日本大震災でも、1995年の阪神淡路大震災でも、それは同じでした。「裁き」と「癒し」と「学び」と「祈り」とが、私たちが生きる上では欠かせません。

 内田樹先生は、さらにこのように続けます。


 裁きと癒しと学びと祈りという根源的な仕事を担うためには一定数の「おとな」が存在しなければならない。別に成員の全員が「おとな」である必要はない。せめて一割程度の人間がどれほど世の中がめちゃくちゃになっても、この四つの根源的な仕事を担ってくれるならば、システムが瓦解した後でも、カオスの大海に島のように浮かぶその「条理の通る場」を足がかりにして、私たちはまた新しいシステムを作り上げることができる。私はそんなふうに考えている。


 「立志」「開拓」「創作」の教育理念を標榜し、「リーダー」であり「パイオニア」でもある人材の育成を目標とする小石川中等教育学校から巣立つ方たちは、カオスの大海で、人々のよりどころを立ち上げることが出来る人材であるはずです。正確に言えば、小石川中等教育学校の卒業生の全員がそのような人材でなくても良いのです。10人に1人でいいから、そのような「おとな」がいてくれれば私たちの社会は全うに営まれることでしょう。

 穎才学院の小石川生も、きっとそのような「おとな」へと成熟するであろう、魅力的な人材です。小石川中等教育学校を卒業して、穎才学院で講師として働く人たちも、いざというとき自分のことを少々後回しにしてでも、他者のために、生徒のために、きちんと力を尽くしてくれる優秀な人たちです。もちろん、彼らにも未熟なところはまだまだあります。それは私たちみんなに言えることです。ただ、彼らはきっとこれからも、「おとな」としての成熟した人間に漸近していくことでしょう。私にはそのように思われてなりません。