『アナと雪の女王』が大ヒットする理由

『アナと雪の女王』が大ヒットする理由

先生、どうして『アナと雪の女王』は大人気なんですか?

生徒「せんせ~、『アナユキ』がヒットしているのは、なぜですか~?」

先生「あなゆき?何ですか、それは?」

生徒「『アナと雪の女王』のことですよ!先生!どうして『アナと雪の女王』は大人気なんですか?」

先生「ああ、『アナと雪の女王』!私も観ましたよ。確かに映画館は満員でした。」

生徒「でしょ~?友だちのディズニーファンも傑作だって言ってます。でも、どこがそんなに面白いんでしょう?」

先生「それはね…、おっと!ここから先はお話のネタバレになるから、映画を観ていない人はごめんなさい!ぜひ、映画館でお話を楽しんでね!」

『アナと雪の女王』の登場人物と私たち現代人の姿とが重なるから、物語が面白い。

 ディズニー映画『アナと雪の女王』が好調な興行成績を挙げています。連日、映画館は満員となっているようです。リピーターも多いと言う、この映画の人気の秘密はどこにあるのでしょう。生徒に質問されたので、少し考えを深めてみることにしました。

 『アナと雪の女王』は、北欧の美しい王国を舞台にしたファンタジーです。しかし、物語の登場人物は私たち、現代の日本人にとてもよく似ているのです。まず、エルサとアナの姉妹は、非常に「孤独」な育ち方をします。お互いが別々の部屋で生活し、家族とは言うものの個別な暮らしをしている、というのは、現代社会の都市生活者の家族に典型的なライフスタイルです。エルサとアナの暮らしには物質的に貧しいところは何もありません。おそらく精神的にも、豊かな教育機会を与えられ、たくさんの絵画や骨董品、つまり「文化資本」(ブルデュー)に囲まれて不自由なく育ったはずです。しかし、映画の冒頭の楽曲「雪だるまつくろう」(”Do you want to build a snow man”)は姉妹の満たされない、切ない気持ちをわかりやすく映画を観る人に伝えます。

 『アナと雪の女王』の第1テーマは、「大切なことは選べない」という真理です。姉のエルサが強い氷の魔法の力を持って生まれたことも、姉妹が王女として生まれついたことも、二人が両親を幼くして失ってしまったことも、「大切なこと」は何一つかれらによって選ばれたものではありません。

 それは、エルサが魔法でうっかりアナを傷つけてしまったことについても、同じです。彼女がしたことは、確かに「事故」だったのです。しかし、優しいエルサはそれを自分の責任だと考えてしまう。優しいからこそ、エルサの魔法の力を隠蔽しようという両親の教えを忠実に守って、彼女は慎ましく慎ましく生きてきたのです。それは、もちろん両親の育て方に過誤があったというのでもありません。彼らは、二人の娘の幸せをねがい、二人の娘をただ守ろうとしただけなのですから。しかし、そのような正しい選択の積み重ねの果てに、人の心に深く食い入るような不幸と悲劇が現象するというのも、また私たちが選ぶことができない実際なのです。

 このようにして、エルサとアナは少しずつ大きくなりました。やがて、エルサが女王として戴冠することになり、その式典の当日に大きな事件が起きてしまいます。

 雪の魔法を身体に帯びているという大きな秘密を心の闇のように抱えこんだエルサと、抑圧された暮らしからの解放を無邪気に願い喜ぶアナとは、それぞれ全く別の気持ちを持って戴冠式の日を迎えます。楽曲「生まれてはじめて」は、そのような二人の対照的なありさまを、美しいメロディーとオブリガートで聴く人に伝えます。

 夜の舞踏会場で、ハンスというハンサムな王子との運命的な出会いに浮かれるアナをたしなめるエルサなのですが、アナの生来の奔放さゆえの押しの強さと自身の若さゆえの未熟さから、エルサはうっかりと雪の魔法を舞踏会場で発動させてしまいます。その事実に誰よりも驚いたのは、外国から戴冠式の祝福に訪れた人々でもなく、妹のアナでもなく、エルサ自身でした。エルサは、それまで、自身の幸せを犠牲にしてまで、魔法の力をひたかくし、ひとえに妹や周囲の幸せを優先して生きてきたのです。その努力が、全て無駄になってしまった…。そのように感じたのかもしれません。エルサは舞踏会場を飛び出して、雪の山へと消えていってしまいました。

 雪の女王としての魔力を帯びたエルサにとって、雪山は特に恐ろしい物ではありません。ひとりで雪山を歩きながら彼女は、運命を「知られてしまった」、でも「これでいいの」と心と身体の力を解き放ち、「自分の道をいくの!」と決意を表明します。彼女の決意は、巨大で美しい雪の結晶の宮殿として現象し、彼女自身も髪をほどいてティアラを捨てて、「理想の娘」ではない彼女「本来」の姿、雪の女王としてのエルサになるのでした。しかし、彼女は言ったのです、「嵐よ、吹き荒れるがいいわ」と。このエルサの粗忽さが、彼女自身と妹、そして王国をめぐる人々をドラマティックな運命へと導きます。

エルサやアナと同じように、私たちは「大切なこと」を選べない。

 このようなエルサとアナのありさまは、現代の私たちにとてもよく重なります。私たちも、生まれつき「大切なこと」を選んで生まれてきたわけではありません。女性として生まれたことも、美しく生まれついたことも、賢く生まれたことも、王家の娘としてこの世に生を受けたことも、全てのことはエルサやアナの選びとったことではないわけです。私たちも、生まれつく国や性別、身体的な特徴などを予め選択することはできません。自分自身が選びとったことではないけれど、私たちの人生に関わる大切なことがたくさんあるのです。

 劇中のエルサのように、「自分の道をいくの!」と人生における力強い選択を標榜しても、それは同じです。ほとんどの場合、私たちの人生において私たち自身が選択できることは、些末なことでしかありません。どのように生まれついたのか、どのように生きるのかということは、往々にして、私たち自身が決めることなのではないのです。

 『アナと雪の女王』を観る人たちも、そのほとんどがエルサやアナと同じです。自分自身が選んだわけではない「大切なこと」をめぐって、それときちんと向き合うことを私たちは運命としているのでしょう。映画を作成したアンドリュー・ミルスタイン(ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ)は、『アナと雪の女王』を「誰もが共感できるような普遍的なテーマ」を取り扱った物語であると述べています(東洋経済オンラインによる)。私たちは「大切なこと」を選べない。この普遍的なテーマをこの作品は、理屈抜きに、私たちに届けてくれるのです。

他者のために自己を手段とする「真実の愛」をめぐる物語

 エルサとアナの他に、物語で大切な役割を占める登場人物のひとりが「クリストフ」です。幼いころにクリストフは、偶然、ドワーフに傷を癒してもらうアナの姿を目撃しました。青年に成長したクリストフは、再びひょんなことから、雪山に失踪したエルサを見つけ出そうとするアナと出会います。彼女の半ば強引な要請に従って、クリストフはトナカイのスヴェンといっしょにエルサの捜索を手伝うことになるのです。

 一見するとクリストフは無骨な男のようです。しかし、実は彼は音楽と仲間を愛するという豊かな心を持った青年です。そして、彼の一番魅力的なところは、理屈抜きに他人を助けようとするところ。アナ王女に強引に協力を依頼されても、自分の大切なソリが破壊されても、命の危険にさらされても、クリストフはいつもアナを助けようとするのです。そこに、難しい理屈はありません。困った人を助けるのが、彼の身体に染みついた当り前。たまたま、助けることになったのが女性であり、たまたま彼女が若く美しかったのであり、たまたま王女であったというだけのことなのです。そして、たまたま彼女は雪の女王としてエルサを姉に持っていて、またまた、たまたまクリストフと出会う直前にハンスという王子と「婚約」してしまっていたのでした。

 彼女を助けることで報酬が得られるという保証はありません。クリストフ自身に将来のビジョンがあるわけでもありません。むしろ、彼はいきあたりばったりです。ただ、彼は劇中でいつも正しい判断をしました。それは結果的にです。彼の理性が正しい判断を下したわけではありません。強いていえば、ドワーフたちに育てられたクリストフが身につけた直感に彼が忠実であったというだけでしょう。

 健やかな身体に健やかな精神が宿る、と言われます。しかし、健やかな身体に必ず健やかな精神が宿るというわけではありません。アナと「婚約」したハンス王子は、健やかな身体を持っていましたし、人並み以上の勇敢さも身に備えていました。しかし、彼の身体に宿っていた知性は未熟な知性であり、宿っていた精神は幼さ故に傲慢で歪んだものだったのです。ハンス王子は、優雅で勇敢な男性のように見えました。しかし、実際は未熟であるために、彼の優雅さは見かけだけのもので、勇敢さは実は蛮勇であったわけです。もちろん、それはよくあることです。多かれ少なかれ、私たちは若いころはみな「ハンス王子」なのではないでしょうか。

あなたもきっと「クリストフ」である。他者のために生きるから、強くなれる。

 また、私たちはみな「クリストフ」であるのだとも思います。そこに、男女の別はありません。私たちは、これまでどこかで、誰かのために、自分のためでなく他者のために、一生懸命に頑張った経験があるはずです。そこに、映画のようなドラマは必要ありません。どんなに地味でも、どんなに小さなことでも、私たちは、誰かのために、他者のために自分自身の身を捧げたという経験があるのではないでしょうか。

 そんな私たちの心にクリストフの生き様はグイグイと突き刺さります。オオカミに追いかけられても、行く手に断崖絶壁があっても、王国が雪嵐に包まれて凍ったフィヨルドが激しく裂けていっても、クリストフはいつもアナを助けようと努めます。もうそのことしか考えていません。はっきり言って、「バカなの?」という位、アナを助けること以外に何も考えていないのです。でも、そんな彼の姿はなんて格好いいのでしょう。

 『アナと雪の女王』という映画の物語るもう一つの「普遍的なテーマ」というのは、ここにあります。私たちは、他者のために生きるときに大きな力を発揮するのです。強さは理屈じゃない。その意味で私たちは「バカ」でなければならない。あなたも、きっといつかクリストフになれる。

 もちろん、ここには『ピノキオ』の『星に願いを』以来、ディズニーが一貫して物語ってきた「突然の稲妻のように(Like a bolt out of the blue)/運命は割り込んでくる(Fate steps in and sees you through)」という仕掛けが施されています。1980年から1983年まで、ウォルト・ディズニー・プロダクションおよびオリエンタルランドの嘱託として東京ディズニーランドの創建に参加した能登路雅子先生は、この仕掛けを「他力本願の民間信仰」と呼んで讃えました(『ディズニーランドという聖地』より)。もちろん、そうなのです。再び能登路先生の言葉を借りれば、『アナと雪の女王』でも、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオは「お伽話の世界」の力を用いるという「錬金術」によって、私たちの心を「メロメロに溶かして」いるのです。

あなたもきっと「アナ王女」である。他者のために生きるとき、奇跡がおこる。

 そして、私たちはみな「アナ王女」であるのだとも思います。やはりそこに、男女の別はありません。雪の女王としてのエルサを救出するために、アナは自分自身の大切な命をかけました。アナの賢さは、複数の外国語を駆使したり複雑な数式の展開を理解したりするような類のものではありません。手持ちの能力と道具を活かして、いま側にいる仲間たちと力を合わせて困難に立ち向かうという知性です。

 それは、勇気といっても良いかもしれません。近代合理主義が跳梁する世の中では、ついつい忘れられがちなことなのですが、私たちにとって最高の知性とは「限られた持ち物を使い、今いる仲間と協力して、最大のパフォーマンスを発揮する」ことであるのです。それは、多くの神話や物語が私たちに宛てて丁寧に教えてくれるところです。

 アナの力強さは、その強い信念にも表れています。「姉さんだから」きっとわかってくれる。「姉さんだから」きっと雪の魔法と解いて王国に夏をとりもどしてくれる。「姉さん」だから…。彼女の信念は、愚直なほどに、力強いものでした。彼女のしなやかな心に支えられた一途な信念が、王国をめぐる人たちに奇跡をもたらしたのです。

 そして、アナがエルサを信じるほどに、強く他者から信じられるということは、私たちにとって、とても幸せなことです。そこには、やはり難しい理屈はありません。「あなただから」きっとわかってくれる。「あなただから」きっとできる。「あなただから」きっと…。

 私たちは、人生の大切な場面において、その都度、誰かから全面的に信頼されなければなりません。「あなただから」きっとできる、「あなただから」きっと大丈夫…、これらは私たちにとってのマジック・ワードです。他者から全面的に信頼されることによって、私たちは大きな力を発揮することができるのです。

 劇中のエルサ女王のように、自分のことが信じられなくなっても、自分のしていることに自分で耐えられるなっても、どんなに自暴自棄になっても、アナ王女のように、たった一人でも自分のことをゆるぎなく信頼してくれる人がいれば、私たちは救われるのです。