「現代文の読み方を教えてください」

まわりくどい話をする。

私は「現代文の読み方を教えてください」と私に言う人には、「そのようにあなたが言うのは自由ですが、おそらく私はその要求には応えられません。それはあなたが存在を想定する『現代文の読み方』なるものは、おそらく存在しないからです」とお応えする。

まず、確かめておきたいのだが、何を思うか、何を考えるかは、各自の自由だ。他の人の自由を損なわない限りね。

だから、私に「現代文の読み方を教えてください」と言う人がいらしても、何ら、問題はない。

では、私はどのように考えるか。

① 一般的あるいは普遍的に運用できる、文章の読み方というのは科学的には未だ存在しない。

② 科学的に存在しないものを、あたかも存在するかのように教授するのは、科学的ではないだろうし、道義的にも問題がある気がする。

③ そもそも「現代文」と現代文ではない文章の境目はどこだと言うのか、「近代以降の文章」と言うのなら、「近代」なるものの歴史的ないし文学史的定義のようなものに基づいて、ある程度まで、その内容を限定できそうだが、「現代文」と言うとき、その内容は限定できるのか、疑わしい。

そのように考えるだろう。

気持ちはわかる。

「現代文」というのは「古文・漢文」ではない文章であり、それには何かしら一定の有効な読み方があると思いたいのだろうね。

気持ちはわかる。

でも、私は30年来、そういった一定の有効な読み方のようなものをめぐり考察を続けてきた結果、そういったものは、少なくとも現時点では科学的に存在しない、という仮説を得ているのだ。

申し訳ない。

そういった読み方が存在するなら、もっと人工知能は進歩しているよ。

現状として、機械と人間の知的な隔たりのひとつは、文章の意味が理解できるか、できないか、というところにある。

機械は「なめこは大きな白いベンチが側にある店でケーキを買って食べた」という日本語文の意味が理解できない。

もう少し、親切に表現してみよう。

大きなのは「白いベンチ」なのか「店」なのか。

白いのは「ベンチ」なのか「店」なのか。

なめこは「店」で買ったケーキを食べたのか、それ以外の場所で食べたのか。

そういったことが不明なのだ。

そんなのどうでも良いだろうと思うだろうか。

どうでも良くない。私はそう思う。

複数の解釈可能性がある文について、どの可能性を支持するべきなのか、どの可能性も支持できないのか、果たしてどうすれば良いのか、そういった判断が機械にはつかない。

内田先生がこんな文章を書いている。
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久しぶりの(一週間ぶりですね)日曜日。

天気がいいので、掃除をして洗濯をしてふとんを干す。

日経のエッセイが行数オーバーだと言われて書き直す。

どうも字数計算をよく間違える。

ただの足し算なはずなのだが・・・

今回の日経エッセイは「小学校に英語を教科として導入」という中教審の答申(予定)に対する不安と不満を綴ったものである。

教育の現場から繰り返し指摘されているように、外国語というのは母国語習得の後に学べば、母国語を批判的にとらえ返す生産的な契機を提供してくれるが、母国語習得と並行して学ぶと、どちらの国語も不十分にしか運用できない「セミリンガル」を生み出してしまう。

私たちは母語を話すときに文法規則というものを意識しない。

文法規則を学んで「ふうん、ことばってそういう仕掛けになっていたのか・・」ということに気づくのは古文や英語を学び始めてからである(古文は中学生にとってはとりあえず「外国語のようなもの」である)。

バイリンガルというのは、二つの国語を「母語のようなもの」として運用することのできる人であり、定義からして、どちらの言語をも文法規則というものを意識しないで使うことができる。

小学生まで日本にいて、日本語を文法規則を意識せずに使いこなし、中学から高校までアメリカにいて、やはり英語を文法規則を意識しないで使いこなせるようになって・・・という人の場合がそうである。

この人の場合、「言語の文法規則を体系的に学ぶ」ということをどちらの国においても学習していない。

その結果どういうことになるかというと、「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる。

そして、いちばん問題なのは、「微妙に不自然らしいことは、まわりの人のちょっとしたリアクションからわかるのだけれど、どこがどういうふうにおかしいのか自分には説明できないし、周りの人も説明できない」ということである。
「うーん、なんか変だよね。日本語ではそういうふうには言わないけどね、どうしてか知らないけど」というようなあたりさわりのない訂正がときどき入るだけである。

もちろんその程度のことなら日常のコミュニケーションには何の不自由もない。

けれども、自分の使っていることばが「母語の自然で規範的なかたちである」という自信が持てないという事実は想像以上に重いものである。

何度も書いていることだけれど、「言葉の力」というのは、それが思考を適切に表現できるヴィークルとして性能がよいということではない。

ある名詞を口にすると、それを修飾することのできる形容詞のリストが瞬間的に頭に並び、ある副詞を口にすると、それをぴたりと受け止める動詞が続く・・・というプロセスが無意識的に高速で展開するという言語の「自律」のことである。

母語運用能力というのは、平たく言えば、ひとつの語を(場合によってはひとつの音韻を)口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する・・・というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。

「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。

「分岐点の細かさ」というのはわかりにくい言い方だが、「分岐点がない言語」を思い浮かべればわかる。

「分岐点がない言語」というのはストックフレーズのことである。

あることばを選ぶと、そのセンテンスの最後までが「まとめて」出力されるようなフレーズだけを選択的に言い続ける人がいる(校長先生の朝礼の言葉とか議員の来賓祝辞を思い浮かべればよろしい)。

ある語の次に「予想通りの語」が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。

「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」というのはそういうときに出る言葉である。

外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。

それは外国語の運用の最初の実践的目標が「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」ことだからである(ホテルのレセプションや航空会社のカウンターや税関の窓口で)。
「理解される」というのは「それ以上言葉を続ける必要がなくなる」ということだからである。

自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたちである。
それは母語のコミュニケーションが理想とするものとは違う。

母語言語運用能力というのは、端的に言えば、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という心的過程を伴った言語活動のことである。

ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。

というようなことを書こうと思ったのだが、違うことを書いてしまった(いつでもそうだな)。
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この文章を読めば、外国語や古典の学習を通して文法規則を学ぶのは、私たちが母国語を批判的にとらえ返す生産的な契機を得るために有用なのであるということがわかる。

ある語の次に「予想通りの語」が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる、という指摘にも納得がいく。

母語の運用においては、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という気がするものだ、ということが理解できるかもしれない。(これについて、よくわからないと言う人は、明石家さんまさんのような、立て板に水を流すような仕方で話すテレビタレントの様子を想像してほしい。彼らは、次にどういう単語が続くか、具体的には自分でもよくわかっていないのだけれど、話にちゃんとオチがつくということについては、絶対的自身を有しているのである。そうでしょう。)

言語的知性を重視する人間にとって、そういった「言葉の力」の減殺というのは、致命的な問題なのである。あるいは、そういった「言葉の力」の賦活なくして、言語的知性の充分な成熟は果たせないのである。

だから、注意してほしい。

言葉を自由に伸びやかに生かしてほしいのだ。

言葉の命を損なわないでほしい。

そんなこと、入試の準備において、受験勉強において、役に立たぬ綺麗ごとだと思われるだろうか。

そんな懸念があるので、もう一押し、させていただく。東京大学が東大志望の受験生に宛てて書いた、高等学校段階までの「国語」の学習において、特に留意してほしいことがらである。

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国語の入試問題は,「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて,高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし,文系・理系を問わず,現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちませんが,特に古典を必須としているのは,日本文化の歴史的形成への自覚を促し,真の教養を涵養するには古典が不可欠であると考えるからです。このような観点から,問題文は論旨明快でありつつ,滋味深い,品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは,総合的な国語力を養うよう心掛けてください。

総合的な国語力の中心となるのは

1)文章を筋道立てて読みとる読解力

2)それを正しく明確な日本語によって表す表現力

の二つであり,出題に当たっては,基本的な知識の習得は要求するものの,それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく,むしろ,それ以上に,自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します。
そのため,設問への解答は原則としてすべて記述式となっています。さらに,ある程度の長文によってまとめる能力を問う問題を必ず設けているのも,選択式の設問では測りがたい,国語による豊かな表現力を備えていることを期待するためです。
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いかがであろうか。

総合的な国語力の中心となるのは「文章を筋道立てて読みとる読解力」と「それを正しく明確な日本語によって表す表現力」である。もちろん、東大の入試と他大の入試とが全く同じであるとは言わない。でも、大学の入試なのである。そこで求められる学力というのは、ある程度、普遍的であると言えるだろう。そういった学力について、東大が東大を志望する受験生に宛てたメッセージから読み取ることは、それほど無理筋ではないだろう。

文章を筋道立てて読み取るのである。

文章の筋道は、文章ごとに違う。

それは人間がひとりひとり違うのとよく似た話だ。

ある文章の筋道を理解するには、どうすれば良いのか。

まずはその文章を理解したいと思うことだ、理解する側が主体的にね。

それはひとりの人間を理解するときに必要なことに似ている。

気持ちは分かる。

「現代文の読み方」を知りたいのだよね。

では、少し考えてみてほしい。

あなたはどうして、そう思ったのか。

手を抜くため?

効率よく勉強したいから?

文章を読むのが苦手だから?

入試でハイスコアを取りたいから?

うん。あなたがそのように思うのは、自由だ。

じゃあ、そのように思っているあなたに、文章はどのように応えるだろう。

もっと、言い方をマイルドにしよう。

そのように思っているあなたが、文章をどのように読むだろう。

その読み方が、あなたの読解力を規定しているのではないかな。

どのような読み方で文章を読んでも、構わない。

あくびをしながらでも、片肘をつきながらでも、良い。本当に良い。

でも、あなたの読解力は、そういうあなたの読み方によって規定されている。

あくびをするのがいけないのではない。片肘をついたら文章が読めないなんてことはないだろう。

実際にあなたが文章をどのように読んでいるのか。

それこそ、読み方なのではないかな。

読み方は教わるものではなく、読み手自身が確かめるものだと思います。

脚下照顧。

そこから、はじめてください。あなたは、法則に従って動く機械ではないのだから。

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