バウムクーヘン

10年来、穎才学院とご縁のある方の結婚式にご招待をいただいた。

塾長や元事務員の三技さんと一緒に推参したわけですが、インプレッシブなシーンにあふれた、素敵な挙式と披露宴だった。おめでとうございます。

その中で一番に印象的だったのが、新郎による新婦の第一印象を表した言葉。

まるで幼馴染であるかのような印象を抱いたそうだ。

実に的確な表現をなさる方だなと思った。

初めて会った人の印象を「幼馴染のようだ」と表するには、少々、特別なものの見方や表現能力を必要とするのだ。

新郎がそういった印象を得るためには、まず新郎自身から離れたところから、新郎と新婦の関係を客観視しなくてはならない。

幼馴染とは主観的評価ではないからだ。(そんな勝手な評価をする人がいたら、迷惑でしょう。いきなり、「俺とお前とは幼馴染だ」とか、ありもしないことを言われたら、非常にホリブルですよね。)

しかも、そこに実際には存在しない、二人の幼少期来の馴染みの思い出をありありと幻視しなければならない。想像力の駆動を必要とする作業でもあるのだ。

そして、そのように親しみを感じている新郎自身の内面(?)のようなものを、よどみなく説明する必要がある。そうして、その説明が新郎の親友や家族に対して、もちろん新婦に対しても、充分な説得力を持っている必要もある。

そういった特殊な視点やタフな表現能力がないと、初めて会った人の印象を「幼馴染のようだ」と表するのは不可能なのだ。

確かに、幼馴染というのは必ずしも結婚相手のなるわけではない。でも、新郎はそういった表現で、初めて出会った女性が自身の運命の人であると直感したことを巧みに言い述べたのだと思う。

多くの場合、私たちはそういった直感を浪費する。あ、今、向こうから歩いて来る人が、私の運命の人かもしれないな、と直感しても、私たちはなすすべを持たない。ほとんどの場合。運命の人が目の前を行き過ぎるのを、見逃すことしかできない。頭の中で「今、私の目の前を通り過ぎているのが、私の運命の人だったのである」といったナレートがなされるのを、手をこまねいて、聴いているだけなのである。

そういった運命をものにするには、それが自身の運命なのだということを他の人に的確に伝えなくてはならない。あの人が私の運命の人なんです、ここが私の人生における重要な分かれ目なんです、そういったことを周囲に宛てて言明しなくてはならないのだ。

新郎は、それを的確にやってのけた。だからこそ、彼は運命の人を逃さず、伴侶とすることができたのだと思う。

もちろん、それと類似した物語が新婦の側にもあったはずである。

運命を直感するというのは、勘違いの同工異曲である。

運命というのは、運命を直感した上で、それを他者に言明した人にしか、現象しない。「言霊の幸ふ国」というのは日本国の美称であるが、直感を言明することが運命的なものが現象するための必要条件であるのは、人類的一般であろう。

ありもしないものを本当にそこにあるかのように幻視する。それができることは人間の(サルとは異なる)特徴なのである。

そういった幻視が必要なのは、婚姻のパートナーを得るときだけではない。

信仰においても、教育・学習においても、場合に拠っては医療においても、司法においても、そういった仕方が要るのである。

見えるものしか、信じられないという気持ちはわからないでもない。それだから数値的指標にばかり拘ってしまうというのは、私たちが陥りやすい誤謬だ。

新郎も新婦も、初めて会ったときに、互いの数値的指標について(年収とか、身長とかについて)、全く関心を示さなかったのだろう。

数値的指標を信用することと、ありもしないものを幻視して、それをリライアブルであるとするのとは、ずいぶんと違った仕方になる。

新郎が勤める会社の方が、社是は信用である、と話されていた。そして、新郎は信用に足る人間であるとも讃えていらした。

その通りだと思う。

およそ、信用に足る人間というのは、他人を信用することができる人間なのである。

新郎は新婦のことを信じることができた。新婦も新郎のことを信じることができた。そういった相互の信頼が今後の2人の幸せを保証するのである。

その種の信頼が私たちの生命力を賦活する上では欠かせないのである。

私は2人の門出を寿ぎ、病めるときも健やかなときも2人が幸せに協力して暮らして行かれるであろうことを予祝する。

他の人の幸せを願うと、私の生命力も賦活された気がする。

休みが明けてから、そんな気持ちで楽しく穎才学院に出勤したら、引き出物が届けられていた。ありがとうございます。

バウムクーヘンが贈られていた。堂島のバウムクーヘン。美味しそうである。

穎才では塾長がバウムクーヘンを講師たちに振る舞っていたので、私はそれを學校に持っていくことにした。

ちょうど、私と新婦が穎才で出会った年ごろと同じくらいの年齢の中学生たちと、休み時間にそれを食べた。実に美味しかった。穎才の塾生も講師も、學校の生徒たちも、新郎や新婦と同じように幸せになってほしいと思う。心から、そう思う。

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