私は特別?

コスパ。

コストパフォーマンスの略だ。

TVでコスパをめぐるバラエティー番組が放送されていた。

コスパが良いものが良い、そういう選択ができるのは特別、と思っている人は多いのかもしれない。

でも、それってちょっと難がある。

そもそもコスパというのはどのようにして計算されるものか。

(効果)÷(費用)

という割り算で計算されるのが、コスパである。費用対効果だもんね。

ということは、費用と同じように効果というのが数値で計量・比較可能なものになっていないと、コスパは計算・比較できない、と言えるね。

んじゃあ、

コスパの良い外食、

コスパの良い旅館、

コスパの良い観劇、

そういうのって、どんなふうにその「効果」みたいなものを計量しているのだろう。

私たちはつねに、誰か他の場所から見た私たちというものを欲望している。

他の人に良く思われたい、社会的に高い評価を得たい、そういった欲望はつねに他者の視線を経由する。

名誉欲も金銭欲も、学歴志向も結婚願望も、Instagramの投稿も、このブログの記事執筆も、

私たちの行動は全て他者的評価を宛て先にしている。

それは私たちの根源的願望に根ざした行動であるのだ。

そういった点では、インスタ映えする写真を撮っている現代人がしていることも、獣の皮や骨などでこしらえた装飾品で着飾って祭りで踊る古代的人間がしていたことも、本質的にしていることは変わらない。

コスパが良いという満足も、それと同じことをしているのである。

コスパが良いことを良いとするコスパ主義者は、

コスパが良い消費行動をすると高い評価を与えてくれる他者からの評価を欲望しているのである。そんな他者が具体的にどこにいるのか、私は知らんのだけど。

そういった「他者」からの評価を欲望することは良いことでも悪いことでもない。というか、仕方がない。そういうことをしてしまうのが、人間なのである。

私たちは違いに意味を見出す。

それは、何でないか、という違いである。

そして、そういった違いは、実際にはほとんど違いの無いもの同士の間で発見される。(ローソンとセブンイレブンの違いとかね。スタバとドトールの違いとか。)

だから、コスパ主義者は、実際にはほとんど違いの無い消費行動における微小な差異にこそこだわりを見出す。そして、そうした違いを理解し、そういった理解に基づいた消費行動を評価してくれる他者を求めるのである。

別にそういったことをしても良いけれど、それはそれだけのことである。

でも、そういった「何でない」という違いを際だ出せるために、コスパ主義者は、その「違い」以外の点で「同じ」であるように努力する。

コスパの良い外食をしていると自覚している人間は、そういう外食の機会選択をする以外、そうでない人たちと「同じ」行動をすすんで選び取る。

他の人と違うことをしているつもりで、私たちは他の人とほとんど同じことをしているものなのである。

かく言う、私もそうである。

ただ、そういう自覚があるか、無いか。私たちは他の人とほとんど同じことをしていると思っているか、どうか。

他の人と私は違う、と思い続けると苦労すると思う。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』という映画で、登場する式波・アスカ・ラングレーさんは、

「私はちがーう、私はとくべつー」とお人形を使いながらつぶやいていた。

式波さんの幼児性をたくみに表現したシーンだと思う。

誰しも、そういう経験をするものだと思うけど、苦労し続けるのは辛いから、上手く卒業してほしい。

私たちは他の人とほとんど同じことをしているのである。

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