犠牲

ハッシュタグ、実にいろいろなものがあるよね。

Twitterで私はROMるだけの人なので、今度も読んだだけなのだけど、ユーザーたちが物語を創作してそれを差し出すという仕方のタグがある。

ほんの少しだけ、読んでみた。(全てに目を通すことは難しい。)

プロでなくても、片手間であっても、物語りたいという気持ちに正直であったり忠実であったりするのは、悪いことではないと思う。

だから、そこに掲出されていた物語の全てを私は承認するのだけれど、少し気になったことがある。

それについて書いておこう。

あのね。

何かを差し出して、それが紐帯となって、誰かと結ばれる(あるいは結びつき続ける)という話型がある。

紐帯というのは、ひもとおびのこと。ちゅうたいと読んだり、じゅうたいと読んだりする。転じて、血縁・地縁・利害関係など、社会を形づくる結びつきのことを紐帯と喩えることがある。

桃太郎の昔話を思い出してみよう。

桃太郎が鬼退治に行った後、宝を抱えておじいさんとおばあさんのところに帰ってくるのは、おじいさんとおばあさんが一生懸命に桃太郎を育てたからなのだろうか。

そうかも知れないけれど、そうでないかも知れない。少なくとも、そうであると語る「桃太郎」はほとんどない。(そんな話、聞いたことないでしょ。)

ディズニーの『アナと雪の女王』でもよい。

ネタバレですまないのだが、『アナと雪の女王』の佳境は、アナがその身を捨ててエルサを守る場面である。(レリゴーの場面ではない。)

あのときアナは、エルサがアナのために何かを犠牲にしてくれたから、エルサを助けたのではないだろう。そういう理屈抜きに、身体が動いているのである。

「桃太郎」でも『アナと雪の女王』でも、「私はあの人のために〇〇した」と「私とあの人はいっしょに生きることができた」とを因果として結びつけてしまうと、随分と気持ちが悪い話になってしまう。私はそう思うのだ。申し訳ないのだが。

もちろん、たいていの話は「私はあの人のために〇〇した、だから私とあの人はいっしょに生きることができた」とまでは言わない。

でも、「私はあの人のために〇〇した、私とあの人はいっしょに生きることができた」という言い方が、実質、それと同じことを言っているということはままある。

私たちは望んでいたものを与えらえるのではない。本質的に言うと、そうなる。

経済活動など、望んだものが手に入るというケースもある。それは等価交換である。

でも、私たちは等価交換だけをして生きているのではない。

親友がいるなら、その人とあなた自身との関わりを少し思い出してほしい。

きっと、等価交換だけをしていたのではないはずだ。そんなはずはない。

「私があの人に〇〇する」のは「私」の自由である。それが他の誰かの自由などを制限しない限りね。

でも、それが「あの人」に資するかどうかを判定するのは「私」だけの仕事ではないし、「あの人」が「私」といっしょに生きてくれるとして、その理由はやはり「私」だけで決められることではないのである。

私たちは望むことで与えらえれるようになるのであるが、それは望んだものを与えらえれるということではない。有名な「マタイ伝(マタイによる福音書)」の一節も、そういうことを言ってはいない。

私たちの犠牲や献身が、どのような効果を発揮するか、そんなことは私たちにはわからない。

だから、そういうことについて「〇〇したのに…」と恨んだり悲しんだりする必要はないのである。

犠牲や献身は何を保証するものでもない。

そういったものに意味があるとしたら、それはその働きが重要なのである。そういったものを通して、未来の私や他の人たち、つまり他者が健やかに生きることができるなら、それは良く働いたのである。

犠牲も献身も、そのものが紐帯なのではない。

そういうことが言えるのである。

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