休む

塾の先生をしているが、受験前に学校を休むようにすすめることはない。基本的に。

そういうことを一括りにして戒めることもしないが、やはりそれは一括りにしてすすめられるものではない。

というのは、学校を休む自由は認められるべきだと思うし、通学より進学のための学習を優先してしまうと、やはり子供は、進学してから、同じような理由で、その学校・大学に行って学ぶことを疎かにするのを合理化できてしまうからだ。

私たちには学ぶ権利が保障されるべきだと思っているし、一方で学校に通うことに無理があるなら、そういうことは避けてもよいと思う。学習は大事だけれども、そのために無理を押し通して、いろいろと取り返しのつかないことになってしまうとしたら、マズい。

学校に行くことに限らず、無理はしないほうがよいと思う。どれくらい「して当然だ」と言われても「しないと後で困るよ」と言われても、今そういうことをするのに無理があるなら、それは避けてもよいと思う。もう少し、時間をかけて様子を見たり、上手い手を考えたりした方が良い。

一方で、学校に行って学ぶこと・大学に通ってそこで学ぶことには、意味がある。重要な意味がある。どんな人も、ひとりで学べることには限りと偏りがあるから、私たちは他なる何かの声に耳を傾けて学んでいる。

学校や大学の良さは、児童・生徒・学生の「これでいいや」「これくらいでいいだろう」という思い込みに待ったをかけるところである。そういうことは他なる何かの声に耳を傾けることでしか、経験できない。学校や大学は、本来、そういうチャンスが無数にしかけられた、成長のための特別地帯である、べきである。教育史的にはそうではなく、学校は本来権力装置であるのだが、私はそうあるべきだと考えている。

私たちは何かをすることで成長することも、何かをしなくなることで成長することもあって、学校や大学は児童生徒学生にそういう機会を保障してほしい。

いずれにしても、そういうチョイスは児童生徒学生本人にとって主体的に行われたということになっていないと、彼らは成長しない。思い込みでもいいから、事後的に「主体的」選択だったと思えることが重要である。

実際には偶然であったり、周囲のお膳立てのおかげであったりするのである。それでも全く構わない。当人がどう思っているか、当人が事後的に、他の誰によるのでもない主体的な仕方で、他なる何かの声を聞いたと言える経験が重要なのである。

何だか話がややこしくなってきたね。すまない。でも、そういう話なのである。

ここで言う主体的というのは「周りもやってるから」とか「それが当たり前だから」とか言って行われる仕方のことを言うのではない。

たいてい、そういうのはそう思われているほど一般的でも当然でもない。たまたま、あなたの周りの人たちが多くそうしていて、そういうときには多くに合わせておいた方がいいからそうしている、といった程度のことであることが多い。

そういうのは主体的だと言わない。

また、主体的な仕方で他なる何かの声を聞くというのは、そういう声に耳を傾けず、いつまでも変わらない自分でいつづけることとも違う。

選び取った責任は他でもない私にあって、それによって私は他なる何かの声を聞くことができた。

そういう仕方で語れる経験があるとき、私たちはまさに成長していると言えるのである。

だから、何かをするとき、複数ある行為可能性からの選択は自分自身で行わなくてはならない。

そして、その結果として起こったことには、責任を負わなくてはならない。

それは失敗したときにそれを人の所為にせず自分自身の糧にすることだし、成功したときにそれを周囲の人たちと祝いあうということである。

そういう人は、周りの人が失敗してもそれを責めず労わることができるし、周りの人の成功をそういう人が妬むはずもなく、素直にそれを寿げる。

そういう人はそうでない人と比べて、周りに頼れる人を多く数えるので、何か困ったことがあっても上手くいく。

そういう仕組みになっているのである。

そうなるために大切な条件は、自分で考えることである。いただきますとかごちそうさまとか、おはようとかさようならとか、そういう挨拶をするのは当然のことだが、そういう人類学的に重要なことを他の人と同じようにするのと、

考えることをやめてしまって、周りとだいたい同じように立ち居振る舞うというのとは、

だいぶ違う。

だから、私は「周りもそうしている」とか「みんなそうしている」とか言われても、そうなのかなと考えてみるし、それでそうだと思われないときには、とりあえずそのようにはしない。

だから、入試が近くなって、学校を休むという仕方はすすめない。そもそも、学校に行かないのも認められて良い場合があるから、行かないことを責めない。

でも、そういうことを一度すると、

「あのとき、そうしたじゃん」という言い方で、

子供が学校や大学を蔑ろにするリスクをその人たちは退けられない。

もちろん、そういう侮りは避けた方が良いという聡明な判断を子供が主体的に行えるのなら、

そんなリスクは気にしなくていいんだけども。ね。

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