時間

インターナショナルスクールで生徒たちの書いた作文を読む。今回のお題は「私の年越し」、中学3年生の方たちは2年間にわたり私から「形式的に書くだけで終わらないでください」「余所にある表現をさも自分自身による表現のようにして書いてはいけません」「あなたにしか書けない、具体的なエピソードについて書きましょう」と言われ続けてきたので、実に多彩な内容・表現に出会うことができた。読んでいて、全く苦痛ではない。可笑しくて笑ってしまうようなものもチラホラあった。文章で人を笑わせるって、凄いことだと思うんだよね。たいへんにすばらしいです。実に成長されたと思います。ありがたいことですね。

さて、それらの中にいくつか、塾での特別な体験について書かれたものがあった。

1月1日から3日まで、かなり長時間、塾で勉強をしたらしい。「特訓」と銘打つ仕方での特別カリキュラムであるようだ。

別にそれ自体は構わない。(自由だよね。)

でも、読んでいて少し発見があった。

同じ塾に通っていると思われる数名がそういった体験について書いているのだが、共通していたのは、長時間勉強したことで満足感・達成感が得られたということだった。

わかる話である。でも、それだけではない。私はこの話に既視感があった。その正体はすぐにわかる。

それは「時間をかければ学力が上がる」と妄信する人たちの話ぶりだ。

中学3年生がお正月に長時間勉強して、それに満足するというのはまだかわいらしい。でも、大学受験生になると、ちょっと事情が変わってくる。

というのは、受験に費やせる時間は原則有限なのだけれど、大学受験に限って、浪人という仕方で時間を延長する仕方を選び取る人たちが出てくるからだ。

もちろん、大学受験浪人がいけないのではない。私の知人にも浪人時代を経て、大学や大学院に進学し、その卒業・修了後に各分野で立派に活躍する人たちがいる。そうでなくても、大学浪人がいけないといういわれはないだろう。

でも、「時間をかければ学力が上がる」という妄信に囚われるのはマズいかもしれない。なぜなら、そうすることで学力を上げるのに必要な反省や分析が疎かになることがあり、結果として学力が上がらないことが多いからだ。

確認しよう。

高校受験に浪人はない。原則として。もちろん、さまざまな事情で卒業後多少の時間をあけてから高校に進学される方たちがいる。当然、そういう仕方も認められるべきである。ただ、第一志望の高校に入学できなかったら、生徒に浪人をすすめる中学校の先生や塾スタッフというのはない。それ非常に多くの中学生が中学校を卒業後すぐに高等学校に進学するからである。そういう社会の構造に拠るものだ。

しかし、大学受験の場合はそうではない。浪人という選択肢がある。再受験という選択肢も、中学校を卒業してからの再受験よりも、選び取りやすい印象があるようだ。

なんとなく、大学受験は高校受験より、やりなおしがきくように思われているのである。

もちろん、やりなおしがきくのは悪いことではない。だれだって失敗することがあるし、一度の失敗が取り返しのつかないものになる社会制度より、ある程度のやりなおしがきく制度の方がずっと良い。それに大学や大学院で社会人学生の割合が日本よりも多い国や地域というのは、たくさんある。

でも、日本の高等教育はそれとちょっと違う。日本の高等教育は職業的な意義のある教育課程が少ないのに、その卒業学歴が就職において重要であると社会で考えられている。

しかも、就職・転職産業というのは、就職活動・転職活動の期間や回数が多い人が増えるほど儲かるので、そういう事業者は求職者の就職や就業に対する不安を煽る。「まだあなたが見たことのない、出会ったことのない適職があなたにはあるんじゃないですか?」そういうことをその業界の人たちは言うのである。

そうかも知れない。でも、そうではないかも知れないのだよ。

まだ見たことがないものについて、まだ出会ったことがないものについて、それがどのようなものであるのか、そもそもそういったものがあるのかないのか、それは何とも言えない。あるかもしれないし、ないかもしれない。

そういうことになるのである。

それだって社会構造的理由に拠るのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが、この手の「適職」探しというのは長期に及ぶ不毛な戦いになりやすい。

それはネス湖でネッシーを探すようなものだからである。

ネッシーの喩えでご理解いただけないなら、理想の結婚相手で喩えても構わない。

私について話そう。

私は現にアラフォーで独身だが、私が「理想の結婚相手」を探して、ああでもないこうでもないと言っていたら、周りはどう思うだろう。

「いい年して」という話になるのかしら。でも、これは年齢に関わる話ではないのだ。私がアラサーのころにそれと同じことを言っていても、25歳前後でそういうことを言っていても、周りの方たちは「ふーん、そうなの」と思うぐらいであろうね。私の掲げる理想など、特に社会の誰にとっても重要でない。

だって、私がどういう相手と結婚するのか、それは私だけで決められることではないからだ。そういったことを一から取り付けるには、双方の合意なり、周囲の支援なり、そういったことがないと話が先に進まない。だから、ひとりだけでそういう話をしても、あまり仕方がない。とかく「理想の〇〇像」という話は、話している本人ばかりが調子に乗っていて、周りは聴いていてたいして楽しくもないし重要だとも思わないのである。

それはネッシーの存在を主張する人の話と同じである。ネッシーの存在について、それを信じるのはその人の自由であるけれど、「ネッシーはいる」と力んで説明しても周囲が「ふーん、そうなの」と言った反応くらいしか示してくれないのは、そういった「存在」というのは、社会的にしか承認されないものだからだ。その存在を主張する話し手と同じように、聴き手である側がその存在を承認しないと、話は通じない。

志望校というのも、それと構造的には同質のものである。

どのような学校・大学への入学を志そうとも、それは自由なのだけれど、入学というのは社会的行為なので、志望するだけではかなわないし、実際にその入学が社会的に承認されなくては仕方がない。

そして、そういった承認と時間とはあまり関係がない。志望校に入学できるかどうか、それはそのために費やした勉強時間の多少に拠るのではない。入学の条件が入試を通じての合格であるなら、その入試で高評価・高得点を取ることでそれが可能になるのである。

時間をたくさん費やしたからといって、そういうことが可能になる保証はない。

確かに入学試験をパスするのに必要な解答能力を手にするのには、一定以上の時間が必要である。それは外国語としての英語や外国語文のように思われる古文に慣れ親しんだり、数学や理科の問題にスムーズに解答するために必要なトレーニングを積んだり、母語である日本語で書かれた文章のロジックを追いかけられるようになるのに必要な読書量を確保したりするのに必要な時間である。

でも、そういうことをするのには、一定の能力が必要である。言語を畏れ敬い、科学的思考ができる人たちや上出来の物語に囲まれて生活する、そういう環境がそういった能力を培うのに欠かせないのである。

科学的理解を深めるためには、客観的思考を身に付ける必要が、客観的視座を手に入れる必要がある。そのためには私の声だけでなく、私でない声に耳をかたむける必要があり、私でない声を私の声として聴きとる(私が聴きたいように聴きとる)癖がある私たちは努めて「私でない声」に耳をかたむけるレッスンをしなくてはならない。

子供は物語を読み、科学的思考をする大人の声を聴きとろうとして、知らず知らずのうちにそういうレッスンを開始する。

それは意味を理解しようとすることであり、聴きとったことについて自分自身で理解できるよう頭を使って考えようとすることである。また、どこが理解できていてどこが理解できていないのか、あるいは理解できているつもりで実は理解できていないのではないか、そういったことについて確認したり反省したりすることである。

そういったことが先に書いた「一定の能力」の内実であろう。

そういった能力が充分に培われていないなら、学びながら、そういう能力を培うことから始めなくてはならない。

そういった能力がある人は時間をかけるだけ、どんどん学ぶことができるし、そうでない人は時間をかけても(お金をかけても)あまり学べない。

「時間をかければ学力が上がる」というのが妄信であるのは、そういった場合である。

インターナショナルスクールで私が担当している生徒たちについて、彼らがどういった学力・能力を備えているかは、多くの先生たちがご評価くださっている。

担任の先生が彼らの日常を見守り、適切な支援を惜しまない。

各教科担当の先生方が、それぞれの教科において必要な指導を丁寧に積み重ねている。私もそれに倣うばかりなのである。

今回、塾の特訓で長時間勉強したという体験について作文を書いた生徒たちは、意味を理解するという能力を身に付けつつある。それは私も保証できる。だから、彼らのことについては心配をしていない。さほど。

心配なのは、そういう習慣を持たないまま、大量の時間を学習に費やしている人たちである。

そういう人は「時間が足りなかったからテストで得点できなかった」「勉強が足りなかったから、試験で失敗した」という反省(?)の弁をよく口にする。

本当にそうなのだろうか。本当にそうなのだとしたら、構わない。充分な時間をかけて勉強をすればいいのだから。でも、そうでないとしたら、事態はちょっと違うのである。

実際は、どうなのか。

そういったことを判定するのに、やはり客観的思考・客観的視座は有効なのである。

未熟なうち、そういう能力や視座がないのは不思議なことではない。それなら、話を聴けばいいのである。周りの声に耳をかたむけることだ。

どちらかができれば、大丈夫。そうでないなら、少し立ち止まって考えてほしい。

あなた(あなたの周りの大切な人)は意味について考えることができていますか。誰かあなた(その人)以外の声を聴くことができていますか。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed