まだまだ続く

「現役生は当日まで伸びる」

どこかの進学校か、予備校で聴いた言葉だったと思う。

私はこのフレーズに共感しつつも、以下のような違和感を抱いていた。

①浪人生は伸びないと言うのか。
②そうだとしたら、それは本当か。
③本当だとしたら、それはどうしてか。

まず、現役生は当日まで伸びるのかどうか、これはエビデンスの取りようがない話だ。「前日」で伸びが止まった受験生と「当日」まで伸びた受験生の区別は主観的にしかできない。

そして、現役生が当日まで伸びるなら、浪人生も当日まで伸びそうなものだ。5も10もその平均の年齢が異なるわけでは集団同志で、年齢の違いによる差異があると言えそうだとは思わない。

そういうことが気になっていた。

しかし、最近わかってきた。

自分自身の成長を期待できない人は、そういうことが期待できる人と比べて、成長しにくい。

これは個人的資質による話ではなく、社会の構造的な問題だ。

才能があれば評価される、努力すれば報われるという社会構成の原理をメリトクラシーという。

生まれや出自によって将来のあり方が決定されるのではなく、本人の才能や努力に基づく能力開花の程度によって社会的地位が決定されるべきだという考え方だ。

一理ある。

でも、「私には才能がある。努力してそれを開花させよう」とか「努力するのは大変かもしれないが、努力すればきちんと報われるんだ」とか、そのように思えるかどうか、そういうこと自体が環境によって決まる。

つまり、「努力する能力」自体が万人に均等に分配されているわけではない、ということだ。そういった能力は社会的環境によって、かたちづくられる。

努力することによって高い社会的地位や成功を得ることができたと信じている人をその周囲に多く数えることのできる子供は、努力の効用を信じやすい。

一方で努力しても意味がないと強く信じている人に囲まれて育つと、子供の努力することへの動機づけは深く傷つけられる。

こういった環境が子供たちの学習などの努力へのモチベーションに少なくない影響を及ぼす。そういったことが明らかになったのだ。日本では1990年代の、教育社会学の業績である。

苅谷剛彦先生はこのような動機における格差を「インセンティブディバイド」と呼んだ。

「現役生は当日まで伸びる」という表現について、私が抱いた共感と違和感はこれで結構な説明がつく。

「当日まで」伸びるかどうかは別にして、ここで言う「伸びる」人というのは、メリトクラシカルな社会での社会的上昇が容易な人であると考えればよい。すなわち、学習の対価としての社会的地位の獲得や成功を期待することができる人たちだ。

もちろん、そういった人たちが浪人生の中にいないはずがない。(浪人生を舐めてはいけない。)また、現役生がそういった人たちばかりで構成されているはずもない。(現役生も舐めてはいけない。)

私が「現役生は当日まで伸びる」という表現について共感するのは、努力することによって高い社会的地位や成功を得ることができたと信じられる受験生はメリトクラシカルな社会で社会的上昇を果たしやすいというのは、事実であろうと思うからであり、違和感を感じたのは、上に書いたように、現役生全員がそういう動機を内面化しているはずも、反対に浪人生全体がそのような動機づけを得られていないはずも無いであろうからであり、かついずれにしても、そのような動機づけを欠いている人たちのことも考えられなければならないとも思ったからである。

どのような人たちも、なるべくそこそこ幸せに生きてほしい。私はそう思っている。そういう権利が基本的人権というものだろうと考えている。

学べる人も学べない人も、学ぶ人も学ばない人も、学ぶ機会を保障されるべきだし、上手く学べない人たちにもその機会は開放されているべきだ。

だから(だいぶ論理が飛躍するが)、学ばないとダメになるとか、学ばないと生きていけないとか、そういう脅迫めいた仕方はやめたほうがいい。私はそう考える。

「このままだとダメになる」という言い方は、弱い人を強くしない。

ダメでも良いから、何とかなるよ。できないところは助け合って、何とかしていこうね。そういう言い方が大事である。

できない人を見下すのは、自分ができないときに誰かに見下されることを容認してしまうから、良くない。

自分がすることについて、これには意味があるとか意味がないとか決めつけるのは、誰かの生き方についてそういう決めつけをしていることにも、自分自身が「意味がない」と決めつけたことをすることになる場合、自分自身に呪いをかけることになるから、やはり良くない。

そして、このままだとダメになる、と他人を煽るのも良くない。ダメにならないようになんとかしてやるか、ダメになってもなんとかいっしょに生きていくか、どちらかであろうよ。

元サッカー選手の澤穂希さんが、ある試合のあとで、後輩のチームメイトを呼んで、厳しく叱責していた。事実に基づいた的確でタイミングのよい注意の仕方だった。後になって、澤さんは「あの試合が終わった後で、すぐ言わないと、本人のこれからのためにも、チームのこれからのためにも良くないと思った」と当時を振り返った。

これは「このままだとダメになる」という言い方ではない。後輩本人の成熟を期待して、チームの成長を期待して、実際にそれに資する注意の仕方をしている。

そういうアドバイスが必要である。

子供たちの成長には、社会的構造が影響する。その影響は困難として出来することも多い。優れた先生方はほとんどその事実だけを私たちに示してくださる。そして、どうしろとかこうしろとか、そういうことはおっしゃらない。

実際にどうするかは、私たち自身の手に委ねられている。

困っている人たちをどのように支援するのか。人の成長に伴う困難と、実際にどのように向き合っているのか。

理念はいい、理屈もいい。どういうことをしているのか、それが重要である。

次の土曜日・日曜日は大学入試センター試験(本試験)である。それに先立って、一部中学入試も始まる。

私たちの塾生に対する支援は、まだまだ続く。

彼らが望む限り、彼らが塾に来る限り、できることを見つけて支援していく。

「このままだとダメになる」とは言わない。そういうことは(こういう理由で)しない方が良いよということと、では具体的にどうすれば良いのかといことだけをお話しする。

3月の最後、最後の受験生の受験が終わるまで、穎才学院の受験指導は終わらない。

そして、それが終わっても、塾生たちの成熟は終わらない。

そうでないと困る。だから、彼らの成熟を願って、決して彼らが未熟なまま留まることを願わず、また彼らが未だ成熟していないことを責めず、支援する仕事を続けるのである。

それが私の務めである。その務めを支援してくださる多くの方たちのおかげで、塾生たちの成熟が期待され、実際に支援されているのである。

大学入試センター試験まであと数日。でも、受験指導はまだまだ続くのである。できることはある。できることをすることが大切である。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed