人日。
朝起きて、七草がゆを食べる。それから、ミルクを飲んでショートケーキを食べる。
ショートケーキが好きなのだ。
洗濯をして、人心地がついたら、本を読む。
村上春樹の『1Q84 Book3』だ。同書『Book2』はマイブック、心の書である。いつもカバンの中に入っている。
Book2がマイブックなのは、専らその内容による。「青豆」という登場人物が、危機から逃れ、一時的に身をひそめる隠れ家で、清潔で穏やかな生活を始める。そして、そこで本を読む。彼女にとって(あるいはその世界にとって)重要な役割を担う本だ。そこが好き。
Book3も、もちろん良い内容なのだが、私にとってはBook2の内容の方が身体に響く。
そういう認識だった。でも、ここのところBook3を手元に置いていた。
ぜひ読みたいと思っていた。
今日、ゆっくりとそれを読んだ。そして、気づいた。
私にとって「1Q84」の物語に登場する主な人物の輪郭は、固有の声によって描き出されている。でも、その固有性が損なわれた声もある。
気づきのきっかけは、NHKの集金人を装うある人間の声だ。
この人間が誰なのか、どんな姿形をしているのか、物語の登場人物には、はっきりとわからない。
でも、それが普通でないことはわかる。
それは言っていることがおかしいということではない。言い方が常軌を逸しているのである。
異常に執拗で、大変に暴力的であることがわかる。それでいて慇懃。
「1Q84」の主題のひとつ(この場合「主題」はひとつではない。)は、邪悪の出来である。
そして、その邪悪の退け方、いわば邪悪という毒に対するワクチンの取り扱い方も、物語の主題のひとつである。
「1Q84」で邪悪なものは、声を持ち、加えて何かしらメタフォリカルな表象を伴ってあらわれる。
それらの声の語りは、慇懃で論理的でもあるが、話し方にどこが異常に執拗なところがあり、注意して耳を傾けると、暴力的な言い方をしているのがわかる。
気をつけなくてはならない。
ただ、その声からは微妙に(あるいは決定的に)固有性が損なわれている。
「1Q84」を実写化するとしたら、難しいのはここである。
「リトルピープル」を始めとした、邪悪なものの声を表現するのが難しい。
リトルピープルもNHKの集金人も、脇役には違いないのだが、その声だけを演じるのに、ものすごく力がいる。
たぶん、演じる役者は相当な体力を消耗することなるだろう。
(他にも実写化の困難は多々あるが。)
人の話というのは、内容以上に声が肝心ということがある。
それはイケボ(声がイケメン)であれば良いというだけのことを言うのではない。
邪悪さというのは、不意に私たちに宿る。私たちの身近にあらわれる。
父親でも、同僚でも、友人でも、恋人でも、
そういうレベルの身近な人のところに急に邪悪さが出来する、ということがある。
警官、駅員、図書館員、市役所職員、ヤクルトレディー、NHKの集金人、そういうレベルの身近な隣人の格好をして、邪悪なものが立ち現れることがある。
そういう邪悪なものの発する毒に対して、私たちは抗体を保有し、それを無効化しなければならない。
そうしないと、私たちが毒を持ち、邪悪なものと化してしまう。
「1Q84」の物語世界は、そういう仕組みになっているのである。
そして、多くの人たちが実際に生きる世界も同様の構造を有していると感じている。
「1Q84」の登場人物の多くは固有の優しい声を持っている。
青豆も天吾も、タマルも麻布の老婦人も、そういう人たちだ。
彼らは決して常に正しいのではないが、悩みながら、迷いながら、場合によっては間違えながら、何か大きいものに突き動かされるような仕方で、強い意志や信念をもち、日々を生きている。
でも、邪悪な声は違う。
彼らは彼らの考えを述べるているように見える。それは「正しい」ように聞こえる。でも、その声は彼らの固有の声ではない。固有性が失われた、その意味で全体性を帯びた声である。そして、その内容も。
信仰とファシズムの違いは、本来おそらくここにある。また同じ理由で、ファシズムと信仰とは結びつきやすい。
正しいことを言っていても、その声はいったいどのような固有性について語っているのか。
たとえ、どこか間違っていても、固有な声は何を語っているのか。
そういう声の違いに注意を欠かさないことが重要である。
何を言っているかではなく、どのように言っているかが重要なことがあるのだと思っている。
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