棋士のなかには、脳内に将棋盤があるという人がいるという。

私は棋士ではないし、親炙する棋士もいないので、あくまで聞いた話だが。

脳内将棋盤というのは、将棋の読みに関するメタファーで、その仕方を視覚的にイメージしたものだと思う。

紙に字を書くという仕方は、私たちの学習において重要なことなのだが、人類がそういうことをし始めたのは、人類史上、ごく最近のことである。

だから、紙でもタブレットでも、平面状のものに文章や数式といった記号を書き付けて、それによって概念や論理を(場合によっては「丸い四角」のようなナンセンスをも)立ち上げるというのには、手間と時間をかけたトレーニングが必要である。

それを一定程度まで社会的に保障しようというのが公教育の役目のひとつだし、そういった概念や論理、あるいはナンセンスの理解や取り扱いに人間の育つ環境の諸要素が社会的に影響するということを明らかにしたのが、20世紀中ごろの社会学である。

もちろん、そのとおりである。

でも、紙に書くのが難しい仕方のイメージというのがある。

ジョンレノンの名曲や東京ディズニーシーのキャッチコピーから言葉を借りるなら、それはイマジネーションだと言ってもいい。

イマジネーションというのは、荒唐無稽なファンタジーを想像するだけの能力ではない。

イマジナリーな仕方でないと上手く想起できないロジックというのがある。

ご存知のとおり、紙上で三次元の構成を立ち上げるのは難しい。原理的には無理である。

その無理を二次元的な仕方で可能にしようとしたのが、絵画芸術であり、文字で記された文書や数式だろう。

今日、生徒と解いた算数の問題は三次元的な構造を持っていた。

立体図形の問題ではない。

推理系のロジック問題で、何曜日に誰々さんが誰と何処にいたという断片的な情報から、実際にあった事態を推理する。

実によくできた問題だった。でも、この問題、紙の上だけで説明することができない。

それはある立体と展開図との関係に似ている。

紙上に描かれた展開図を見て、展開される前の立体を思い浮かべるという作業だ。

そうすると、平面上ではつながっていないように見える箇所が立体上ではつながっていることがわかる。

展開図をつかって立体についての説明が上手にできる人には、その元になる立体が見えている。

それは推理小説における探偵の仕事を同じ仕組みである。

探偵には事件の痕跡しか知らされない。しかも、それは断片的なものだ。探偵はその断片をつなぎあわせて、元にあった事件のありようを推理する。

ある立体の展開図が一通りでないのと同じで、推理小説における事件の痕跡の記され方も、決して必然ではない。たまたま、そういう仕方で断片的に痕跡が残っているだけだ。

事件は起きてしまったのだから、探偵はそれに基づいて、つじつまがあう一篇の推理を提出しなくてはならない。

その答えに向かって、目の前に展開している断片的な痕跡同士の接点を見つけていくのだ。

そのトリックや犯人が明らかになってしまえば、それは実に単純な話である。たいていの場合。

でも、それが明らかになるまで、私たちは名探偵といっしょにその事件の推理を楽しむことができる。

どこか適当(=いい加減)なところを起点であると決めつけ、そこから順番に、適当(=いい加減)な仕方で話をつなげていっても、謎は解けない。どこかでつじつまがあわなくなってしまうのだ。推理小説で間違った推理をする登場人物(たいていは探偵の顔見知りであるヘボな警部)は、真っ先にそういう当て推量を行い、探偵にその論理的瑕疵を指摘される。

この当て推量の仕方を「前進的推理」(reason forward)と言う。

この前進的推理、普段使いに便利である。

例えば、A地点からB地点に移動するとき、この電車に乗ったら何時くらいに何駅について、そこで乗り換えて、B地点の最寄り駅までさらに何分くらいかかる、そういうことを私たちは日常的に考えているが、それは前進的推理である。未来のほとんど予定通りに遂行されるであろう事柄について、私たちはそういう推理を行っている。

でも、立体的な推理はそれとは異なる。

ある出来事があったとして、その出来事があったからにはその前段にどういったことがありえたのか、そういったことを遡って推理するという仕方だ。

これは「遡及的推理」(reason backward)と言う。

ここで私たちに影響を及ぼすのが時間である。

探偵は実際におきた事件について、事件のありようそのものを見ることができない。それは既に過去の出来事だからだ。

だから、探偵は脳内でそれをイメージする。エルキュール・ポワロは「灰色の脳細胞」を駆使してそれを行い、ガイ・リッチー版の映画「シャーロックホームズ」では脳内のそういうイメージ展開を「シャドウゲーム」と言っていた。

棋士たちも、盤面の先を読むときに、終局図を先に見ることができない。それはまだこの世のどこにも現れたことのないものだからだ。

だから、彼らは脳内でそれを幻視する。

時間の制約があるから、私たちはそれらを直接に見ることができない。そして、そういった出来事は、電車のダイヤのように予定通りに遂行される出来事ではなく、まだ誰も為したことのない、誰も見たことのない出来事だから、脳内で幻視するしかないのだ。

それは私たちが夢見る仕方と同じである。

私たちは人生について、まだ見たことのないものを幻視する。それは「宝くじで6億円当たったら、どうしよう」とか「ドラえもんの四次元ポケットが使えたら…」とか、そういうことではない。私は何年後にどこでどんな人とどのようなことをしている気がするか、そのとき私はどんな場所に住んでいて、何時に起きて誰とどんな朝ごはんを食べていて、どのような仕方で家をでるのか、そういったことまで込みで具体的かつ詳細にイメージするということである。

そのような「幻視」は実現する。

私は毎朝7時半に起きて、まずはのんびりとお風呂に入ってから、テレビで「MOCO’Sキッチン」を見ながら、朝食をつくる。朝食には必ずトマトのサラダとてづくりのコーンスープが付いていて、その日の気分でトーストにぬるバターやコーヒー豆の種類を変える。

そういうことを幻視するのである。そうすると、実現する。高い確率でね。

だから、やっても無駄だとか、どうせダメだとか、思わない方がいい。そういうネガティブな幻視もやはり実現してしまうのだ。

棋士が投了するのは、敗局の終着点が見えてしまったからである。見えてしまったものは、どうあがいてもそうなる。その対局ではもう、負けてしまったのである。

でも、彼らの将棋は負けで終わらない。「負けました」の後に、その将棋について、相談・検討が行われる。感想戦というやつだ。それはその先に、次の対局があるから。まだ見ぬ「勝ち」があるから行われるのだ。

彼らは終局のさきに、さらにまだ見ぬ対局があるから、まだ見ぬ局面があるから、将棋をさしつづける。それが棋士にとっての幸せ。(そうなんじゃないかな。棋士じゃないから、想像だけど。)

探偵はしょっちゅう事件に巻き込まれるが、それは探偵が呪われているからではない。

探偵にとって、事件を解決するということは「そこそこ幸せに生きる」ことそのものなので、彼らは事件に巻き込まれるべきなのである。事件を解決するために。(まあ、その度に殺されたり、盗まれたりする誰かがいるのは、実に気の毒なことなのだけれど。)

私たちはみんな探偵なのでも、棋士なのでもない。

だから、私たちは事件を解決しつづけるわけでも、将棋をさしつづけるわけでもない。

私たちが何をしつづけるのか、それは私たちが決める(あるいは気づく)ことでもあるし、私たちではない何かが決定づけることでもある。

I am where I am meant to be.

そう思えることが、私たちの幸せ。

その始まりは、たいていI want to be…である。他者の欲望を欲望したのではない仕方でのI want to be…。

そういう仕組みになっているのである。

無料体験授業お申し込みはこちら
穎才学院本郷校のご案内はこちら

Comments are closed