三が日が明けました。いわゆる松の内が明けるのには、まだしばらくありますが、4日から仕事初めという方も多くおられたでしょう。

みなさま、良いお正月を迎えられたであろうと思います。

私は自宅でのんびりしておりました。例年、好きなDVDを観たり本を読んだりして、三が日を過ごします。

今年はドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観ました。初見ではありませんが、やはり面白いドラマですね。良い作品だと思います。最近の民放テレビ番組のなかではめずらしく、観ていて気持ちが温かくなる番組だと思います。

いわゆる「逃げ恥」が大ヒットしたのは、もう一昨年(平成28年)のことです。作品がヒットする理由は決して一つだけではありませんが、「逃げ恥」がヒットした理由のひとつは、それを観た多くの人たちがドラマを通して温かい気持ちになったからではないでしょうか。私はそのように思います。

「逃げ恥」は多様性の物語です。それは原作のマンガもドラマも同じです。

みくりさんも平匡さんも、百合さんも風見さんも、沼田さんもそれ以外の人たちも、みんな違う。

自分のことが嫌いだったり、自尊感情が低かったり、加齢をどこかで恐れていたり、自分のことがよくわかっていなかったり、臆病だったり、みんな違うんです。

まあ、みんな不器用なのは一緒かな。

そんな私たちがあまり拘らない方がいいこと、それは「役割分担」です。

ドラマの最終話で、みくりさんと平匡さんは家事分担をします。これが上手くいかないんですね。

みくりさんは「自分が家の外で働きだして、仕事としての家事に専念できなくなったから」と思いこみました。平匡さんは「自分が家事に慣れてなくて、うっかり家事を忘れてしまうから」だと考えました。

いいえ、違います。正確に言うと、半分は当たってるけど、半分は間違ってます。

みくりさんの言うように、そういう風に説明することはできる。でも、そう説明したからって、何も解決しないんですよね。そういう説明の仕方をすると、家の外での仕事をやめるか、家事を誰かに頼むか、そういう発想しかできなくなります。

そうです、最初のころの平匡さんのようにです。平匡さんは仕事をしないなんてことはありえないし、そうかと言って家事は負担だし、だから家事をアウトソーシングすることにしました。そこにうっかりやってきたのが、仕事を失って求職活動中、かつ住処も探すはめになるみくりさんでした。

平匡さんは、家事をしようとしなかった。みくりさんは、家事を仕事だと考えた。そして、ふたりはひょんなことから、いっしょに暮らしはじめる。そうするうちに、互いに対する愛情を認識できるようになって(二人の間でそのタイムラグは大きいものでしたが)、ふたりは次のステージにすすみはじめた。

次のステージというのは、家事が双方にとって仕事であり、仕事でなくなる、そういうステージです。

どちらかがやらなきゃいけない、でもどちらかだけの仕事でもない。そういうのが、ここでの「家事」なんです。

「私がやる」とどちらかが宣言しても、そのどちらかだけでは上手くいかない。どちらかが失調しているときに、それを放っておくと、家庭はカオスの淵へと飲み込まれる。

どちらも、それぞれ相手のために、何かをすすんで成し遂げる。

それが家族における家事のあり方だと思います。

家事というのは、食事の用意や洗濯やふろ掃除のことだけを言うのではありません。家庭を二人以上の人間で営むこと、それ自体が家事です。

長らく、家庭というのは異なる性別のパートナーシップにより営まれるのが当然であり、その内の職掌は社会的に要求される各性別毎の役割によって決められてきました。それがまさに「当然」であったのです。そして、そういう当然がたくさんの抑圧や搾取を生んだことも間違いありません。その意味で、その権利の拡張が求められる側があり、実際にそうなるべきであることは間違いありません。

しかし、それは家庭内での役割を徹底的に区別しろ、ということではありません。

むしろ、徹底的に区別すると、それはアンフェアな区別でも、フェアな区別でも、上手くいかないのです。

そもそも、私は「男は〇〇だ」とか「女は××だ」とかいう、区別が好きではありません。上手い仕方ではないと思っています。それは「〇〇」「××」であることと、「男であること」「女であること」とは必ずしも関係が無かろうと思うからです。そして「男である」とか「女である」とかいう区別は、一般的に生物学的な仕方で確認できる区別とは、たぶん違うからです。社会的に「女」とか「男」とか言うとき、それは生物学的な雌雄の区別と全く同じことを言っているのではないでしょう。だから、そこでいう「女」というのが何なのか、「男」というのが何なのか、そういったことはその都度、確認しなくてはならない。結構、手間のかかる作業です。だから、「男は〇〇だ」とか「女は××だ」とかいう区別は上手くいかない。多分。

でも、私は「男は〇〇だ」とか「女は××だ」とかいう区別をする人がいても、いいと思っています。私はそうは思わないとか、異論を表明することはあっても、その考えを私の好みに改めようとは思いません。もちろん、そういった区別(ていうか差別)によって、搾取や抑圧といった暴力的構造が発生するなら、それは社会的に是正されるべきです。(現にそういう構造が多く発生しています。)でも、それは周りの人の考えを改めるということでも、改められるということでもない。差別はいけないのだけど、それは差別する人がいなくなるということでも、差別を無くせるということでもない。それらは同じことではありません。

そういう、味噌もクソもいっしょにするような仕方は上手くない。

「男は〇〇だ」とか「女は××だ」とかいう仕方で差別されることがあります。それはよくない。それは女も男も、その固有性が踏みにじられるからです。「女」という言葉では言い尽くせない何か、「男」という言葉に還元できない何か、それがお互いにあります。それぞれにあります。

だから、男と女は同じではないし、そもそもその区別がよくわからないことも多いし、そのどちらかであるという住みわけが上手くできないこともある。

まず、それぞれの固有性は大切にしなくてはならない。私たちは多様なのだから。私たちは言葉でものごとを抽象するのが好きだから、「女」「男」という言い方で色々とわかった気になっているけれど、そこでどういった抽象と捨象が行われているのか、それはその都度、考えた方がいい。現実や実際に即して。

そういう理由があって、他にもいろいろな具体的条件や制約があって、家庭内で役割を区別しようとしても、まあ上手くいかない。それは社会的性別役割に基づく差別的な分担でも、そうでないボーダーフリーな分担でも、徹底的に役割を区別して、パートナーの不調や具体的状況を顧みないのであれば、いっしょ。

大切なのは、上手くいかないときに、自分の分掌を越えて、役割を越えて、相手を助けることであろうよ。あるいは相手に助けられることであろうよ。

誰かに助けるなと言われても、その人を助けるのが私たち。そういうもんじゃ、ねえのかい。

みくりさんと平匡さんは、二人の生活が新しいステージに進みだしたとき、話し合いによって、二人の家庭である「303号室」の家事分担を行おうとしました。クリアーな仕方で、作業や負担を区分して。

それで実際に生活してみて、上手くいかなかったら、また話し合いの場に臨んで、もう一度、分担を考え直しました。

もちろん、そういった仕方が間違っていたわけではありません。でも、そういった仕方だけでは、家庭は上手く営めなかったのです。

ドラマ最終話の演出はたいへんに興味深く、その話し合いのシーンで使用されたBGMは当年の大河ドラマ『真田丸』のものでした。群雄割拠の戦国で、知略を尽くし、戦場を奔走して、生き残りを図ろうとする真田家のBGM。

そう、戦争なんです。家事の分担は結局、戦争と同じ。ここは私、そっちはあなた。そういう分担をしたら、上手くいっていない方と上手くいっている方とが出来てしまう。上手な方と下手な方ができてしまう。それは戦であろうよ。そういうことを暗喩した演出だと言えます。

ドラマ最終話では、多くの人たちの固有性が承認されて、大団円となります。多様性の物語にふさわしい、温和なカタストロフです。そこではそれぞれの登場人物がそれぞれの固有性を受け容れたり、仲間やパートナーの固有性をそっと認めたりするのですが、詳しくはドラマ本編をご覧ください。

ただ、ひとつだけネタバレをすれば、そのおおぎりで流れるBGMが「恋」のストリングス&ピアノアレンジです。

星野源さんの「恋」、実に多くの方が聴いたことのある楽曲です。あの楽曲の魅力は多岐におよびますが、そのひとつはコードの複雑さだと思います。よく曲を聴いてみるとわかるのですが、実にたくさんのセブンス系コードが使用されています。ざっくり言えば、セブンス系コードというのは長調と短調のハイブリッド、キマイラ(キメラ)です。

ギリシャ神話に登場するキマイラ(Chimaira)は山羊やライオンのミックス。「恋」にたくさん登場するセブンス系コードは、メジャーとマイナーハーモニーの混合です。

またメタフォリカルな話になりますが、このつくりは私たちの生き方をよく表現していると思います。

「人生楽ありゃ、苦もあるさ」というのは水戸黄門のOPですが、実際には「楽と苦」のキメラが私たちの日常です。

それはパートナーとの生活でも、同じだと思います。パートナーも私たちも陰と陽、善と悪のミックスとして出来ている。だから、割り切れない。決まり通りにいかない。それは決まりがいらないという意味でも、ただ訳が分からないという意味でもなくて、訳の分かるところと分からないところがある。決まりがあった方が便利な部分と、決まり事とは別にボーダーを越えなくてはならない部分とがある。そういうことだと思います。

みくりさんと平匡さん、その少なくともどちらかがボーダーを越える限り、二人の生活はそれなりに幸せに営まれることでしょう。

ルールは大事だけど、ルールだけじゃダメなんだよー。なぜなら、ボーダーの越え方はルール化できないから。

そういう話だと思います。

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